15話
――ただいま。
その一言でさえも口を開くのも億劫で。
この日、永新は一度たりとも欠かしたことがなかったその挨拶を口にすることが無いまま帰宅する。
ようやく返事が無い事を理解したからか、それとも心の疲弊からそれを口にするほどの余裕すら残されていないからか。
あの後、永新の後を追って教室を飛び出した絵麻、七星、晴也の三人は永新の影を踏む事すら出来ずに学園の周辺を彷徨っていた。後を追われる、など考える事さえも苦痛だった永新は、この二年の間で開拓した人の目を避けるルートを駆使して帰路についたため、彼らの目に永新の背中が捉えられる事は無かった。
燼月家の所在地を知るのは学園の関係者かもしくは永恋のみであり、両者共に永新への仕打ちを知った暁には自分達にどんな処罰が、災いが下るかも分からない為、それらに頼る事など出来ないのであった。
「……」
鞄を引きずるようにして帰って来た永新は、虚ろな様子で階段を上って自室へと向かう。
本来であれば真っ先に母親の元に駆け寄って、身の回りの世話をしながら今日一日の出来事を話すのだが、今の永新は学園での出来事を思い出す事さえ苦痛で、今はとにかく目を閉じて静かに眠りにつきたかった。
階段を一段上がる度に、じわじわと涙が浮かんでくる。
学園での生活は全てが嘘だったと知った今、残されたのは嘘を嘘だと知らずに踊らされていた惨めな自分。
みっともなくて情けない自分だけが孤独に残された今、自分と言う存在そのものが無価値でしかないと思えてくる。
「……僕は」
いつだって永新の背中を押してくれていた「母親の期待」と言う永新の心を支えてくれていた柱は、母親の寝室から漏れ聞こえてくる計器の音が雨垂れのようになって柱を削っていた。そして成果の出ない現実はいつしか「期待」を「重圧」に変える。その事にも気付かぬまま、最後まで残っていたその柱が重圧に耐えきれずに、折れて潰れてしまった。
教室での出来事は、ただのきっかけに過ぎない。
永新の心に、一際大きな傷を付ける。ただそれだけ。それはいつもの事で、いつも通りに絵麻と晴也がいてくれれば、永新も耐えられたはずの出来事。
だが、一生涯消えぬ傷を付けたのはその二人。ありとあらゆるマッチポンプが、積み重なった心の傷が永新の心を摩耗させ続けた結果、永新は遂に折れてしまった。
母親を気遣う事すら、出来ない程に。
自分に対して価値を見出す事すら、出来ない程に。
もしも今この瞬間、永新の手に首を括る縄があったなら、躊躇うことなく永新は自分の首を吊っていた。
もしも今この瞬間、永新の手に刃物があったなら、躊躇うことなく永新は自分の首を掻き切っていた。
「……生きる価値が、無い」
だが、自死を実行に移せるだけの気力さえも湧いてこない永新は、自室に辿り着いた時点で膝から崩れ落ちる。
制服に皺が付くのも厭わず、永新は四肢を投げ出して全身から力が抜けていくままに任せて瞼を閉じる。
目を閉じれば、やるべき事――やらなければならない事が幾らでも湧いてくる。
それでも今は、全てを忘れて泥のように眠りにつきたかった。
何も考えずに、全てから解放されたかった。
「……すぅ」
――だがしかし、今この時点でその身に降りかかる不幸が終わりを迎えていない事に、永新は気付かない。
目が覚めた時、永新には更なる絶望が待ち受けているなどとは知らぬまま、今はただ深い深い微睡みに身を任せるのであった。
「――ん、んぅ……」
身動ぎする永新は、扉越しに聞こえてくる喧騒を耳にして緩慢な動きで体を起こす。
堅い床で寝たせいで凝り固まった身体を解すように伸びをしながら時計を確認すると、時計の針は四時前を差しており、自分が半日近く眠っていた事を理解する。
けれども、現在が早朝の四時前であるならば、こんな喧騒は聞こえてこないはず。
不思議に思って昨日から着たままの制服の姿で部屋を出て喧騒が聞こえてくる階下を覗き込むと、見慣れない格好をする人達が家の中を行き交う光景を目にする。
