18話
「――あぁ、永新。どうやら勘付かれたようです」
その体に通う血が赤々しく艶めく唇を震わせ、喜色を示して奮える声を漏らすのは、身に纏うものを選ぶような赤と金の刺繍が全身を這う白い着物に身を包んだ女性。
この世の物とは思えない程に美しく整った顔面を綻ばせる様子は、老若男女問わず魅了してしまえる芸術品と言っても過言ではない程に極めて精巧。
そんな女性に後ろからしなだれかかるように抱き着かれて耳元で囁かれる、と言う万人から嫉妬の対象にされかねない行為を一身に受けるのは、十五歳になったばかりの少年。他ならぬ、燼月永新その人だった。
「……どうでもいい。それよりもだ、白。本当にこれで、俺の願いは叶うのか? この六年間、俺は今日この日の為に生きて来たんだ。誰であろうとも、俺の邪魔などさせてなるものか」
白。
そう呼ばれた女性は、六年と少し前に母親が亡くなったあの日から、永新にとって彼女は第二の母のような存在だった。
傷付き、壊れ果てた永新に、唯一手を差し伸べてくれた人。
これ以上傷付かないように、優しく包み込んで守ってくれた人。
生きる意味を見失った永新に、新しい目標を与えてくれた人。
もし仮にあの日、永新が白に出会えていなければ、永新は十五歳の自分に出会う事は疎か、九つの誕生日を迎える前に命を絶っていただろう。
だがしかし。
永新にとって命の恩人である白の事を、永新は詳しく知らない。
彼女がどのようにして倶利伽羅達の動きを知るのか、彼女が暮らすこの白い神社の事も、何も知らない。
そもそも彼女が何者であるのかすらも知らぬままこれまで彼女と共に生きて来た。
ただ、白が倶利伽羅ではない事は薄々感づいており、それでも永新は彼女と共に居る事を選択してきた。
それは「白に脅されているから」……などと言う簡潔で下卑た意味でもなんでもなく、単純に永新自身が白と共に居たいと願ったからであった。
学園は疎か、以前とは真逆に永新の顔色を伺うようになった父親と暮らす燼月家は極めて居心地が悪いが故に。時には家に帰らない日が続く事もあり、そのような時は決まって白と共にこの白い神社の御社にて二人きりの時間を過ごしていた。
白と居る時だけは永新は失ったと思われていた笑顔を浮かべる事があり、その時間だけは永新にとって心休まる時間となっていた。
ただ、永新の傷付いた心がもたらす後遺症として、永新はあの日以来まともな味覚が機能しなくなっていて、永新にとって食事の時間と言うのは、泥を貪るような感覚に等しかった。
始めて白と共に取った食事の際に吐いて以来、何も悪くないはずの白が頻りに謝罪を口にするようになった事だけは、今でも永新には理解できない事の一つでもあった。
「……永新。後悔は、していませんか?」
「後悔なんて、死ぬほどしてきたんだ。今さら一つや二つ増えたところで、悔いる必要すら見出せない」
慈しむ白の言葉に、永新は肝の据わった返答をする。
そして、自分の体に掛かる彼女の手を解いて、衣服を脱いでいく。
そうして露わになるのは、並み居る同年代の倶利伽羅の中でも極めて突出した肉体。
十五を数えた永新は、幼さを捨てた精悍な顔付きを見せ、若さの隆盛とも言わんばかりに弾ける筋骨は霊力に満ち満ちていた。
永新が当然脱衣し始めたとて、お互いの裸を知る白は欠片も動揺せず、永新の弛まぬ努力が作り上げた至上の作品を静観するのみ。
この六年と少しの時を経ても尚、永新の霊力は上昇を見せる事は無かった。
今でも破魔弓術の初級を三発撃てば霊力切れを起こして酩酊するため、白の下で永新は霊力を伸ばすと言う目標は早々に見切りを付け、肉体の鍛錬に注力し続けた。その結果、身体技能の面において世代筆頭たる火加々美甘奈をも凌駕する成績を収めた天炎晴也の肉体をも、遥かに凌ぐまでに絞り上げられた肉体を永新は手にしていた。
御社の中は冬の盛りであると言うのに寒風の一切が侵入してくることはない。
裸になった永新の肌は、天井から吊るされた火種が放つほのかな熱と、白の体温が優しく包み込むのみ。
