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咆哮のグレーテル  作者: 胡桃ヌイ
★第一章 『ヘンゼルとグレーテル』――Kapitel 1:Hänsel und Gretel――
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Ⅸ 『契約そして別れ』

約束の日の正午。酒場の扉が開く。

店内には怯えた様子の店主と、ドライを含む四人の羊飼いが、座席を占領していた。


「貴様……母親はどうした?」


酒場に入ってきたヘンゼルを見て、ドライが驚いた様子で睨みつける。父親を救うため、

おそらく来るだろうとは予想していたが、ヘンゼルが一人で来たことは想定外だったようだ。


「答えろ。母親はどうしたと聞いている」

「母さんには……言っていない」

「貴様……それがどういう結果を招くか、分かっているんだろうな?」


ドライを始め、羊飼いの面々が一斉にヘンゼルを注視する。

ヘンゼルはゴクリと唾を飲み込んで答えた。


「一つ聞きたいことがあるんだ……もし、あなた達についていったら、どこに行くのかを知りたい」


ドライはウイスキーのボトルをグイっと一口喉に流し込み、淡々と応えた。


「シュヴァルツヴァルト……通称『黒い森』だ」

「黒い……森」

「ここから州を跨いだ、バーデン=ヴュルテンベルク州に位置する巨大な森……そこが子ども達の

 行先だ。そこで『被験体』として生活を送ってもらう」

「被験体って……いったい何を」

「ククク……だが、心配することはない。被験体としての生活は、冬が終わるまでの期間。春先に

 なればここに戻ってこられる」

「春になれば戻ってこられる!?」


ヘンゼルは意外だった羊飼いの言葉に、思わず身を乗り出した。


「ああ……だからすぐに母親を呼んでこい。否、貴様自身が契約を交わすというのなら、それでも

 かまわんがな。どうだ? 簡単な契約を交わすだけで、父親は助かり、金も手に入る。契約は冬

 が終わるまでの短期間。これでもまだ頑なに拒むか?」


羊飼いと契約すれば、25マルク。それで医者が呼べて父親も助かる。

『彼ら』の言葉通りなら、契約は冬が終わるまでの間で、春になれば家に帰ってこられる。

どう足掻いたって、この条件を呑むしか父親を救う方法はなかった。


父親はきっと、こんな結果を望んではいない。母親や妹を悲しませる行為は、『強さ』の証明では

ないからだ。でも……それでも、


「僕……行くよ。父さんを……ううん。家族を救うためだもの」


ヘンゼルが決意を固め、羊飼いの男に意思を表明する。


――父さん、約束を破ってごめんなさい。ちょっとだけ強くなれたと思ったのに、これじゃあまた

怒られちゃうね。だけど……僕は自分で決めたことは絶対に守るよ。


「そのかわり、グレーテルは……妹にだけは手を出さないでほしい」


グレーテルは何があっても守る。その意思だけは絶対に揺るがない。


「ほう……まあいい。貴重な草案だ。お前一人でも充分に価値がある。ツェーン、契約の用意をしろ」


      ☆


グレーテルは兄を捜して、村の中を歩き回っていた。

朝早くに用事があるといって家を出ていったきり、彼は一向に帰ってこない。

もうすぐ昼食の時間帯だというのに、どこで何をしているのだろうか。

もしかしたら、兄の身に何かあったのかもしれない。そう思って家を飛び出し、

彼女は心もとなげな表情で、兄の行方を追った――


『木こりの旦那、危篤状態らしいな』 『ああ。それも、医者を呼ぶしか手がないんだと……』

『そりゃあ、難儀な話だ』 『奥さんも疲れ果てた様子だったよ』


村では苗畑の騒動も含め、父親の話題があっちこっちで飛び交っている。

気がつけば、村の中心地――噴水広場に出向いていた。


グレーテルは噴水の側にちょこんと腰をかけ、背負っていたヌイグルミを手元に降ろした。

ふわふわと柔軟な感触を抱きかかえ、昨日、教会で羊飼いが話していたことを思い返す。


【小僧、母親に伝えろ。明日の正午、教会の鐘が鳴るまでに村の酒場へ来いと】


もしかして……そう思い、グレーテルは酒場の位置を頭の中で確認する。

そして噴水からピョンと降り、ヌイグルミを背負い直すと、一目散に目的地へと急いだ。


      ☆


「小僧、ここにサインをしろ。お前を春まで買い取るための証文だ」


簡易な契約用紙と鉛筆を、ドライがヘンゼルに手渡す。


「ここにサインを書くだけで25マルク。どうだ? 簡単だろう」


羊飼いに(そそのか)され、ヘンゼルは鉛筆を握った。

この用紙にサインを書くだけ……それだけで父親を助けられる。