一瞬物盗りの可能性が頭を過るが彼らが出入りするのは母親の眠る部屋であり、切羽詰まった様子から永新の脳裏に最悪の事態が浮かぶ。
「……ッ!!」
寝惚けている場合ではない、と脳に籠った熱が急速に冷えていく。
途端、永新は転げ落ちるように階段を下ると、扉の前で中を伺っていた人物に心配されながらも母親の寝室に飛び込む。
「――午前三時四十九分。ご臨終です」
永新が飛び込んできたにもかかわらず、母親の寝室に集まっている人物は誰一人として永新に目をくれる事は無く、飛び込んだと同時に聞き慣れた医者の声が耳に飛び込んでくる。
その声に、ただでさえ冷え切っている永新の頭から更に熱が引いていく。
現実を受け入れられないでいる永新に、母親の死を確認した医者が現実を突き付けるかのように母親の顔に白い布を被せる。
丸まった背中を見せる父親越しにチラリと見えた母親の横顔は、普段と何ら変わりない、まだ眠っているだけかのように思える程に綺麗で、永新は「やめてくれ」と叫ぶ代わりに母親に手を伸ばす。
「母さ――」
しかし、その手は母親に辿り着く前に、傍で泣き崩れていた父親――永政の手によって叩き落とされる。
え――、と声を上げる間もなく、更なる困惑に陥った永新はジンジンと痛みを訴える手を抑えて、ゆっくりと振り返った永政の表情を目にして、思わず腰を抜かす。
その目は、断じて血の繋がった息子に向けるような――向けていいような眼では、無かったから。
「――何故だッ!!! どうして、昨日の時点で医者を呼ばなかったのだ!!? 答えろ、永新ンッ!!!」
瞬間、腰を抜かしているのも束の間、永政は憤怒に満ちた表情で永新の制服の襟元を掴んで持ち上げ、尋問が如き勢いで詰問を重ねる。
「――ッ!?」
「お、落ち着いて、落ち着いて下さい、燼月殿っ!!」
「落ち着けだと!? この俺が落ち着いていないように見えるか!? 今この場でこいつを殺さないでいるのが、何よりも証拠だろう!!? これのどこが落ち着いていないように見える、ヤブ医者めが!! さぁ、答えろ永新……。どうして昨日の内に医者を呼ばなかった? どうして昨日の時点で新夏の異変に気が付かなった? それとも何か、新夏の異変に気が付いていながら、知っていながら眠りこけていたとでも言うのかッ!? お前は――」
「じ、燼月殿ッ、それ以上はいけませんっ!!!!」
「――お前が、母親を殺したのだぞッッッ!!!!!!」
永政は、永新を離せと駆け寄ってしがみついて来た医者を振り解き投げ捨てる。
襟首を持ち上げられ、涙を流す事さえ許さない、と射殺さんばかりの眼光を実の父親である永政から浴びせられる永新の頭の中では酷い耳鳴りが続いていて、現状の理解など到底できるような状況ではなかった。
どうして母親が亡くなったのか、どうして父親に詰められているのか。永新には何一つとして飲み込むことが出来ない状況で、永新は他でもない永政の口から、残酷なまでの真実を告げられる。
果たしてそれは誰にとっての真実と言えるのか定かではないが、永新にとって永政は父親であり、不変の存在。そして、その背を見て育っていく子にとって、親とは正義そのもの。つまり、永新にとって永政の言う事はどれだけ間違っていたとしても真実として刷り込まれる。
それは、呪い。
新夏の言葉が永新を縛ったように、永政の言葉もまた、永新を絡め取っていく。
そして、昨日の夜の時点で新夏の体には異変が出ていたのもまた事実。
常に母親の身の回りの世話を任されていた永新であれば、夕方、帰宅時点で同じように接していれば気付けたような、明確な異変。けれども、その異変は瞬く間に新夏の体を蝕んで行き、日付が変わった頃には計器が異常を知らせる警戒音を轟かせていた。だが永新は長年の精神の摩耗と肉体の疲労が重なって目を覚ますことは無く、計器から通告された医者側から妖魔を狩っていた永政に連絡が行き即座に処置を行ったものの、新夏は帰らぬ人となった、と言うのが事の顛末。
