127話
最終話。
「――ぁ、がッ!? やめろ、やめろやめろヤメロッ。出て、くるな……! お前は、出て……来るなッ!!!!!!」
白香厭麗の血管を通じて、満月の夜をその身に降ろす薬の効果を消すべく、瞬く間に妖魔の王の全身へと血清の効果は広がっていく。
誰にでも平等に流れる時の流れを止められないように、体に歴史を刻む瀑布の如き血流を止める事は、妖魔の王でさえも手出しの出来ない摂理であった。ましてや、妖魔の肉体を構成する霊力でもある血を一度でも止めてしまえば、白香厭麗は意識を保つ事すら危うくなる。そうなってしまえば最後、抵抗も虚しく殺されるだけであり、そんな惨めな最期など、妖魔の王としての矜持が許さなかった。
だが、白香厭麗はその矜持を捨ててでも血流を留め、薬によって目覚めた妖魔の王にとって血清と言う名の毒を受けた部位を切り離す事が最善の行動でもあった。そうする事で、多少なりとも生き延びる事が出来たかもしれないと言うのに。
妖魔の王を殺し得る存在、燼月永新が死ぬまで逃げ延びる事が出来たかもしれないと言うのに。
それでも、白香厭麗がその手段を取らなかったのは、死の一歩手前――否、最早死へと真っ逆さまに落ちていきながらも、自分に手を伸ばし続けた燼月永新と言う弱き人の子を、己が子への賞賛……せめてもの賛辞であったのだろうか。白香厭麗は、妖魔の王であると同時に、一人の子の親であったのかもしれない――
――などと言う事は決して無く、一切の事実無根であった。
真実はいつだって単純明快であり、人ならざる者の手によって美談へと捻じ曲げられていく。
これに纏わる真実は、流れの滞った泥沼のように悪臭を放つ、誰もが眉を顰めるような答えだけが、明確に残されている。
妖魔の王である【知悉騒嵐之妖主・白香厭麗】は、燼月永新が自身を殺し得る力を有していると知っていながら、力も無ければ勇気も無い、偶然選ばれただけの何も持ち得ていない、我が子と称する事さえも癪に障るような非力な存在だと侮った末に、その愚者の刃によって、殺される。
即ち、白香厭麗は、「殺されるはずが無い」と言う慢心。倶利伽羅の最盛期とも呼ばれた過去の産物さえも封印する事しか出来なかった己の強者と言う名の座に胡坐をかいた事で、圧倒的強者にして優性種としての誇りが、何の価値にもなり得ない矜持が、必要の無かった善意によって、足元を掬われた。
妖魔の王は、燼月永新を弱い弱いと罵った挙句の果て、自らの弱さによって、死に至る。傲慢の限りを尽くすに値する地位に座し、その限りを振るった白香厭麗は、自らの傲慢さに最期の判断すらも委ねた果てにその自らの行いによって命を奪われると言うのは、最早本望とすら思えるような最期であった。
最後の最後。あの一瞬に妖魔の王が垣間見たのは、己を殺し得る者の顔ではなかった事が、何よりの証拠。
――何故、私が敗北する。何故、私は恐怖する。何故、私は……。
白香厭麗が見たのは、一つの体に二つの意識を内包するが故の光景。
自分の体であるはずなのに、言う事を聞かないどころか、むしろ意識が消えゆくような、沈みゆく眠気に襲われる感覚の中で見た、自分と瓜二つな顔をしていながら、自分とはまるで違う感情を宿した自分の姿。
その光景がどこまでも腹立たしく、どこまでも憎たらしく、どこまでも忌々しい事だけを覚えていた。
しかし、それ以上の答えを見出すよりも先に、白香厭麗としての意識は、晴れた空に溶けて広がっていくように薄くなっていく。
打ち込んだ血清は即効性で、水の中に黒のインクを垂らしたかのように妖魔の王の全身に瞬く間に広がっていく。
「…………」
やめろ、出て来るな、と暴れていた白香厭麗がいつしか項垂れ、黙した後、まず初めに、宙を漂っていた花の嵐が力を失くして地に落ちる。
そうして静寂を取り戻した領域内で聞こえてくるのは、永新の喉が鳴らす血の混じったか細い息遣いと、真宵の地鳴りのするような唸り声と激しい呼吸の音だけ。
命が削れていくような静寂が満ちる中で、血清の効果など試す余裕も時間もなかった永新達の間には不安が募っていく。失敗したのか、ここまで導いてきてくれた全ての願いは、泡沫の夢のように消えてなくなるのか、と不安に駆られた――その時だった。
