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毒に刃、世話役

 阿鼻叫喚。

 いつだったかキヨが聞かせてくれた昔話に、そんな単語が出てきた気がする。辛苦な現状に泣き叫ぶしかない、(むご)たらしいさま。たしかそういった意味だ。そしてたぶん、今目の前で起こっているであろうことをいうのだと、カルマは思う。

 村はもう、悲惨な状態だった。だと思う。


 まだお前には炎の明かりも悲鳴もきっついだろうから、この羽織りをきっちりと被って目も耳を塞いでおけ。そう羅刹(らせつ)に言われ、カルマはその通りに実行している。だからはっきりと村の現状を把握することはできない。

 だが、どんなに耳を塞いだところで全ての音がシャットアウト出来るわけでもなかった。たくさんの悲鳴が、完全に塞ぎきれない隙間から滑り込んでくる。大きな地鳴りとともに、地獄から響いているのかと思うほどの轟音たちが耳をつんざく。あちこちから()ぜる音がするのだが、そもそも爆ぜる音が何を示すか分からないカルマはただ得体の知れない恐怖に震えるしかなかった。


 けれどこの現状、引き起こしているのは自分だ。これは羅刹の手をとった自分への罰だと、身勝手な涙が溢れた。

 後悔しそうになって震える自分が憎い。こうなることを想定していなかったわけじゃない。むしろそうなるだろうと理解していた。羅刹の手と取ったときから分かっていたはずなのに。羅刹もいっていたはずなのに。

 弱いからこそ、この現状に怯えてしまう。そして一番考えたくないことが、勝手に脳裏を焼き焦がす。


 この命は、他者の命を奪ってまで生きる価値はあるのか。それも他者が、この命のために別の命を奪う価値があるのか。羅刹に人を殺めさせてまで、生き残る価値があるのだろうか、と。


 それは己を連れ出すために他者を狩る羅刹の想いを裏切る行為だ。自由を望み、予測していたとはいえ、実際それを肌で感じたら躊躇うだなんて。弱過ぎる心に、心底嘆く。

 そうして鬼だったらよかったと逃げる。迷うことをしらない鬼だったら、こんな風に悩み嘆き怨み慟哭しても消えない想いを抱えずにすむのにと。


「………カルマ、様」


 ふいに、轟音の隙間から届いた声はよく知った声。ずっとずっと傍にいてくれた声。

 カルマは丸めていた身体を起こし、顔を上げる。目をしっかり閉じているはずなのに、炎の眩しさを感じ、そのあまりの光量が瞼を焼いてしまうのではないかいうほどだった。

 羽織りの下でカルマは思い切り顔を顰め、それでも声の主を捜すように首を左右に振った。


「………キヨ?」


 返事は返ってこなかった。代わりに近づいてきたのは足音。それから背後から包まれるような温かさと、脇腹に走った激痛だった。焼けるような痛みに、刀か何かに刺されているのだとすぐに分かった。

 引き攣ったような呼吸とも悲鳴ともとれない声を、カルマは思わず上げた。

 脇腹の痛みがさらに増す。水をかき混ぜるような音がしたのは、傷口が抉られたからだろうか。こみ上げる不快感に勝手に口が開けば、鉄錆びの味がした。


「鬼になぞ……」

「キヨ………」

「鬼なぞにはカルマ様は渡しません…!」


 キヨの温かさが離れると同時に、腹に痛みを与えていた異物が引き抜かれる。まるで心臓がその傷口に移動したかのように、痛みが激しく脈打った。その脈に合わせて血が噴き出すのが分かる。意識が遠退く。己の血の池に、溺れるようにカルマは倒れ込んだ。


「カルマ!!」


 羅刹の叫び声が耳に届いた。けれどもう、カルマには返事をする気力が残っていなかった。

 もともと血を抜くことを日常的にしていたせいか、普段からカルマは貧血気味だった。それでもある程度平気だったのは、ほぼ動くことを知らぬ生活をしてきたためだ。それなのにこの出血。裂かれた脇腹から吹き出ている血量は、今もなお止まることなく大地を濡らしている。


 顔を上げることができず、それどころか倒れた身体を動かすこともできないカルマを、羅刹が抱き起こした。

 間違いなく、今この顔は蒼白だろう。そばで息を飲む音が聞こえて、やっぱりかと笑う。もっとももうほとんど身体の感覚がないため、本当に笑えていたのかは謎だが。


 そのまもなく、おびただしい出血に耐えかねたカルマの意識がいよいよ飛んだ。






 流れる空気の匂いが変わった。もともと血なまぐさかった空気だったが、そこにさらに知った血の匂いが混じった。

 腐臭したような、普通の人間では有り得ない血の匂い。ひどく鬼の嗅覚を揺さぶるほどの、甘くも感じる匂い。食欲が促されるような匂い。毒女(どくめ)の、カルマの血の匂い。


 急いでカルマを置いた場所に戻れば、そこには彼女の他に血に濡れた刃物を持った一人の女がいた。顔に刻まれていた皺からいって、年の頃はもう60に近いあたりか。

 はじめて見る顔ではあったが、羅刹はこの老婆の匂いは知っていた。カルマがいた洞でよく嗅いだことがある匂い。十中八九、この老婆はカルマの世話をしていたキヨという人間なのだろう。


 こちらに気がついた老婆は、途端に顔を顰める。それもたっぷりと憎しみが籠った表情。こうやって直接会うのははじめてだ、怨まれてるようなことはしていないはず。もっとも鬼だということから、ただそれだけで人間から嫌われるのが常だから別段驚くことでもなかった。