最愛の妻である新夏を失った今、永政は行き場を失った感情をどこかに放出しなければ自我を保っていられなかった。そんな中で医者から処置中に聞かされた内容から、その感情の矛先を永新へと向けた次第。
だが、それは二人の息子である永新もまた、そうであると考え至らずに。
「……」
「黙ってないで、なんとか言え、永新ッ!!」
「僕、が……母様を……?」
「――ッ、しらばっくれるな、ッ!!!!」
目一杯に溜まった涙が零れるように、ようやくの思いで呟いた永新。
それは正しく母親を亡くした子供の反応であるが故に、その様子が永政の逆鱗に触れる。
刹那、医者の制止の声すらも振り払って放たれた永政の大きな掌が永新の頬に襲い掛かり、銃声もかくや、と思える程の甲高い音が新夏の部屋に響き渡り、同時に静寂が訪れる。
「――」
痛い。
頭が揺れる。
耳鳴りがする。
顔の左半分が熱い。
舌に鉄の味が広がる。
そうして床に転がった永新は、永政にぶたれたのだと気付く。
何故、どうして、と問いかけたいところだが、恐怖に歪んだ喉は掠れた吐息すら吐き出さず、口は堅く閉ざされたまま視線で訴えようと永政を見上げると、永政は酷く動揺した様子で、自分でも収拾がつかないところで暴れ狂っているようだった。
「――お前が生まれなければッ! 新夏は霊力を失わずに済んだッ! 病にも罹らずに済んだんだッ! 俺の目の前から、消えろッ!! 何が神童か、何が才児か……! 俺の新夏を、返せぇッ!!」
「燼月殿ッ、落ち着いて、落ち着いて下され――」
燼月永政は、その妻である新夏を心から愛していた。
倶利伽羅としての彼女を、一人の女性としての彼女を、誰よりも愛していた。
そんな彼女が、出産と同時に霊力を失ったとなれば疑わしきは生まれてきたその子供。
新夏が倶利伽羅としての仕事が出来なくなったから、と言うのは言い訳に過ぎず、永政は我が息子を見るのが辛いがために倶利伽羅としての仕事を必要以上に熟し、家にいる時間を限りなく少なくした。父親失格だと自分でも理解していながらも、妻よりも子を愛する自分を、どうしても認められなかった。
いつまで経っても変わらない心持ちのまま時は流れて、遂に妻は殆ど目を覚ますことは無くなった。
それでも月に一度か二度、妻が目を覚ます時間が合えば、病には決して負けたりしない妻の姿に増々惹かれるばかり。それ故に、子に対する憎悪は深まるばかり。
新夏はそんな永政の歪んだ心を見抜いていたのか、永政を見る度に「永新をよろしくね」と永政が永新に目を向けるよう促していた。自分が愛した男は、息子も愛することが出来るのだと信じて。
そんな矢先に新夏の死を迎え、永政は最早生きる意味を失ったかのように荒れ狂い、遂には新夏にも明かしていなかった、墓まで持っていくつもりだった思いも全て吐露してしまう。
到底血の繋がった我が子に向けるべきではない言葉を口にした永政は医師や医療班によってその場で取り押さえられるものの、気付いた時には永新の姿は、寝室は疎か燼月家の中から消えていた。
永政が自分の口にした言葉の愚かさに気が付いたとしても、それはもう、遅すぎたのであった。
「……」
空が白み始めた時間帯。
永新が一人歩く住宅街に人通りは無い。
故に、永新のような小さな子供が一人、それも顔面に大きな傷跡を付けて裸足で歩くと言う明らかな異常事態にも拘らず、そのサインに気付いてくれる人はいない。
今この時間、周囲に立ち並ぶ住宅の中では、親も子も関係なく夢の世界にいるはずだろう。
永新には、母親と寝床を共にすることも無ければ父親とも共に寝た記憶は無い。母親に関しては病の関係上致し方ないものではあったが、その分の愛情は受け取っていた。だが父親に関しては、永新に対する興味が人一倍薄かった。
