14話
薄々無駄だと感じる努力にも縋るしかない永新が努力を重ね続け、霊力の実践授業に参加しても何の成果も残せずにいたとしても、万人に平等に時は流れて季節は冬の盛りに差し掛かる。
最近は絵麻も誰かと関わり出したのか、休み時間になっても第二図書館に姿を現さない事が増え、永新は必然的に一人でいる時間が増えて来た。
一人で取る食事はいつにも増して味気なく、自分の殻に閉じ籠るようになってきた。
「……痛い」
服を一枚捲れば、その下にはいくつもの痣が見て取れる。
それら全て、四家指導の下で動いた生徒達から振るわれた暴力が原因であり、永新は夏でも長袖に身を包む他無かった。そんな明らかな異常を目の当たりにした老教師は永新に気を配って注視していたのだが、それを別の誰かに相談する事は無く、永新の「大丈夫です」と言う返答をそっくりそのまま受け取っていた。
この時、老教師かあるいは永新本人が真宵に相談していれば永新を取り巻く環境は変わったかもしれないが、ただでさえ忙しい真宵は永新だけに気を配る訳にもいかないため、永新はただ一人で堪え続ける他なかった。
この傷が顔のどこか、目に見える範囲に出来れば、父親である永政が心配してくれたかもしれない。そうすれば、学園で何があったのかと動いて、事態の把握に老教師が駆り出されて永新を取り巻く環境が――。
「……そんな訳ないか」
夢物語のような、そんな理想が実現するはずなど無い、と永新は頭に浮かんだ空想を振り払うように自嘲する。
永政の、父親の目に映るのは母親のみ。
永政が自分の息子を、永新の事をはっきりとその双眸で見たのは最早遠い過去で、永新は父親の目の色すらも思い出せない。
それに加えて、永新に暴力を振るう彼らがそんなヘマをするはずも無い。
彼らは優れた知能を用いて如何に第三者にバレないかを競うような連中であり、四家による支援も加わって実に卑劣な手段で永新に嫌がらせを行う。
『――小暮日が悲しむ顔は、見たくないだろ?』
永新が受けているような暴力に永恋が屈するとは思えない。永恋によって蹴散らされる姿が想像できるのだが、嫌がらせは何も暴力だけではない。
永新を追い詰める過程で彼らが精神的に追い詰める手段は洗練され、永恋のような少女一人を追い詰める事だって出来るんだぞ、と言う脅しに永新は沈黙を貫かざるを得ない。勿論、第三者に虐めが発覚するような事もあってはならない。その為、永新は黙って歯を食い縛り、耐え続けるしかなかった。
それでも学園に足を運ぶのを諦めなかったのは、偏に「母親の為」、「永恋からの期待」の二つが永新を縛っている、と言うのもあるが、最近の永新は自分に手を差し伸べてくれる人、燦然院絵麻と天炎晴也の二人の為にも、簡単に折れる事を是としない根性で学園に通っていた。
「……授業に、行かなくちゃ」
静寂に包まれていた第二図書館に、鐘の音が響く。
この後に永新を待ち受ける授業は、例の如く霊力の実践授業。
だが、永新のクラスは九割の生徒が破魔弓術初級である三つの術を修めた為、今日からカリキュラムが更新され、纏炎の習得へと移る。
その習得方法と言うのが――。
「――ゼェッ、ハァッ……! ハァッ、ハァッ……!」
「燼月! 足を止めるな!! さっさと霊力を練らんか!!」
「は、はいっ……、っ!!」
ただでさえ広い修練場を延々と走らされる地獄のような修練。
本校舎の面積と比べても倍近い広さを持つ修練場は外部施設と呼べる規模ではなく、何も知らない只人が見れば常に賑わいを見せる修練場の方こそ本校舎とすら思える広さ。その縁をなぞるような形で走らされる、と言うだけの単純明快で苦痛を強いられる修練法。多くの生徒がこの授業に前向きではなかった。
永新もまたその一人であったが、それは全く別の意味で苦い顔を見せていた。
校庭を走らされていたから永新は慣れているはず、なんて言うのは甘い考えで、霊力を励起させた倶利伽羅を基準にしている以上、結果として只人から見て優れている程度の永新の脚では、クラスメイト達に着いて行く事すら出来なかった。
当然、倶利伽羅の卵たちがただ走らされるだけのはずが無く、破魔弓術初級を修め霊力への理解を深めたが故に弓矢に霊力を乗せるように、自分の体にも霊力を馴染ませ状態での修練であり、クラスメイト達はスタート直後から永新を置き去りにしていった。