「これで……。これで本当に、俺は母様に会えるんだよな」
その二人が見下ろす先。
御社内部、部屋の中心にはまるで浴槽のような窪みが存在しており、そこには今、黒々とした赤に染まる液体が満たされていた。
「……一万体の、妖魔の血。本当に長かった……! やっと……、やっと母様に、謝ることが出来るな」
その液体の正体は、永新が口にしたように、人間に仇なす存在たる妖魔の血。
死んでから時間が経っている今でも生命力を失わずに、宿主を求めるかのように蠢き続ける悍ましい大量の血液。
そして、永新がこれを集めるに至った、生きる理由。
それは全て、あの日に永政から叩きつけられた言葉が楔となって、永新の胸に残り続けていた。
――お前が、母を見殺しにした。
その言葉は永新に深い罪悪感を植え付けるには十分で、白との邂逅を経ても尚、永新が前へ進むことを許さない足枷となっていた。
永新は白に母の面影を見るのだが、当然白は母では無いし、死んだ母が生き返るはずも無い。白との出会いで辛うじて命を繋ぎ留めた永新であったが、このまま理想と現実の狭間に揺れ続ければ、いつ再び精神が崩壊してもおかしくはない。そう考え、自分のモノにした永新を手放してなるものかと考えた白は、彼を陥れた手法と同じ手を用いる事にした。
『大量の妖魔の血を集めることが出来れば、お母様を呼び起こす事くらいは出来るでしょう』
それを可能とする霊術を行使できる、とそれとなく嘯けば、永新は瞬く間にやる気を奔らせる。
座学において無知な永新は白の言葉を一切疑うことなく信じ込み、白の言う通り活動を始めた。
博識な白から様々な知見を授かり、生まれて初めて最下級の妖魔を滅したのは、八歳の最後の日。即ち、永恋の誕生日だった。
破魔弓術中級を修めた者から「倶利伽羅見習い」として扱われるのだが、永新はそれにすら到達していない。俱利伽羅見習いですら、正式な倶利伽羅と一緒でなければ霊力の行使を禁じられていると言うのにもかかわらず、永新はその程度の禁足事項など意に介した素振りすら見せなかった。
賢く穏やかだった頃の永新であれば二の足を踏んでいたのだろうが、度重なる不幸によって擦り減った永新の心は最早正常に作用する事はなくなって、他者を顧みる心など忘れてしまったかのようであった。
その上、生きる意味を、生きる上での目標を与えられた永新は、まさに水を得た魚が如く止まる事は無い。今まで抑え込まれていた衝動が体を突き動かすかのように倶利伽羅に課せられた禁足事項を破り、白の教えの下、霊力が尽きるまで最下級の妖魔を狩って、狩って、狩り続けた。
白が永新に集めるよう提示した妖魔の血の量は、本来であれば【中級】から【上級】の妖魔であれば十数体で到達する程度であったが、当然、永新にそんな強大な妖魔を倒せる実力は無いし、中級や上級の場合は同じ倶利伽羅と相まみえる必要が出てくる為、永新にそんな真似は出来なかった。
故に、永新が問題無く倒せる範疇の強さかつ、他の倶利伽羅の邪魔が入らないと言う手頃の妖魔、と言う条件で白羽の矢が立ったのが【最下級】と呼ばれる倶利伽羅でさえも問題視しない程に弱い妖魔。
中級から上級の妖魔から採れる血の量に換算して「一万体分」と算出した結果、こうして六年以上もの月日が経過したのであった。
「今日まで、本当に長かったですね」
「俺がここまで来れたのは、全て白のお陰だ。白と一緒に居る時間だけは、罪悪感に押し潰されることは無かった。もしもあの時白に会えていなかったら、俺はあの時に死んでいた。そんな俺の命を拾ってくれたのは他の誰でもない、白なんだ。本当に、心から感謝している。……ありがとう」
「――っ。嬉しい事を、言ってくれますね……!」
「白も、そんな顔をするんだな。長い時間共に居たつもりだけど、まだまだ知らない顔がありそうだ」
「……そんな言葉、どこで覚えたんですかね?」
「教えてくれたのは、白だろう」
人間の本質とは、そう簡単に失われたりしない。
あの日にあれだけ辛い目に逢っても尚、永新は白を疑う事をせずに、素直な気持ちを口にして優しく微笑む。今では白にしか向けられる事のなくなった、無邪気な笑みを。