『彼ら』の言う通り、実に簡単な契約だ。

それなのに……どうして、こんなにも手が震えているのか。


「……ぅう!」


小刻みに揺れ動く利き腕を、もう片方の手で押さえ込む。

そして、恐る恐る用紙にペン先を近づけ、大きな×印を書き込んだ。その時だ。

酒場の扉が唐突に開き、その場にいた全員が、一斉に出入口を凝視した。


全員の視線が集まる中、店内に入ってきたのは、羊のヌイグルミを背負った小柄な少女だった。

少女は不安げな表情でしきりに店内を見渡すと、奥の席に居座る羊飼いと兄の姿を見つけて、

トテトテと小動物が駆けるように歩み寄る。


「グレーテル!?」


グレーテルはそのまま、飛び込むようにヘンゼルに抱きつき、兄の腹部に顔を埋めた。

予想外だった妹の登場に、ヘンゼルは戸惑いながらも彼女を受け入れ、優しく髪を撫でてやる。

ここに来るまでの間、全速力で走ってきたのだろう。グレーテルの身体から仄かに熱を感じた。


「グレーテル……どうして、ついてきたんだ」


妹の両肩を掴み、ヘンゼルがやや上擦った声で叱責する。

グレーテルはうつむいたまま、しばし沈黙し、やがて消え入るような声で答えた。


「お兄さまは……うそつきです」


スカートのすそを握りしめ、グレーテルがひどく切なげな表情になる。


「ずっと一緒にいてくれるって……お兄さまは言ってくれました」

「グレーテル……」


それはヘンゼルとて同じだった。でも――もう〝自分にしか〟父親を救える手立てはないんだ。

うそつき呼ばれされても仕方がない。背に腹は代えられないのだから……。


「グレーテル、分かっておくれ。お兄ちゃんは――」

「だから……わたしもいきます」

「え……」

「お父さまを救えるのが〝わたしたち〟なら……わたしも、お兄さまと〝一緒に〟いきます」


父親を救えるのは自分だけ……そう思っていたヘンゼルに、

彼女の言葉は、チクリと痛むものがあった。


妹を守りたい。その一心だけで、ヘンゼルはグレーテルを守ったつもりになっていた。

自分が羊飼いと契約すれば、彼女が辛い思いをしなくて済む。それで守れるものだと。

けれど、そうじゃなかった。本当に守るべきものは、兄妹それぞれが持つ『想い』だったからだ。


ヘンゼルの想いが、妹を守ることであるように、

グレーテルにも、強い想いがあったに違いない。


【お兄さまと……ずっと一緒にいられますように】


二人で流れ星を眺めたあの夜。恥ずかしそうに彼女が言った願いごと。

その『想い』を守るため、グレーテルは兄をうそつきだと責めたのだ。

どうして〝自分一人〟で問題を抱え込むのか。どうして〝自分にも〟相談してくれないのか。

父親を救えるのは、自分〝たち〟なのに――


グレーテルの熱意を聞いて、羊飼いがパチパチと二人に喝采を送る。兄妹は二人して身を縮めた。


「ククク……素晴らしい。実に素晴らしい兄妹愛だ。まさに我々が求める『最高の物語』を創って

 くれるに違いない。小僧、どうだ? 25マルクだけでは心細いだろう? 父親の病気が治った

 として、その後の生活費も必要じゃないのか?」


羊飼いの言う通りヘンゼルの契約金だけでは、医者を呼ぶだけでお金がなくなってしまう計算だ。

その後の生活が保障されているわけではない。子ども一人につき30マルク。いや……値切られた

今は一人25マルク。それでも二人なら……いいや。それじゃあグレーテルを巻き込んでしまい、

本末転倒になってしまう。


様々な思考を張り巡らせ、ヘンゼルが苦境に陥る。


「わたし、お兄さまと一緒なら恐くない。お父さまの病気が治るなら……何でもします」


グレーテルが葛藤に悩む兄を見て、強く言い放つ。

自分を犠牲にしてでも、父親を、家庭を助けたい。そんな強い想いが、彼女の瞳から伝わってくる。


グレーテルは、小さい頃からヘンゼルの後ろ姿を見て育ってきた。

どこへ行くにも、何をするにも、妹は兄を追いかけるようにくっついてきた。

何でもテキパキとこなせる、そんな兄にずっと憧れていたからだ。


けれど、兄を追いかけては転んでケガをして、兄の真似を見よう見まねですれば失敗して傷ついて。

〝兄に近づきたい〟そう感じているのに、彼の背中にはグレーテルの手は届かない。


だから嬉しかった。


【グレーテル、いつも母さんのお手伝いをしてくれて助かってるよ。ありがとね】

【グレーテルは料理を作るのが本当に上手なんだね】

【凄いよ! グレーテル。よくできたね、大正解だよ】


ヘンゼルに……大好きな兄に褒められるのが、頼りにされているのが、本当に〝自信〟になった。

だからこそ、もっと自分を頼ってほしい――『兄妹』なんだから。


「グレーテル。僕と……僕と一緒に、父さんを助けてくれるかい?」

 