そんな事は無い、と自分を殴り飛ばした父親をフォローするかのように父親との記憶を浚ってみるが、どんなに思い返してみても、永新の記憶に父親と戯れた楽しい記憶など、一切残っていなかった。
「……僕は、父様に、愛されていなかった」
現状に至ってもまだありもしない可能性に縋ろうと藻掻いた永新であったが、記憶を浚う手は奮闘虚しく空振りに終わって何も掴むことは出来ぬまま、どうしようもないまでに現実を受け入れざるを得ない。
――父様に愛されていない。
――否。
――父様は、僕を恨んでいる。
ひとたび現実を受け入れてしまえば、その答えに辿り着くのは容易であった。
永政が自分を見てくれないのは、それ以上に母親を、新夏を愛していたから。その事実はこれまで、永新にとって誇らしいものですらあった。
――誰かを心より愛することが出来る父親は、なんと偉大なのか。
と。
けれども、それは大きな間違いであり、実際は、永政は新夏だけを愛していた。
そして、新夏から人生を奪って生まれて来た永新を、殺したいほど憎んでいる事が、今更になってようやく気が付くに至った。
永恋や絵麻、クラスメイトの口から聞こえる家族の思い出話。
それらに憧れを抱いていたものの、家庭の事情を組んでひたすらに我慢を繰り返していた永新だったが、これ以上我慢していたところで彼らが笑顔で語れるような「家族の思い出」が永新に与えられる事は、永新の父親が永政である以上、絶対に有り得ない希望だと思い知る。
家族の為に、とこれまでどんなに辛い事でも耐え忍んできた永新は、自分が何の為に生きて来たのか、これから生きていくのか、何も見えなくなってしまっていた。
「…………」
ひたひたと冷たいアスファルトを歩く永新の心は、ただただ、虚しい。
燼月家の為に、と寝る間も惜しんで母親の世話をして、鍛錬も重ねて。
その結果、父親から向けられたのは感謝も労いでもない、侮蔑と罵倒の数々。
永恋にも見限られ、絵麻にも、晴也にも裏切られ、母親は亡くなった。
何もかもを失った永新に残されたのは、何も無い、空っぽになった、空虚な心だけ。
最早永新にとって、欲しい言葉をくれる人はどこにもいない。
永新を置いて、皆どこかへ消えて行ってしまう。
――疲れた。
風も吹かない空虚な心から吐き出すのは、その一言。
作り笑いを浮かべる事も、出来もしない術の鍛錬も、突き放されるばかりの人間関係も、考える事も、何もかも。
それならいっそ、これ以上苦しまないようにしようと思い至った永新は、自然と車の音がする方へと足を向ける。
ひたひた、ぺたぺたと。
十にも満たずに黒く淀んだ永新の眼は光を移さず、大型の車が行き交う道へと差し掛かる。
例えば、纏炎が使えれば、永新のような子供の身体でも鉄の塊である車に轢かれたとしても、かすり傷で済む。しかし、纏炎を使えない永新の肉体はただの皮と肉と骨の塊でしかない以上脆く、車の前に飛び出せば簡単に肉の塊と化す。
――そうなればきっと、もう何も考えなくて済むだろう。
轟轟、と音を立てて通り過ぎていく車を見ても、永新は何も感じない。
ガードレールも、永新のような子供が身を乗り出せば簡単に乗り越えられる。
次に車が来たら――。
そう考えて縁石に足をかけた次の瞬間、記憶に残る鈴の音が耳朶を打つ。
――シャララン。
「ッ!!」
その音を耳にした永新は、弾かれるように音が聞こえる方に顔を向ける。
――シャララン……、シャララン。
永新の耳がその音を捉える度に、永新の世界に色が取り戻されていくよう。
そして、永新は何かに引き寄せられるかの如く、断続的に続く鈴の音が聞こえる方にゆっくりと駆けていく。
その音が鳴る方に何があるのかは、分からない。
けれども、そこに行かなければならないと永新の本能が訴えるのだ。
だから、永新は駆ける。小石が足の裏を突き破ったとしても。転んで擦り傷だらけになったとしても。
音だけを頼りに入り組んだ住宅地の路地を抜けた先。
そこにあったのは真っ白な鳥居と、奥に見える小さな御社。