「……そう言えば、この場所は誰にも見つけられないんじゃなかったか?」
「本来であればそうなのですが――」
永新と白が居るこの場所。
白い神社は、白が言うには「この場所を真に求める者にのみ道が開かれる」との事で、過去には永新が妖魔を討滅する行為を見つけて後を追った倶利伽羅を撒くためにこの土地を利用した事もあるくらい、この場所は不可侵の領域であった。
そんな場所にいる限り、誰にも邪魔されることは無いだろうと思い至った永新が口にするが白は冷静なまま言葉を続ける。
「――いるでしょう? 永新、貴方を真に求める彼女が……」
「……永恋か」
白の声で、永新はやっと今日が「約束の日」だと言う事を思い出すが、すぐに頭から追い出す。
最早風化した思い出となったそれに価値は無く、永恋にとってもそれは同じ事だと考えていたから。
永新はこの六年と少しの間、実家で過ごした時間は非常に短く、着替えと寝る為だけの場所としか認識していなかった。その上、永新は自分宛てに手紙が届くなどとは思ってもおらず手紙の確認などするはずもない。故に、永恋が送り続けていた手紙は永新の元には届いておらず、永新とどのように関わったらいいのか手探りのまま終わった永政が大事に保管し続けているばかりであった。
もし仮に永恋の手紙が永新に届いていれば――。
二人の関係はもっと変わっていたのかもしれないが、現実は無常にも二人を引き離したまま時は流れていくばかり。
「……さっさと始めよう。ここに、入ればいいんだな?」
「えぇ。肩まで浸かって、静かに目を閉じて」
ありえたかもしれない未来など、永新にとっては何の価値も無い。
全てはあの日、あの日に至るまでの日々で全てが決まっており、永新は自ら白と共に居る事を決めた次第。故に余計な思考を振り払って、永新は一万体の妖魔の血溜まりに向かって足を踏み入れていく。
血溜まりに足を踏み入れるなぞ、常人であれば卒倒しかねない感覚。
最下級の妖魔と言えども霊力の一端を担う存在である以上その血に霊力は宿っており、それが一万体ともなれば指先が触れただけでも痺れるような感覚が全身を駆け抜ける。
それでも永新は自分の願いを叶えるべく、肉に触れて沸騰するかのように纏わりついてくる血の塊に、苦しみ喘ぐ声を漏らしながら右脚、左脚と入り込んでいく。
――ズプズプズプ。
底があると分かっていても不安になるような深さと、身体を突き刺すような激しい痛み。
それに耐える永新は腰を沈め、胸部、そして肩まで血溜まりに沈めていく。
「――うっ……。くっ、うぅ……!」
沈んだ腕を持ち上げようにも、動かす度に纏わり付いた血の塊が激痛を生じさせる。
その感覚は全身に枷をつけられ拘束されているかのようで、四肢の端々から失せていく感覚は、まるで自分の体が妖魔の血に溶けていくような気味の悪さが永新の胸を占める。
「……大丈夫よ、永新。さぁ目を閉じて……、ゆっくり呼吸をするの」
けれども、頭上から聞こえて来た白の声に永新の頭は澄んでいく。
――浄滅の炎が弱まる時、黒き焔が産声を上げる。
額に玉のような汗を浮かべる永新を他所に、白の祝詞が御社を超え、神社に満ちていく。
白が言うには、永新が亡くなった母親と会って謝罪を口にする為には、永新の体を母親に近付けるのだと言う。母親を降ろすには数多の条件が必要である一方で、永新の体を母親に近付けるのであれば条件は緩く、容易いのだと言う。その為に、母親の居る死後の世界、あの世に最も近い幽世に住まう妖魔の血を集め、その身を堕とすのだと説明されたのだが、永新はこれが俗に言う「外法」である事を承知の上で白に縋っていた。
それが永新の生きる理由である以上、例え過程が今以上に道に逸れたものであったとしても、永新は躊躇うことなく歩んでいたに違いない。それくらい、永新にとってこの願いと言うのは唯一無二の存在であった。
――堕つる火花。舞いし塵芥。有象無象が刹那に笑う。
祝詞が進む毎に浸食されていく体は、妖魔の血溜まりで溺れてしまいかねない。