「――……えい、しん?」
白香厭麗が。
白が……、目を覚ましたのは。
これまで白香厭麗が浮かべていた、悪辣で、傲岸な表情とは打って変わり、永新や真宵が見聞き知ったる慈愛に満ちた白の表情が蘇った事で、二人の胸に歓喜が湧き上がるものの、白の体に突き刺さる真宵の牙はまだ抜けない。
永新を殺す為ならばなりふり構わなくなった白香厭麗が、白のふりをしているのかもしれない、と思うと、そう簡単に牙を抜く事は出来なかった。
しかし、使い潰した左目に加えて、全身の裂傷から噴き出す大量の血液が死に近い事を悟らせる永新には、最早それを判断出来る程の能力すら残っていないかのようで、彼女が白である事だけを信じて近付いていく。救いを求めるように、永新を求めるように伸ばされた白の手を取るように、永新もまた、何度よろけたとしても、彼女に向かって手を伸ばす。
「あぁ……! 永新……ッ!! 永新、永新……! 私の、永新……」
二人の手が触れ合った刹那、白は弾かれるように永新の手を体に寄せ、永新の顔を確かめるように何度も何度も触れて掻き抱く。そして永新もまた、自らに触れる白の手を歓迎するように自ら頬を寄せ、忘れるはずもない白の温もりに頬を緩めるのだった。その様は、再会を慈しむカップルのようでもあり、お互いに親愛を向け合う親子のようでもあった。
それを見た真宵は、静かに口から白を離し、自らも妖魔化を解く。
「……」
体に穴を開け、霊力も底を尽き、戦う意志も無い白は、地面に世断る事しか出来ずに永新の膝の上で抱かれる。
その様子を確認した真宵は満足そうに微笑んだ後、この後に起こる結末に想いを馳せながら、宿願とも言える彼女の願いを果たすに至った二人を祝福するかのように背を向け、潰れた右目を庇うように自らの着替えを探しにその場から離れていくのであった。
「永新……。ずっと、騙していて、ごめんなさい……」
「憎まれる振りは、もういいのか?」
「少し見ない間に、いじわるに、なりましたね。男子三日会わざれば刮目して見よ、ですか? 増々、貴方を手放したく、なくなりましたよ」
永新の血に塗れる事も厭わない様子で、白は背中に置かれた永新の手に全体重を委ねる。
片眼の潰れた永新は、両の瞳で白の姿を捉えられない事に悔いるものの、ルゥから与えられたアメトリンの瞳は所詮借りものに過ぎず、貸与期間が終わったに過ぎない。むしろ、はっきりと自らの双眸で白と対峙するのは、彼女が自分の本当の母親だと知った事で生まれた気まずい感覚が無いと言えば嘘になるからこそ、半分の思いで向き合う程度が、心地よかった。
開口一番に白が放った言葉は、謝罪だった。
それは、永新が自らの子である事を隠して、生まれた時から妖魔であった事も何もかもを知っていながら全てを隠して接してきた事だろう。恐らくはそれ以上の物事にすらも謝罪の意図を含めているのだろうが、永新にとってみれば全ては過去の産物。
永新は己の過去に感謝こそしないものの、今こうして誰かの願いを叶えられた事は、過去があるからこその結果である事に間違いないため、白を恨んだり憎むような真似は有り得ない。
そもそも、永新は白の事を憎んだ事など、妖魔として目覚めたあの時以来、一度として無いのだから。
あの時は気が動転していた事に加え、永新は自分がまさか妖魔の子であるなどとは知らなかった。まさか、もう一度会えると思っていた母親、燼月新夏がただの生みの親でしか無かったなどとは考えていなかったから。当時の永新にとっては、自分が殺したも同然の母親に謝る事だけが目的であり、それが済めば自分の命など惜しくも無かった。だからこそ、何を考えているかも分からない白には唯々諾々と従ったてきた。だと言うのに、結果を見れば、母親には会えず、自分は人の体から妖魔に堕とされる始末。パニックに陥らない方がどうかしていると言うもの。
だが、白は永新が妖魔に堕ちる前と後でも、態度は一貫して、永新の為に動いていた。
辛いときは傍に居てくれて、いつだって永新が欲しい言葉を与えてくれた。