グレーテルはヘンゼルの問いに対して、背中に背負っていたヌイグルミを手元に降ろす。

そして、両手でヌイグルミを持って兄の前に突き出した。口数の少ない妹がヌイグルミで表す、

意思表示の一つで、『肯定』の意味だった。


      ☆


「こんばんわ奥さん」

「どなたですか?」


午後八時を回った頃。入浴から出たばかりのヘンゼルがグレーテルの髪をタオルで乾かして

いると、教会の神父が背広を着た初老の男性を連れて家を訪ねてきた。


「神父様、そちらの方は?」

「私は郊外の町で小さな診療所を営んでいる医者であります。旦那様の容体をお聞きしてやっ

て参りました」


母親が神父に尋ねると、初老の男性が軽く会釈をして答えた。


「……医者? しかし家にはお医者様に支払うお金は……」

「奥様。すでにお代は頂いておりますゆえ、ご心配にはおよびません。旦那様はどちらに?」


母親はお代を頂いたという初老の医者と、物寂しげな神父の顔を見渡してハッとした。


「ヘンゼル、グレーテル……お前達まさか羊飼いに……」


父親は隣室のベッドで、呻き声を上げながら小言を呟いていた。


「うっ……俺は絶対に……絶対に子ども達を……」


母親と医者が、父親の側に寄り添い顔を覗き込む。


「旦那様、聞こえますか?」

「あなた、お医者様よ」

「医者……うっ」

「静かに。動かないでください」


医者はそう言うと、すぐさま治療の準備を始めた。


それから数時間が経った頃。母親が医者に促されて部屋を出ると、部屋の前で兄妹が肩を

寄せ合って眠っていた。父親の様子が気になってここでずっと待っていたのだろう。


「ヘンゼル……グレーテル」


母親は父親を心配して待っていた兄妹を抱き寄せた。

そして、それに気づいたヘンゼルが目を覚ます。


「母さん……父さんは?」

「眠ってるわ」

「じゃあ……」

「ええ。もう大丈夫よ……二日もすれば元気になるって」

「良かった……良かったね母さん」


ヘンゼルは安堵した様子で、母親にもたれかかった。


「ヘンゼル、グレーテル……お前達、何てことを……」


母親は自分の知らないところで、兄妹が羊飼いと契約を交わしていたことを嘆いた。


「心配しないで母さん。半年だけなんだ。春になれば戻ってこられる。そう約束したんだ」

「どうして何も言ってくれなかったの。こんな大事なこと……二人で悩んで、二人で抱えて」

「ごめんなさい。でも僕達平気だよ。父さんのためだもの」

「ごめんね……お母さんこそ何もできなくて……」

 

母親は兄妹を強く抱きしめた。何一つ子ども達に幸せを与えてやれない。

そんな己の非力さに涙した。そして二日後。兄妹が村を出る日がやってくる。


      ☆


兄妹が父親を救った日から二日目の朝。二人は村の入口で、両親と最後の別れをしていた。


「いいかいグレーテル。この中に二人分の昼食を入れているわ。お昼になったら、

 お兄ちゃんと分けて食べること。いいわね?」


母親がグレーテルにランチバスケットを持たせ、ブラウスの紐タイをギュッと整えてやる。

妹の背中にはリュックサックのヌイグルミが、持てるだけの生活用品を詰めて担がれていた。

 

「ヘンゼル……すまない。父さんが不甲斐ないばかりに、お前達を……」


兄妹の契約したお金で医者を呼び、その甲斐もあってすっかりと父親は元気になっていた。


「ヘンゼル。どんな事があっても絶対に下を向くな。木こりは常に上を向いて成長していくんだ。

 生きろ……何があっても生きるんだ。必ず……必ずお前達を迎えにいく」


両親と最後の別れを済ませ、兄妹は馬車の荷台に乗り込んだ。 

そしてドライの掛け声と共に、ゆっくりと荷馬車が走り出す。

兄妹は遠くなる両親に、身を乗り出して手を振った。


『可哀想になぁ、あの兄妹。もう二度とこの村には帰って来れねえよ』

『ん? 契約は冬が終わるまでの間だろう。春先になれば帰ってこられるんじゃないのか?』

『そんなの、あの子達を契約に乗せるためのデタラメだ。羊飼いに買われた子ども達は、二度と

 帰って来れねえ。誰一人、戻って来たって話がないからなぁ』


別れを惜しむ一家を眺め、村人達が遠くで噂する。


「さよなら……父さん、母さん」

 

ヘンゼルは両親が見えなくなるまで、その姿を見続けた。


絶対に帰ってくるんだ。

いつかまた家族みんなで一緒に暮らすんだ。

この村には僕達の家がある。

ここが、この村が僕達の〝ホーム〟なんだから――

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