全身が軋むこの感覚は、過去に一度だけ味わった事のある感覚。
無謀にも破魔弓術の初級も満足に使えない身で中級に挑んだ結果、身体の奥から食い破られてしまいかねないような、狂いそうな程の霊力の昂ぶり。
――マドハーラルの書、往き律する眼、蔓延る深淵。
次第に白の口ずさむ祝詞は速度を上げ、声が重なって聞こえてくる。
それは今まで耳にしてきたどの声よりも耳障りで、自分が書き換えられていくかのような感覚に藻掻き苦しむ事すら許されない。
頭だけでも振り乱してくり染みから逃れようとする永新に対して、白は口ずさむ祝詞を中断させて永新の頭を抑えつける。
祝詞が止まった事など最早どうでも良くて、少しでも苦しみを逃がそうと藻掻く事すら許されないのかと目を見開くと、眼前に広がるのは白の真っ白な肌。
「は、ハクっ、もう、俺は、――んむっ……!?」
両手で抑えられた手は永新の抵抗を許さずにピクリとも動かせず、目を細めて近付く白は永新に口づけを施す。
柔らかな唇が押し付けられる感覚に落ち着きを取り戻した刹那、白の口から唾液とは別の何かが流し込まれて永新は噎せ返す。それでも白は流し込むことを止めずに、永新は溺れるようにして流し込まれる液体を胃に下さざるを得ない。
最後に永新の口周りを舐め取るかのようにして離れた白は、艶めかしくも歪な笑みを浮かべ、溜め息と共に永新の頬をなぞる。
「今日まで本当に、長かったですね……永新?」
泡を吹く永新が朧げな意識の中で耳にした白の声は先程とは打って変わって悪意に満ちており、全てが上手く行ったことを喜んでいるかのように聞こえた。
艶やかに嗤う白の様子は明らかにおかしく、今の状況でそうやって嗤う姿を、永新の薄くなっていく意識は瞬く間に記憶を浚い、思い当たる節を引きずり出す。
それは決して忘れる事の出来ない、あの日の景色。
これまでとこれからの企てを自慢げに披露する四家と、絵麻の姿。
「――あ゛、ぁ……! ア゛ァ゛アア……ッ!!!!!」
「――まぁ……! まぁ……ッ!! そうです、その通りですっ! 私は貴方を利用し、騙したのですよ……! ですからふんだんに……、苛烈に……、情熱的に――ッ!!!!」
消えゆく意識の中、永新は胸に灯る憎悪と怒りの感情のままに身体を動かして、重く圧し掛かる血の塊をも跳ね除けて右腕を振り翳す。
本来であれば動くはずのない体。動かせるはずも無い体。その光景を目の当たりにした白は増々目を輝かせて身を捩る。
けれどもその手も、すぐに力尽きたかのように再び血溜まりの中に引きずり込まれていく。
――騙したな。
その声を叫ぶ事すら許されず、永新の意識は血溜まりに沈んでいくのと同じくして落ちていく。
頭の先までが血溜まりに沈んでいく最中、聞こえるはずのない白の声が囁くように耳に色濃く残って聞こえてくる。
『――私を、殺してください』
視界が妖魔の血で埋まって、頭が妖魔の血液で侵食され始める。
それは言いようのない悍ましさと恐怖に支配され、白の言葉の意味を考える暇など与えられない。
加えて、体が裂けていくような激痛に苛まれていると言うにもかかわらず、血溜まりの中では叫ぶ事も藻掻く事も許されない。
――裏切ったな。
最後まで抵抗していた意識が途絶える刹那。
永新が最後に抱いたのは、純然たる怒りの感情。
最後に信じると決めた白に騙され、裏切られた絶望は一入で、過去の傷跡を更に修復不可能なまでに抉られて過去に抱いた感情を遥かに凌駕するほどの激情が永新の体を満たしていく。
そして、その激情は過去にくべられた憎悪の記憶を糧に更に激しく燃え上がる。
この道を選んだ事に後悔も無ければ反省も無いのは事実。
けれども、それらを含む永新の心を、感情を、覚悟を足蹴にして嘲笑った相手を決して許しはしないと心に誓って、永新の意識は潰えていく。
かつて、自分の心をも押し殺して誰かの為に生きることが出来た心優しかった青年である燼月永新はこの日真なる意味で死を迎えるのであった――。
「――誕生日おめでとう、永新」