一周、二周、三周遅れと、纏炎の前段階である霊力を励起させた状態のクラスメイト達に追い抜かれていく永新は、監督教師の罵声を浴びせられながら、足を止める事を許されない。
成人の倶利伽羅であれば霊力の励起のみで百メートルを障害物込みで五秒で駆け抜けると言われる程の身体能力を誇る為、今日の目安であった修練場二十周を走り終わる頃には永新は気絶寸前にまで追い込まれていた。
クラスメイト達に遅れる事一時間以上かけて走り終えた永新を労う者は誰一人としていなかったものの、そんな永新に近付く人物が一人いた。膝が笑うばかりで満足に立てない上に、酸欠で意識が朧げな永新は、その人物が目の前にやって来てようやく気が付いたのか、緩慢な動きで汗に塗れた顔を上げた。
「えれ、こ、小暮日、さん……」
「……」
永恋は永新の目の前までやって来ると、永新の反応に対して眉間に皺を寄せる。
「……今の永新は嫌い。もっとしっかりしてよ。昔みたいに、もっとかっこよくいてよ」
「……ごめん」
遠巻きに永新と永恋を眺めるクラスメイト達から、クスクスと嘲笑が上がる。
それが何を意味するかなど考えるだけ無駄で、永新の心に薄汚れた感情が一滴落とされる。
永新と距離を取らざるを得なかった永恋は、この二年で彼女の中に在る「神童の頃の永新」と現実の永新の乖離を目の当たりにしたせいか、永新を無条件で好く、と言う事は無くなった。
それどころかむしろ進んで永新に苦言を呈するようになり、それはどんな嫌がらせよりも永新の心に大きな染みを作るものであった。
永政でもなく、老教師でもなく、真宵でもなく、絵麻でもなく、晴也でもない。
この二年の間にたった一度だけ、永新が誰かに助けを求めようとした事があった。永新の心が限界を迎えそうになった時があった。
その時、永新は誰よりも先に、一番に永恋に「助けて」と縋ろうとしたところ、その時すでに永恋の中では永新に対する失望が大きく、近寄ろうとした永新の事を、永恋は無情にも突き放した。
その時から、永新は永恋と相対する度に、「ごめん」「ごめんなさい」と謝罪の言葉を繰り返すばかり。
――口にしても、届かない。誰も、聞いてくれない。
永新にとって最後の砦だった永恋からも拒絶された今、永新が倶利伽羅を目指していた理由が一つずつ音を立てて崩れていく。
「――っ、謝ってばっかり!! ……もういい、永新なんて、知らないんだから!」
「ごめん、なさい……」
永恋が永新を置き去りにして、新たな交友の輪を広げた女生徒の下へ去って行く様を見てそれを望んでいた四家の面々は、ある者は緩む口元を隠し、またある者は顔を背け、ある者は目を伏せる。
そして自分が望んだ通りの結果に導かれた獅子王は、当然の結果だ、とばかりに鼻を鳴らすのだった。
自分の足元が崩れ去って行くような感覚に陥る永新は、それ以上修練場に居続ける意味も無く、こちらを指差して嗤うクラスメイトに背を向け、その場から逃げ出す。
そうでもしなければ、あの場で泣き崩れてしまいかねなかったから。
その後、永新は自分がどうやって家に帰ったかも分からないまま気が付けば母親の寝室の前に立っており、義務感に駆られた体が勝手に動き出した。
いつもと変わらない日常を送る裏で、永新の擦り減った心はとうに限界を迎えているとも知らずに。
「……火加々美、さん」
「おはようございます、燼月さん」
翌朝、日に日に濃くなっていく目の下の隈をこさえた永新に声を掛けたのは、四家の中でも世代筆頭に最も近いと噂される火加々美甘奈。
年を経て同世代の中でも頭一つ抜きん出た優秀な成績と、大人びた容姿はどこにいても目を引くような存在で、永新如きが声を掛けられて良い存在では無かった。現に、ただでさえ朝の人の多い時間帯で甘奈が永新に声を掛けているという光景だけでも周囲の目を集め、永新に対して憎しみの込められた目線を送る生徒が多く、今日この後は嫌がらせが増すのだろうと予測が付いた永新は、学園に来て早々に「帰りたい」と溜め息が零れそうになる。
それでも、永新は目の前のたおやかな笑みを湛える少女を無視する事は出来ない。
「何か、御用ですか……?」
「ふふ。御用、だなんて仰々しい。私達は同じ級友でしょう? ふふふ」
「……それは、笑うところでしたか」
「どちらでも無いですよ? ですが、用があるの事実です。本日の放課後、何かご予定はありますか?」