そして――境内に一人佇む、初雪が如く白い女性。
一度見たら忘れる事が出来ないような美しいその女性を、永新は今の今までその姿を見るまで忘れていた。
「――ハァッ、ハァッ……!!」
その事に違和感を覚える暇も無く、永新は導かれるように、縋りつくように縺れる足でフラフラとよろけながらも、どうしてか頭の中に浮かんできたその女性の名らしき言葉を叫びながら、駆け寄っていく。
「――白ッ!!」
永新に「白」と呼ばれた女性は、まるで永新が来ることが分かっていたかのように振り向き、飛び込んでくる永新をその豊満な胸で抱き留める。
そして、その冷たくも温かな手で永新の頭を撫でながら、永新が心から欲していた、望んでいた言葉を囁くのだった。
「……良く頑張りましたね、永新君。さぁ、たくさん泣いて、たくさん聞かせて下さい。貴方が何をしたいのか、私に何をして欲しいのかを――」
母親とは違う。
けれどもどこか似通った穏やかな口調を前にした永新は、これまでずっと堪えて来た涙が堰を切って溢れ出す。
体中の痛みを思い出しては、喚きだす。
心に刻まれた傷を思い出しては、白に強く抱き着くのであった。
そして永新が眠りにつくまで、白はただひたすらに永新の話を聞いては頷いて、「よく頑張った」、「偉かった」と言った、永新が欲しくてたまらなかった、永新を認めてくれる言葉の数々を届けてくれる。
居心地の良い白の胸の中で、永新は限界を大きく超えて積み重なっていた疲労の重みが、やがて極度の睡魔に置き換わる。
「……すぅ」
一定のリズムを刻む心拍を耳にしながら眠りにつく瞬間と言うものは、蕩けるような甘い安心感を覚え、永新は心地の良い泥沼に沈んでいくように深い眠りへと落ちていく。
「………………あぁ、やっとこの時が来てくれた。うふふ、可愛い可愛い、永新。私の為の、永新。私を殺してくれる、永新。……大事な大事な、私だけの、永新――」
永新が眠りについたすぐ傍で、白と呼ばれた女性は永新の小さな体を壊れんばかりに抱き締め、首元に鼻を埋めて震える声で叫ぶ。
黒一色に塗りつぶされた瞳で、整った眦を歪ませる狂気が――されども確かな愛を感じる熱が、穏やかな寝息を立てる永新を覆い尽くす。
「はぁ……。それにしても、本当に長かった。ようやく見つけたと思ったら、二年もの間、離れ離れだったなんて、私はまるで悲劇のヒロインだわ。そして永新……。貴方は私の、私だけの特別なヒーロー……。あの母親を病に罹らせるのには苦労しました。死に体のくせに勘だけは鋭いのですから、近付こうにも近付けなかったのだけは厄介でしたが、父親がクズだったのは幸運でした。お陰で、永新は私を求めてくれた……」
白が永新に降りかかったあらゆる不運、あらゆる不幸を思い浮かべては、彼女の狂気を色に染めたかのような真っ黒な瞳と、血を実らせたかのような赤い唇を震わせ、どこまでも愛おし気に永新の頭を撫でるのだった。
「だから今度は一緒に、二人で、堕ちていきましょう……。どこまでも深く。暗闇の、深淵の底に。……二人だけの世界に、堕ちていきましょう。ずっと、ずぅっと一緒にいましょう、私の永新――」
その後、永新は父親である永政の要請によって派遣された捜索隊の手によってその日の夜遅くに見つかり、燼月家に帰される事となった。その間永新が何処にいたのか、と言う疑問が残っていたが、永新は白に関する事は一切口にせず、記憶の混濁と言う事でその件は治まりを見せた。
医者からの説教を受けて冷静さを取り戻した永政からは「気が動転していた」「あれは本心ではない」と言った必死の謝罪が繰り返され、永新はその謝罪を受け入れる。けれども、一度崩れた家族関係はそう簡単に修復できるものでは無く、呑気に胸を撫で下ろした永政には永新の間には決して埋める事の出来ない溝が生まれてしまっていることに気が付いておらず、年幼い永新だけがそれを理解しているのであった。