それだけではなく、永新が悪いことすれば叱ってくれるし、永新が人間として成長するために必要な物事を教えてくれたのは、新夏はもちろんの事、白もまた、妖魔の身でありながらも永新に様々な事を教えてくれた大切な人であった。
母親を亡くしてから妖魔になるまでの期間。白は彼女自身の欲目があったにせよ、間違いなく永新の母親として彼の傍に居続けた。そんな献身的な彼女の事を、心優しき永新が恨んだり憎んだりするはずもない。むしろ、たった一度だけとは言え、白に手を上げたという事実は、例え白が望んでいたとしても永新の心に深い傷を作るものであった。
その一件に関して白は、一度きりの反抗期と捉えてむしろ喜ばしくすら思っており、その憎しみを活用する手立てを考えた。その頃には、白はもう永新に殺される未来しか見えていなかったものの、同時に永新を手放したくはないと余計に、強く思うようになっていた。
妖魔になった後、彼女が意図して嫌われようと、憎まれようと画策していた事を永新はなんとなく分かっていた。距離を置かれている事も含め、白は殺されるための下準備をしている事も。
だからこそ永新は白を殺す為の力をつけるのに必死だったし、白を殺さないで済む方法も同時に探していた。
しかし、永新が手に入れたのは前者の力のみで、その力もまた、与えられたと言っても過言ではない。故に、永新が自らの実力で手にしたものは、何一つとして存在していなかった。
霊力の負荷に耐え切れなくなったルゥの瞳は消え、羅威竿の霊力が雷として宿っていたガラス球は割れて跡形もなく消え去ってしまったように、永新は託された力さえも十全に振るう事すら出来ぬまま、何一つとして成し得る事無くゴールへと辿り着いてしまったのであった。
「……」
「泣かないで、永新。あなたは、これから……これ、から――」
それまでぼんやりとしていた白の朧気だった視界がようやく光を取り戻したのか、左目から流れた血を指で拭った白が、永新の有り様をその目で捉えると同時に言葉が失われる。
自分の指先に付着した、零れ落ちていく永新の命の根源。それが、気付けば水溜まりのように自分達の下に広がっている事に気が付いた白は、ただそれだけで、これから永新が行き着く先の答えを察してしまったのであった。
「……そう、そう言う事、なのね。永新……ごめんなさい――」
「謝らなくて、いい。むしろ、謝るのは、俺の方だ。白の、自慢の子になれなくて、ごめん。俺には、誰かを幸せに出来るだけの力なんて……初めから無かったみたいだ。こんな不甲斐ない子供で、本当に、ごめんな」
「永新……」
「だけど、こんな俺でも、白と……。母さんとは、ずっと一緒に、居る事は出来るから。……ずっと、一緒にさ……」
「っ、そんな、事……、只人の母であれば、喜んだりはしないのでしょうが……。残念ながら、私は、妖魔の王にして、一人の母なのです。永新、あなたの想いを嬉しく感じる私は……母親失格、でしょうか……?」
「……俺の方が、先に子供として失格しているんだ。欠けてる者同士、お似合いかもな」
お互いに握り合った手は固く、生まれ変わったとて二人は決して離れる事は無い、と示し合わせるかのように結びつく。二人の目から零れ落ちる涙は、悲愴か、歓喜か、それとも両方か。
白が永新に対して抱いていた感情は、紛れもなく愛情であった。
それは恋人に向けるような、手と手を繋ぎ合うような甘ったるい感情とは比べ物にならないくらい、嵐のように強く、激しく、そして重たい感情。会えて名を付けるとすれば、母が子に向ける親愛が最も近い感情と言えよう。永新を産み落とした燼月新夏が永新に向けていた感情を、何倍にも、何十倍にも膨らませたような思いこそが、白の抱く親愛だった。
対する永新もまた、それに応えられるだけの愛情を白に対して抱いていた。
永新が行き着く先。それは、妖魔の王が辿る道と同じ、長い長い旅路の果てであった。
その旅路を、祝福する者は誰も居ない。その果ての景色は二人だけのもの。後に続く者は、誰一人として現れる事は無い。そんな、重くて苦しい、残酷で、醜悪で、誰にも認められない、悲しい結末。
だからこそ二人は……、二人だけは、お互いを祝福するのである。
