Ⅷ 『それぞれの想い』
森が焼けてから五日目の夕方。とうとう羊飼いがヘンゼル達の家にやってきた。
父親は兄妹を部屋に押し込めるよう母親に促し、母親も何かしらの不安を感じ取り、
すぐにグレーテルをヘンゼルに預けた。
「どうだ。兄妹を売る気にはなったか?」
三人の従者を引き連れて、リーダー格の男ドライが詰問した。
「前にも言ったはずだ……子ども達は売らんと」
「子ども一人につき30マルク……悪い金額ではないだろ。今のお前達にとってはな」
ドライが嘲笑うかのように、父親に金額を提示する。
30マルク。一家のひと月の収入、3~4マルクの約7倍ほどの金額だ。
「まさか……あの火事は」
「ふん。あいにくと幸せそうな家族とやらが嫌いなものでね」
「くっ……このケダモノめ!」
羊飼いを追い返そうと、父親が玄関先で振り立てる。
子ども達を売らすために苗畑を焼き払ったなど、許されることではない。
「ククク……なかなかに意思が固い。だが、貴様は必ず兄妹を売ることになる。30マルクが
欲しい……それは、まぎれもなくお前の本心だ」
「黙れ!!」
父親が嚇怒に燃えた。これ以上、子ども達に辛い思いはさせたくない。
それこそが、紛うことなき本心だ。
数年前、地方一帯を大規模な飢饉に見舞われたことがある。
その影響で、父親が薪や木工品を売りに行っても、まったく売れない年があった。
村人は明日のパンを手に入れるのに精一杯で、薪を買う余裕などなくなっていたからだ。
そして、当時まだ八歳だったヘンゼルにもその余波は降りかかり、
初等教育を二年目で辞めなければならなかった。
ヘンゼルは頭脳明晰で、学校での成績も上から二番目。教員からも将来を期待されていた。
それゆえ、彼の未来を奪ってしまったことに、父親は今でも心を痛めている。
できることなら、もう一度学校へ行かせてあげたい。
そう思っていた矢先の出来事だけに、これ以上の仕打ちは酷すぎる。
「まあ、いい……次に会うときが最後だ。それまでの間、子どもとの時間を有意義に過ごせばいい。
子ども達を売り渡す、その日までな」
ドライはそう言って薄ら笑みを浮かべると、ローブを翻し、従者と共に闇の中へ消えていった。
気がつけば、辺りは薄暗く、一時の黄昏は漆黒へと変わっている。
「俺は絶対に子ども達を売らん……あの子達の笑顔を奪われてたまるか」
☆
その日の夜。火事でのケガが原因で父親が倒れた。
「ハァ……ハァ……」
「あなた……」
両親の寝室にて。額に大量の汗をかきながら、父親が呻くように息を荒げていた。
事の重大さを聞いて、村の教会から神父が容態を診に訪れる。
村には診療所がないため緊急の事態には、豊富な知識を持つ神父を頼ることになっていた。
「旦那さん、私だ。分かるかね?」
神父が父親の目の前で手をかざし、朦朧とした父の意識を確認する。
「目をやられておるな……」
「目を?」
母親が苦渋の表情で聞き返す。詳しい症状は医者ではないため分からないが、
危険な状態であることは、神父の様子を見ればすぐに理解できた。
「どうすれば治るんでしょうか……」
「やはり、医者を呼ぶ他は……郊外の町に有名な医者がいる。彼ほどの名医なら、おそらく旦那
さんを助けられるに違いないと思うのだが……」
神父はそこまで口にして声を詰まらせた。
医者を呼ぶことが望ましいのは、誰から見ても明らかだったが、
一家には医者を呼ぶのに、二進も三進もいかない障壁があった。
「いくらですか? いくら払えば、そのお医者様に来ていただけるのですか?」
神父は一家の経済状況を知ってのことか、その先の言葉をためらった。
「う。ん……」
「神父様……お願いします。お金なら何とかしますから」
母親が神父に詰め寄り、何とかする旨を伝え懇願する。神父は目を伏せながら、
「20マルク……あるいはもっと」
消え入りそうな声で呟く。ため息が出るほどの金額だった。
20マルク、とてもじゃないが工面できる額ではない。生命線であった苗畑を失い、
今日明日の生活すらままならないというのに、どこにそんなお金があるというのか。
壁一枚を隔てた向こう側――兄妹の寝室で、ヘンゼルは神父と母親の会話に聞き耳を立てていた。
「20マルク……そんなお金、どこからも湧いてこないよ……」