「いえ、特には」
「でしたら、燼月さんに少しお話したい事がありますの。放課後、教室に寄って下さいますか?」
「……僕と、火加々美さんとでは、授業が終わる時間が――」
「えぇ。ですから、それまで待っていてもらいたいんです。時間で言えば、16時頃でしょうか。燼月さんには、それまでどこかで時間でも潰してもらえれば。そんなに時間は取らせませんから」
「分かりました。その頃に、伺わせていただきます」
「はい。お待ちしていますね」
最後まで笑みを崩さない甘奈に対して、永新は良い印象を抱かない。
それは彼女が獅子王と同じ四家である事に加え、四家の中で誰よりも何を考えているのか分からない存在だから。あの笑顔の下に見える彼女の本性がどれだけ薄汚れていようと、永新に見透かす事など出来やしない。けれども、あと一押しで戻りようのない地の底まで真っ逆さまに落ちてしまえる永新にこうして接触してきたと言う事は何らかの思惑があるのだろうが、永新は最早どうでもいいとすら思えていた。
今はただ、絵麻と晴也と話したい。孤独に苛まれる渇いた心に少しでも栄養が欲しいと願うばかり。
永恋からも見放された今、ありのままの自分を受け入れてくれる二人だけが永新にとっての支えとなっており、彼らの存在が無ければ永新は疾うに諦めていたに違いなかった。
「……今日も、絵麻に会えなかったな」
だが永新のそんなささやかな望みさえも、この世界は叶えてくれない。
今日一日、第二図書館に絵麻が姿を現すことは無く、ただただ寂寥感を積もらせるだけに終わってしまう。暖房器具の設置がされていない第二図書館は冬の厳しい寒さの中留まるのは厳しいものの、絵麻と初めに交わした約束を守る為永新は一日とて欠かすことなく第二図書館に足を運んでいた。
けれども、絵麻がこうして一日に一度たりとも姿を見せなくなってから、今日で一週間。
絵麻の交友関係を永新が縛る権利などあるはずもなく、むしろ絵麻に新しい居場所が出来たのなら、永新は喜んで歓迎すると言うもの。それでも……、一言告げるだけでもいいから、絵麻の顔を見せて欲しい。絵麻の顔が、見たかった。
そんな叶わぬ願いを抱きながら、永新は時計を眺め見る。
「……約束の、時間だ」
冷え切った手指をこすり合わせながら、永新は教室へと向かう。
今日も修練場をクラスメイトに昨日以上の差を付けられながらも規定数の周回を終えた永新は早々に離脱し、こうして第二図書館で引きこもっていた。クラスメイトに妨害されて転んだとしても、監督教師は永新に対して罵声を飛ばしてくる。クラスに浸透した「燼月永新になら何をしても良い」と言う空気は、いつしか教員側にも伝わっているのか、見て見ぬふりをする老教師の代わりに選ばれる監督教師も、永新への虐めに手を貸す始末。それが普通で、それが日常。誰も手を差し伸べてくれない環境は、どこまでも苦痛に満ちた世界であった。
昨日以上に冷たい視線を浴びながら、それでも自分が悪いと考える永新は言い返す事も、抗議することも出来ぬまま逃げ帰るまで。自分を認めてくれる、その人たちを信じて――。
「――」
「――」
在るかも分からない希望を夢に見る永新は、約束の時間に火加々美甘奈が待つ教室へと足を運ぶのだが、教室のある階に足を踏み入れた時点で永新の耳に話し声が届く。声がする方は紛れも無く約束の教室であり甘奈以外に誰かが居るのか、と突入できる程の胆力も度胸も無い永新は黙って様子を伺うべく、慣れた様子で息を殺す。
そうして、近付くにつれて大きくはっきりと聞こえてくる話し声の内容を盗み聞く。
「――最近では、意中の相手を試す様な真似が流行っているんだとか。下衆な勘繰りだと思いませんか?」
「女生徒たちが囀っていた、アレか。永恋に吹き込んだのも、彼女たちだろうな」
「ふふ。永恋さんったら、本気でアレを好いているのかしら。本気だとしたら永恋さんのセンスを疑いますけど……、まぁ、好みは人それぞれですものね」
「……釣り合った者同士でなければ、友人同士付き合う価値すらない。永恋に燼月は不釣り合いだ。七星、お前の元にも相談しに来たのだろう?」
「ん、まぁね。でも、私が何か言うまでもなく、あの子は決めてたみたいだけど。正直、見ていて気持ちの良いものでは無かったけどね」
「どうした七星。あれほどやる気だったお前がそんな事を言うなんて。まさか、アレに情でも湧いたか?」