ただそれだけで、二人にとっては今までの全てが報われる。そうする事でしか、報われない一生だったから。
白と永新、両者の血が作り出した沼地のような血溜まりは、まるで永新の人生が変わったあの時を想起させるような雰囲気を醸し出す。
その血溜まりはお互いに死力を尽くした結果であり、永新の傷が、最早避けられぬ結末を結論づけているのは事実であった。
もし仮になけなしの霊力を振るって真宵の治癒術を用いたとしても、永新の負った傷と言うのは到底治癒し得ない損傷が永新の体の至る所に生じていた。いわゆる、致命傷と言うやつである。特に、脳の損傷に至っては、最後の一瞬の奮起の際に、再生能力が万全ではない状態の『千変万火』によって酷く傷つけられており、それだけでも治癒困難だと言うのに、脳以外にも永新の体は内外共に治癒術でも手の出しようのない状態にあった。
もし仮に一命を取り留められたとしても植物状態、もしくは、良くて今後一生ベッドの上での生活が余儀なくされる状態と言う程に危機が迫る身体状況であった。今こうして喋っている間も、いつ糸が切れて死に至るか分からない状態。妖魔の王の血によって血清の効果が上書きされるまでもなく、永新の体が力尽きる可能性がある事を彼に触れただけで理解した白は、最期まで言葉を交わしていたいと言う思いを、ずっと語らっていたいと思う気持ちを押し留め、一言「お願い」とだけ告げて、瞼を下ろした。
「…………白」
そんな白の想いが繋がり合った手から伝わって来るかのようで、永新はその事を嬉しく思いながらも彼女の想いを、自身の体の事情を汲んで決行へと移る。
淡白な最期。
それは永新にとっても悔いが残るものではあったが、一人では無い事、白と一緒だと言う事実が、永新の死に対する恐怖を無いものにしてくれる。
そう、永新はこれから死んでいく。
妖魔の王、白と共に、死んでいく。
目を閉じた白を支える左腕とは反対側の、永新が右腕に宿すのは、黒き炎。
白を、妖魔の王を殺す為の力がもたらしてくれた、漆黒の炎。
それは、過ぎ去りしいつの日かの再来。忘れがたき、過去の火の再現。
しかし、あの時に乗せた感情は、最早糧にすらならない。
その炎如きでは、妖魔の王を殺す事は出来ないから。
だからこそ、今この瞬間に乗せるのは――願い。
永新がここに至るまでに紡いできた、数多の祈りや、願い。
それら全てを右腕に宿して、永新は霊力を発露させる。
「――魔鏖極天」
静かに紡がれた言の葉が永新の口から零されると、轟、と音が立つ。
右腕に宿るのは、妖魔の全てを焼き尽くす漆黒の業火。
遠く離れた場所で見守っていた真宵すらも息を飲むほどに圧巻にして、妖魔にとって触れるだけで致命と分かる程に本能が訴える、恐怖の象徴。同時に、倶利伽羅の本懐でもあったこの黒き炎こそが、妖魔の王を殺す力なのであった。
そして「妖魔の全てを焼き尽くす」と言う名に相応しく、それは妖魔化した永新の四肢も例外ではなく、骨の髄まで焼き焦がされていく。
骨身に染みるような、文字通り全てが燃やされていく感覚と言うのは、今の永新にとってはむしろ心地良くすら感じられるもので、自分を取り巻く全てのしがらみから解放されていくような、そんな気分にすらさせてくれる。
「……俺は、白に出会えてよかったよ。結局、俺には何も出来なかったけど、それでも、色んな人に出会えた。大切な人が、沢山出来た。あの時、白が救ってくれなければ、味わう事の出来なかった感情を知った。白が思っている以上に、俺は大切なものを、たくさんもらっているんだ。だから、今度は俺が、それを返す番だ。本当に、心から感謝してる。だから、白。これは、俺の一方的な我儘だ。恩返しだ。この先もずっと……、ずっと一緒だ――」
「っ」
解放感に満ち足りて恐怖すら過ぎ去った状態の永新は、言葉短く思いの丈を吐き出した後、黒い炎に包まれた右腕を静かに白の胸に置くと、俄かに白の表情がぴくりと跳ねたような気がした。
永新が白と死期を共にするのは何も自分の命が消えかけているから、と言う投げ槍で自棄になったと言う訳ではない。