 けれどそんなことなど、今はどうでもよかった。とくにその老婆の傍にカルマが倒れていることに気がついてしまえば。


「カルマ!」


 いそいでその傍に駆け寄った羅刹だが、カルマに手が届く一歩前で邪魔がはいった。老婆が倒れたカルマを庇うように抱え、羅刹に血に濡れた刃を向けたのだ。


「どけ! ババア!!」

「カルマ様に近寄るな!」


 老婆はいきり立ったように刃物を振り回したが、羅刹にとっては恐るるに足りぬこと。たしかに毒女(カルマ)の血に塗れた刃は羅刹の血肉を裂くだろうが、そもそも(かす)らなくては意味がないのだ。ただ闇雲に空を切る太刀筋を避けるなぞ造作もない。

 羅刹はあっさりと刃を持つ老婆の拳ごと掴むと、そのまま側面に払うように投げ飛ばす。ためらいもなく投げられた老婆の身体は、派手な音を立てて近場の柵に突っ込んだ。


「カルマ、しっかりしろ!」


 己の羽織りに包まれたカルマを抱き上げた羅刹は、ただその有様に息を飲んだ。もともと血色がいいほうではなかった彼女だが、とりわけ今は大地が少しぬかるむほど流れた血のせいで顔面蒼白。名を呼んでも反応することもなく、かろうじて息はしている程度だった。


「なんで、どうして……」

「……醜く卑しい化け物風情に」


 憎しみが込められたその呟きは、間違いなく老婆のもの。視界の端に、柵の残骸から身体を起こしかける老婆の姿があった。

 打ち所が悪ければ死んでいてもおかしくない衝撃だったろうに、運が良かったらしい。とはいえ、かなりの痛手ではあったようだ。起こしかけていた身体を支えきることが出来ず、老婆は力なく再度崩れる。内蔵がやられたのか、吐血もしたようだった。


「……醜く卑しい化け物風情になんぞ、カルマ様はやらぬ」

「その化けもんに助けを請うほど追い込んだのは誰だ!? お前らだろう人間だろうが!」


 老婆の言葉に血が上った羅刹は、唸るように叫んだ。


「……鬼なぞには分かるまい。人の世を知らぬ鬼が、ようも知った風な口を叩く」

「ああ分からねえよ! くだらねえ人の世なぞ!!」

「人の世は、毒女の世だ」

「こんな世に縋って何になる? こんなんなる前に逃げりゃいいだろうが!」

「だから、人の世を知らぬ鬼だというのだ。逃げた先に、何がある?」

「自由があるだろう!」

「それと今の生活を天秤にかけたとして、すべてを賭してまで前者を選ぶことがいいとでも?」

「当たり前だ!!」


 けれど老婆は喉を鳴らしてあざ笑う。


「女だけでに逃げ出してなんとする。まともに生きていけるとでも? たとえ逃げ出したとして、どうやって生きていけというのだ?」

「その気さえあれば、どうとでもやっていけるだろう!」

「我らは特殊だ。毒に犯された身体では普通に生きることなどできやしない。畑を耕して行きていこうにも、この毒に大地がやられ作物は育たぬ。川で魚を捕っていこうにも、水が同様に痛む。春を売ろうにも、相手を殺すばかりの結果になるのは目に見えたこと。

 それでも、自由をやらを手にする必要があると? この世はそんな生易しいものではない。鬼のお前ならば、それがよう分かっているはず」

「だから手をかけたのか!」

「先に言ったろう? こんな世だが、毒女の世でもあると。世を拒んでまで得る結果など、虚しいだけ。ならばいっそ………」


 老婆のいうことも分からなくはなかった。けれどそれは、弱者ゆえの考えだ。己の身を守ることすら苦労する、弱い人間の思考。


「なら、俺が守ってやる」

「何をおかしなことを。毒女とはお前らを狩るための存在であろうが」

「たしかに。だが好きでそうなったわけじゃねえだろ、毒女なんてもんはよ」


 羅刹はそっと己の腕に抱かれて動かないカルマを見る。相当深く刺されたのか、血が止まらない。その血によって羅刹の腕がひどく(ただ)れていたが、気にすらならない。まだ微かにカルマは呼吸はしているものの、先はすでに見えていた。

 さあ、どうする。羅刹は己に問いかける。けれどもう答えはとっくに決まっていた。


「………どの道もう、手遅れだ。カルマ様は、持たぬ」

「そうだな。このままなら間違いなくカルマは死ぬ。どうせまもなく失う命だ。けど、ならばこの血に賭けるのもありだ」

「何を……」

「俺の血を……鬼の血を、カルマに与える」


 毒女の血肉が最強の毒といわれるように、鬼の血肉もまた言い伝えられていることがある。

 鬼は最強の生き物だ。頑丈な身体と類い稀な回復力を持つ。それゆえ、長命の妙薬になると言われている。ただあまりにも強い力を持つ血ゆえ、貰った側が受け入れきれず死ぬことが多いのだが。

 けれどもう、他に縋るものなどない。虫の息であるカルマを活かす方法はこれしかない。もっともそれだって確実ではない。


 羅刹は己の指先に歯を立てた。力強い顎により皮膚が裂け、そのまま噛み切れば一気に鮮血が溢れ出す。そうして、その傷口をカルマの口内に突っ込んだ。

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