「さぁね。でも、私はもう……」
「腑抜けた七星さんは、所詮四家の器に無かった、と言うだけでしょう? 今更手を引いたところで、これまでやって来た事実は変わらないんですからね?」
「……好きにすれば」
会話の主は、恐らく四家。
覗き見る事さえ憚れるような、カリスマすら感じられる声音に、永新は身が竦む。
だが四家の会話から、最近の永恋の行動に対する違和感の謎が解けたような気がした。それでも、永恋の本音を聞かない限りは永新の中に芽生えた不信感と言うのは決して拭われない。一度植え付けられた感情と言うのは、そう簡単には拭い去れないものだった。
恐らく会話を主導する甘奈には、永新が隠れていることは筒抜けだろうが、他の三名は扉の裏に永新が居るとも知らずに会話を続ける。
「――それにしても、晴也さんの立ち回りには感服致しますね。獅子王さんと共に学友を手配し、促すと同時に、アレに良い顔をする。懐柔出来た瞬間は、さぞかし高揚したのでは?」
「まぁな。先生の前でだけ良い子ぶれば、先生から目を付けられる事は無いし、虐めも発覚しずらい。何せ、皆からの人気者の俺が永新の傍に立ってるんだ。先生たちの間で虐めの話が持ち上がりすらしてねぇみたいだぜ? これも俺の完璧な立ち回りのお陰、って訳だ。獅子王が焦って何も分かって無い連中を寄越した時は流石に焦ったけどな」
「……」
意気揚々と自分の成果を語る晴也の声に、永新は扉の影で体の芯から熱が冷めていくような感覚に包まれる。
今すぐにでも「嘘だ」と教室に飛び込みたい思いがある反面、身体はどうしてか動こうとしてくれない。
開き切った瞳孔が脳の指示を堰き止めているかのように、体の動きも、思考も、何もかもが停止してしまっているかのよう。
「――」
教室から聞こえてくる会話も、いつの間にか雑音へと切り替わり、永新は自分が知る限りの晴也のこれまでの行動が頭の中に浮かんでくる。
『――友達だからな!』
今にして思えば、なんて薄っぺらで、空っぽな言葉なんだろうか。
晴也の言う通り、晴也が駆けつけてくれる時は、いつだって傍に大人の目と耳がある環境だった。
晴也は、虐めの実行犯を教員の目から逃したり、やり過ぎて虐めが発覚しないよう防ぐ為のペースキーパー。もしくは、四家の一人が味方である事で、永新の目が四家に向かない為の空蝉。
まんまとそれに踊らされた永新は、特定状況下でしか現れてくれないヒーローの真実に気付く事が無いどころか、あまつさえ彼は自分を支えてくれている、などと愚かにも信じ続けていたのだ。
晴也に都合の良い条件が揃い過ぎているという事実は、今にして思えば疑うべき証拠。
如何に自分の視野が狭まっていて愚かだったかを痛感する永新の目から、涙と一緒に剥がれた感情の一部が落ちていく。それは永新を永新たらしめる一部でありながら、地面に落ちて染みを広げていく。
「……ずっと気になってたけど、その子誰? あたし、聞いてないんだけど」
「こちら、燦然院家の息女。絵麻さんです」
「え、絵麻は……」
「貴女も虐められていたものね。私たちが友人となって、それから守ってあげて……。それから貴女は積極的にアレの情報を私達にくれたわよね。お陰で、弱ってる頃合いを見計らうのは楽だったわ」
晴也が口を滑らした時点で永新ならば飛び出してくる――と踏んでいた甘奈だったが、永新が飛び出して来ないのを見て、成果を急ぐかのように除け者にしていた七星の言葉を拾い、もう一人のゲストである燦然院絵麻に発言を促す。
躊躇いがちとは言えど、絵麻の声を耳にした永新の心臓は鼓動を止めたかと錯覚してしまう程の驚愕を受ける。
「――っ」
『――約束、ですからっ!』
晴也以上に時間を重ねた絵麻の記憶を思い出す永新の脳は、大きな負荷を訴えるかのように激しい頭痛がして、これ以上何も聞きたくない、とばかりに両手で耳を塞ぐ。
どうして絵麻が四家と共に居るのか、と言う疑問は、甘奈が口にした会話の内容が全てであると、永新のぐちゃぐちゃになった頭の中でもはっきりと繋がっていく。
「――お友達ごっこ。楽しかったでしょう?」
「永恋の後釜にしては過ぎた人選かと思ったが、あいつの恋心を揺さぶるには十分な仕事をしてくれた。神来戸として礼は尽くせないが、僕個人として君の立場を擁立する事を約束しようじゃないか」