全ては永新が語った言葉の通り。永新は自分が居る今の場所は白が選んでくれたから、与えてくれたからここにあるだけであって、自らの死を望む白にその恩を返すにはこうする他無いと考えているから。
それは、選ばれてきた永新が初めて自分で選んだ道。
命と引き換えに妖魔の王を殺す事は確かに最善ではあるが、他にも方法は幾らでもあった。
だと言うのに、その最善手を取る事を選んだ理由は偏に、自分の為だった。
白に恩を返すため。
それは永新の本音であると同時に、建前でもあった。
正確には、どちらにも傾く天秤が後者である建前に大きく傾いた、と言うのが真実。
永新はただ、生きるのに疲れた、と言うのが本音だった。
もっともらしい理由を付けて、永新は逃げる事を選択したのだった。
何から逃げるのか。
それは、己を縛る運命から。
だが、それは果たして逃避と呼ぶに相応しい行動なのか。
これまで、永新は艱難辛苦と言う言葉すらも生温い、永遠に続くかと思われた責め苦に耐え続けて来た。倶利伽羅として人であった時も、妖魔となった後でも変わらず、今も。
その苦痛から逃れようとすることは、果たして罪なのか。悪しき行いなのか。
それが分かっているからこそ、白は永新の『恩返し』を黙って受け入れる。一言も発することなく、黙って彼の涙を、受け止めるのであった。
故に永新は、死んでいく。
己の生を恨むことなく、選ばれ続けて来た運命を呪うことなく、死んでいく。
自分をこの世界に作り出した、白の胸の上で、健やかな笑みを湛えたまま。
どこまでも深い愛情と感謝の気持ちで溢れ返る漆黒の業火は、それらを焚き上げるかのように燃え広がっていく。
遍く妖魔を焼き尽くす燃え盛る漆黒の炎は本来であれば冷たくも恐ろしい印象を抱かせるのだが、永新が己を糧として燃え上がらせる炎はそれに反するように、見ている者に安寧を与えるかのような温かさを湛えて、燃え上がるのだった。
「白麗様……。燼月……っ」
遠く離れた場所で真宵はただ一人。
無音になった白き領域の中で二人の行く末を見守る事しか出来なかった。二人の邪魔をする事だけは、妖魔の王であろうと、真宵であろうと誰にも許されない。そんな空気の中で燃え盛る漆黒の炎を前にした真宵は、歯を食い縛り、大粒の涙を頬に伝わせながら二人の行く末を見守り続けた。今にも動き出しそうな程に力んで握り締められたその手は、一体何を願うのか。
漆黒の炎が燃え盛る中、その光景を目の当たりにする真宵の眼からは、大粒の涙が頬を伝って地面に染みを作る。その涙の意味は誰にも分からないまま、地面に吸い込まれて消えていく。
それでも、たった一つの目が涙で滲むとしても真宵はその目を拭う事も、瞬きもせず、二人の最期の光景から目を背けることは絶対にしなかった。最後まで見守る事、それこそが自分に与えられた使命なのだと、二律背反する感情を胸に抱きながら。
白と永新の体が、漆黒の炎が作り出す黒色のドームの中で体の末端から燃え尽き、灰になっていく。その間、真宵は一切の言葉を口にしなかった。悲鳴も、嗚咽すらも上げることなく、ただじっ、と全てが終わるその時を待ち続けた。
真宵には、永新の苦労が分かっていたから。彼を迎えに行った時点で、永新がこの結末を望んでいたことも何もかも、分かっていた。それでも真宵は永新を止めなかった。止められなかった。
かつて永新が凍吉の覚悟を踏み躙った時のように、永新が望んでいなくとも、永新に嫌われたとしても恨まれたとしてもいいから、永新の覚悟を踏み躙って黒色のドームの中から永新を救出する勇気が、真宵にはなかった。
黒い炎の中、肉と骨が溶け落ちていく中、永新が白の体に寄り添い、白は永新を迎え入れる。お互いの体が折り重なるように一つになっていく光景を見て、誰が横槍を入れられるものか。
黒い炎は正しく二人にとっての聖域であり、真宵ですらも手出しの出来ない不可侵の領域。
真宵はただ、二人の歩く道の果てに幸福がある事だけを祈り、恨み、呪いながら、見守り続けた。
そんな中で、ただ一言だけ、白の、彼女が妖魔の王としての、最期の言葉が紡がれる。