彼は抗うことのできない金高に、絶望を感じていた。
☆
次の日の朝。ヘンゼルは途方に暮れたまま、教会に向かって歩いていた。
家では母親が父親の看病に付いているため、彼は礼拝堂で父の安否を祈ることしかできなかった。
教会に入ると、そこにはすでに先客がいて、神に祈りを捧げていた。
羊のヌイグルミをリュックサックにして背負った、小さな身体の少女が――
「神さま……どうぞお願いします。お父さまの病気が治りますように」
天板に掲げられたステンドグラスの下で、少女は手を合わせて祈っていた。
「グレーテル!」
名前を呼ばれて、少女が声のほうを振り返る。ヘンゼルは妹の元へ駆け寄った。
「グレーテル……一人で来たのかい?」
彼女はコクリと小さく頷いた。そして、
「お兄さま……えと、これ……」
スカートのポケットから何かを取り出して、ヘンゼルの前に差し出した。
妹の小さな手のひらに握られていたのは、数枚の硬貨だった。
「これは……?」
不意に差し出された硬貨を見て、ヘンゼルがグレーテルに詳細を訊ねた。
「……これで、お医者さまを呼べますか? お父さまの病気を治せますか?」
グレーテルが期待したように、灰色の瞳を兄に向ける。
医者を呼ぶのに必要なお金は20マルク。妹が差し出したお金は、1ペニヒ硬貨が2枚と、
2ペニヒ硬貨が1枚。100ペニヒで1マルクに対して、合わせて4ペニヒしかなかった。
ヘンゼルは用意されたそのお金が、妹がコツコツと貯めていた、わずかな貯金だったことを悟った。
〝お金が必要〟だということは、グレーテルも理解していたに違いない。
そして、家にはお金がないということも。その結果、彼女は自分の貯金箱を叩いた。
〝お金があれば父親を助けられる〟そう期待して……。
「グレーテル……ごめんね。このお金じゃあ、お医者さんを呼べないんだよ……父さんを助けられないだ」
けれども、妹はお金の価値まではよく分かっていなかった。
硬貨も紙幣も皆〝同じ金額〟だと思っていたのだ。
父親を助けられないと聞いて、グレーテルは一瞬うつむくも、すぐに顔を上げて、
「……大丈夫です。神さまがきっと……お父さまを助けてくださいます」
期待に添えず落ち込んでいる兄に、ニコッと笑顔を見せた。
「ごめん……ごめんよグレーテル」
ヘンゼルは涙が止まらなかった。こんなに小さな妹が、一生懸命に自分にできることを探して、
父親を助けたいと頑張っている。それなのに、自分は、ただ途方に暮れているだけ。
グレーテルだって本当は辛いはずなのに。どうして自分は、何もできないのか……。
「帰ろう……グレーテル。母さんが一人で待っている」
ヘンゼルは涙を拭いて、妹の手を引いた。そして、目の前に現れた人影を見て硬直する。
白いローブに目深に被ったフード。金色の刺繍に派手な紋章。
苗畑を焼き払い、一家を苦しめる謎の集団。
「羊飼い……」
教会に現れた四人組を見て、ヘンゼルが背中にグレーテルを隠す。
「ククク……危害を加えるつもりはない。まだ〝我々のモノ〟ではないからな」
先頭に立つ男ドライが、低く不気味な声で笑った。
「貴様達の父親も、素直に子ども達を売っていれば、あんな目に遭わずに済んだものを」
「どうして……どうして、父さんにいじわるをするんだ……」
ヘンゼルが羊飼いの男に、おそるおそる尋ねた。
家族のために、ひたむきになって働いてくれる父親は何も悪くない。
それなのに、どうしてこんな酷いことをするのか。
「ふん。〝子ども達を手に入れるため〟とでも言えば、分かるかな? そうだ。父親は貴様らのために
犠牲になったのだ。お前達を我々から守るためにな」
ドライが戦略的な口調で捲くし立てる。ヘンゼルはそれ以上、何も聞き返せなかった。
「小僧、母親に伝えろ。明日の正午、教会の鐘が鳴るまでに村の酒場へ来いと。25マルク用意しておこう。
25マルクで子ども達を買うとな。5マルク下がっても、今の状況じゃあ喉から手が出るほど欲しい金額
だろう? いいか? これ以上待たせたら、渡す金をもっと減らす。父親を救う方法はないと思え」
そう兄妹に告げると、ドライは従者を連れて去っていった。
「……お兄さま」
グレーテルがヘンゼルの服を握ったまま、彼の背中から顔を見せる。
「大丈夫……グレーテルは僕が絶対に……絶対に守るから」