「ふふっ。獅子王さんはむしろアレが空いた枠に入ろうとする後釜ですものね。後釜同士、何か通ずるものでもあるのですか?」
「……甘奈。今の発言は君と言えども看過できない。それは僕とあいつが同列だとでも言いたいのか?」
「――ちょ、ちょっと待ってよ!? なに? もしかして、あいつの恋心を、弄んだとでも、言うの!?それだけは、踏み込んじゃいけないラインでしょ!? 二人とも、自分が何をしてるか――」
「七星さんは随分とロマンチックな思想を持っていますね。御厨家は何を教えていらっしゃるのやら。私達は分不相応な地位を矯正しているに過ぎません。それを頑なに拒むアレが、私達にこの手を取らせた次第――」
塞いだ手を貫通して永新の脳を揺らす声に、永新は目眩に加えて吐き気まで催す。
聞くに堪えない言い分を前に、永新は心の奥に封じ込めて澱のように沈んでいた答えを口にする。
――あぁ、もう、疲れた。
ガンガン、と殴り付けるような頭痛も、全てを手放せば忘れられるようで。
――母親の為。父親の為。永恋の為。絵麻の為。晴也の為。
数えてみれば片手で数えられる程度でしかない、自分に価値など無かったのではないかと言う感想さえ浮かんでくる。
あれも、これも――どれもが嘘だった。
四家の指示の下、絵麻は自分に近付いて来たのだと知った永新は、これ以降も続く会話を遮るかのように音を立てて立ち上がる。
「おい、甘奈。お前、それ以上は言い過ぎだ――」
「――っ」
「…………燼月? 甘奈、お前もしかして……」
「っ、あんた、もしかして、今の全部聞いて――!?」
「え、永新くん、こ、これは、違っ、くて……っ!!」
永新が姿を現したのは、自分はここに居るのだと証明したかった訳ではない。
出来る事なら、顔も見せずに逃げてしまいたかった。
だがそれでも、永新はあるかも分からない希望に縋りたかった。
――全部が作り話で、嘘である可能性を。
しかし、そんな都合の良い話が待っているはずも無く、覗いた先で永新を待っていたのは、これまでに幾度となく永新の心を傷付けて来た光景。見なければ良かった、見たくなかった、と思える光景。
四家と共に共謀する絵麻の姿は、追い詰められた永新に易々とトドメを差す。
散々まで痛めつけられた永新は「もう何も見たくない」とばかりに瞳を濁らせる。
「「「「「………………」」」」」
永新のその目を――表情を目の当たりにした四家と絵麻は、総じて言葉を失う。
この状況を望んだ甘奈でさえも言葉を失い、まるでその時だけ時間が止まったかのよう。
深い隈と光の無い瞳が作り出す眼窩はまるで落ち窪んでいるかのように悍ましく、笑顔の失せた顔、無を張り付けたかのような絶望が生み出す表情があんなにも恐ろしいとは、誰も知らなかった。
全てを諦めた瞳は何も映さず、表情が抜け落ちた顔には死相だけが浮かんでいた。
それを目の当たりにした彼らは動く事を許されず、目の前から燼月永新の姿をした何者かが去るのを、ただ黙って見送る事しか出来ない。
そんな彼らが動く事を許したのは、時報の鐘の音だった。
「――ッ、え、永新くん……!! 待って……、待って、ください……ッ」
一番に動き出したのは絵麻で、四家を顧みる事無く永新を追って教室を後にしていく。
「だからあたしは、止めようって言おうとしたんだよ……っ」
続けて、御厨七星が責める訳ではない、自分達の罪を自覚させるような文言を吐き捨ててその後を追う。
「やり過ぎた、って訳か。念のため、俺も後を追う。お前達は、どうする?」
「……水が合わなかっただけの話だろう。それで僕達を恨まれても、お門違いだ」
「獅子王は、そうか……。甘奈はどうする?」
「…………え、あ、いえ、私は、何も関与していませんので」
「……そうか、甘奈は、確かにそうかもな」
それだけを言い残して晴也もまた、永新の後を追って教室を出ていく。
残された獅子王と甘奈の間に新たな会話が発生する事は無く、二人の脳裏には、今し方目にした何もかもを諦めた燼月永新の姿がこびりついて離れない。
二人が罪を自覚する事も、焦る事も無いのは自分達に辿り着く虐めの証拠がないからこそ。
だがしかし、そんな二人が焦燥に駆られる羽目になったのは、明くる日の事。
翌日、燼月永新は授業の時間が始まっても姿を現さず、二人のみならず、クラスメイトの多くが最悪を予期したのであった。