それは永新に向けてではなく、遠くで見守る真宵に向けて――最強の名に相応しいだけの働きを見せた臣下に対して放った、紛れもない労いの言葉であった。
――ご苦労様でした。
「――ッ!!!!!」
喉はとうに焼け落ち、出るはずのない声。聞こえるはずのない声。
だが真宵にとって唇の動きを読む事なぞ朝飯前であり、幻聴や空耳ではない、確実に自身の鼓膜を震わせた声だと確信して目を見開く。
白――真宵達の王、白麗の最期の言葉に、真宵は心を震わせた。
「白麗様。ありがとう、ございました……!」
途端、真宵は導かれるようにして跪く。そうするべきだと、頭ではなく心で理解していたから。
あちこちに飛び散った血肉が漂わす鉄錆の臭いに混じって真宵の鼻孔をくすぐる人の肉が焼ける匂いを前にしても、真宵は最後までその姿勢を崩さずに維持し続けた。二人が燃え尽きるその時まで、一度たりとも目を逸らすことなく、二人の行く先に幸あらん事を、と祈るようにして。
燃やす対象を見失い、黒い炎が消え去ったのは、どれくらい経った頃だったか。
真宵は暫くの間、黒い炎が消えた後も尚、白に対して、永新に対して、最上の敬意を示す姿勢を取ったまま微動だにしなかった。放心していたと、言うのが相応しいかの如く佇んでいた。
だがそれもいつまでもと言う訳にもいかず、真宵はようやく立ち上がり、黒い炎があった場所にゆっくりと視線を向けていく。
二人の足元に広がっていた血溜まりすらも燃やし尽くした黒の炎は既に無く、永新と白だったものは、ただの灰と化していた。
「オレは――」
二人の元に駆け寄った真宵はその場にしゃがみ込み、地面に落ちた灰を拾い集める。
それを拾ってどうする訳でも無く、真宵は拾わなければならないと思ったのだ。
サラサラ、と手や指の隙間から零れ落ちていく様は虚しさすら湧いてくるもので、真宵は遣る瀬無い思いで胸がいっぱいになる。それでも、灰を拾い集める手は、止められなかった。
そんな時、領域の所有者であった白の死を認識したからか、荒れ果てて凄惨と化した光景が広がる境内が、空に溶けていくかのように揺れて消えていく。
「――宿無、真宵。やはり、貴方が……」
領域が消えると、真宵は寂れた神社の真ん中に姿を現した。
上はライダースを素肌の上から肩に掛け、下はパンツ一枚の姿で、地面に落ちた灰を集める真宵の姿と言うのは、異様と言う他ない。
その寂れた神社に偶然――ではなく、あるべくして居合わせた真宵を知る少女が、依然見たよりもずっと小さく感じられるその背に声を掛けた。
しかし、真宵は一切の反応を示すことなく、黙々と灰をかき集め続ける。早くしなければ、風に吹かれて消えてしまうから。
そうして全ての灰を拾い集めた真宵が立ち上がると同時に、再三呼びかけていた少女がもう一度、真宵の名を呼ぶと同時に、神社には一陣の風が吹いた。
「…………凍吉は、どうした」
「凍吉――フブキの、事? ……殺したわ。私の、手で」
「そうか……。なら、いい」
「待ちなさい!! 此処で、何があったって言うの……?」
「お前には関係ない事だ、炎導ササラ。……ただ一つだけ、遍く倶利伽羅に伝えろ――」
――妖魔の王は死んだ、とな。
「ッ!? それって、どう言う――!? 待って……ッ! 一体、誰が…………」
それだけを言い残して真宵は姿を消し、寂れた神社に残されたのは、北の盟主たる炎導ササラただ一人のみ。
妖魔である真宵の言葉など、本来であれば信ずるに値しないのだが、真宵の体に付いた数多の傷が、彼女の潰れた右目が、先程まで踏み入れる事すら出来なかったこの神社の中で――否、この神社に生成されたであろう領域の中で激しい戦闘があった事を物語っているのは事実だと認識せざるを得なかった。そして、一度相見えたササラだからこそ分かる、最強の名を冠する真宵にあれだけの怪我を負わせる事が出来る存在など、妖魔の王をして他に居ないとすら思える以上、ササラが抱いた違和感だけが証拠ではあるが、真宵の言葉は真実なのでは無いかと勘繰るに値するものと考えを改める。
そして何よりも、彼女が見せた喪失感漂う横顔が目に焼き付いて忘れられず、ササラは彼女の言葉をそっくりそのまま連盟に報告するのであった――。




