毒から鬼へ
カルマは長生きしたいと思うことがなかった。それだけ毒女にとっての日常は味気ないもので、執着するものがないということ。己の寿命すら感心がない毒女は、さして珍しいものでもない。
だいたい、この異様な身体で長生きを望むなど虚しいにも程がある。いくら望んだところで叶いはしない願いに、何を見出せるというのだろう。見出せるものなぞ、何一つない。
ずっとそんな思いで生きて、死んでいくのだとカルマも思っていた。それが毒女の運命だからだ。諦めきってこその人生が、毒女にとっては優しいものになる。
なのに、この死に間際になって、心残りがあることを知ってしまった。あの鬼に、伝えたい言葉があるのだと気がついてしまった。
泥沼のような意識の中。ひどく気怠いながらも、静かに己の覚醒していくのを感じ始めていた。どうやらこの身体、感覚的にどこかで寝っ転がっているようだ。そのうち自発的に呼吸をしていることも自覚する。
死んだと思ったこの身体。いや間違いなく死んだであろう身体がなぜ。あの傷を受けて生きているなど、有り得ない。
ゆっくりと浮上する意識に合わせるかのように、カルマはようやく目を開く。途端、あまりの鮮やかな視界に目が焼けると思った。まるで光と色の洪水だ、とてもとても眩しい。けれどこれほど美しい世界もまた、見るのははじめてだった。
もしやここが世に聞く、極楽浄土というところか。たしかにカルマが知るこの世とは思えぬほどの光景。苦しみもない幸せな世界だと聞いているが、どうしたことか怠くて怠くて仕方がない。
まだこちらの世界に慣れていない証拠なのだろうかとも思うが、怠いと思う感覚があること自体おかしいとも思う。すでに身体がないであろう今は、肉体的な苦痛はないはずなのだ。怠いなど、本来ならば感じえないもの。ならばこの感覚は何なのか。
………やっぱり、生きている。ということなのだろう
ようやく身体を起こすだけの気力も湧いて、カルマはゆっくりと上半身を起こした。身体に掛けられていたであろう、羽織りが落ちた。ずいぶんと血なまぐさいものだったが、自分に羽織りを掛けてくれるのは羅刹くらいだ。
そこにきて、「あれ?」と思う。その羅刹はどこにいるのだろう。すぐさま辺りを見回すが、その姿は見つからない。そうこうしている内に聴覚も研ぎ澄まされていった。
木々が風にざわめく音。風が大地を巻き上げる音。鳥のさえずりに、虫の声。どこかで水のながれる音だっても拾い上げた。
水が近くにある。改めてそう思えば、カルマはふらりと立ち上がった。
「のど、乾いた……」
羅刹のことは後回しでもいいか、と思う。きっと彼ならカルマを見つけることだろう。最悪、夜までの我慢だ。夜になれば羅刹の力は強まるというし、間違いなく呼べば声が届くはず。
血塗れの羽織りを脇に抱えつつ、カルマは歩き出した。
さほど歩かぬうちに、流れる川は見つかった。さほど大きなものではなかったが、そもそも川自体がカルマにとっては珍しい。洞暮らしが長かった彼女にとって、この世のもののほとんどが珍しくもあるのだが。
さっそく喉を乾きを潤そうと、カルマは川に近づいていく。流れのすぐ傍でひざをついて、さて水を飲むかというときになって固まった。
「…………、うそ」
水面に映った顔は、間違いなく己のもの。けれど今までなかったものが、両脇の耳上辺りから生えている。闇色に輝くそれは触れるとひんやりと冷たく、そして固かった。この感触は知っている。羅刹に触らせてもらったことがあるから。
これは、角だ。鬼の、角。
「どう、して………」
「転化したんだよ、人から鬼に」
返された言葉にはっとして振り返れば、近くの大岩にだらしなく足を投げ出して座る羅刹がいた。彼はその手に何か持っている。生臭い匂いからいって、たぶん生肉ではなかろうか。無論初めて見るものだから、しっかりとした確証はない。
それよりも聞き捨てならない言葉があった。人から鬼に転化したと、羅刹はいわなかっただろうか。
「………なら、わたしは……」
「もう人じゃねえ、鬼だ」
「わたしが、鬼……?」
「そうだ。俺と同じ、鬼だ」
驚いて言葉も出ないカルマに、羅刹がその経緯を話した。
あまりのカルマのひどい傷に、最後の賭けしてみたこと。それが鬼の血を飲ませることであり、負った傷が癒えるか、それとも死ぬかは分からなかったこと。結果カルマは生き残ったこと。
ついでに村なら全滅した、と最後に羅刹は付け加えた。キヨもたぶん、巻き込まれたのだろう。戦を起こした原因である己が泣くなど、許されない気がした。
「………そう」
一通り話を聞き、カルマは納得するように頷いた。けれどまだ腑に落ちない点もあった。
「でもその話を聞く限り、わたしが鬼になることはなかったんじゃないですか?」
「そう、普通ならそうだ。一時的な治癒能力だけが発揮されて、人のままのはずだったさ」
「なら………」
「お前が、鬼の血を引いてたからだ」
さすがにそれにはさらに驚いて、思わずカルマは目を見開いた。
「血を引いてるって……」
「親か、もしくはその親の親か、さらにその親か、そう遠くないお前の血筋に鬼がいたんじゃねえかな。今までは人の血が強かったんだろうが、俺の血が混じったことで転化したんだろうよ」
「……そう、なんだ」
「けど、完全な鬼になったわけでもねえ」
ならば己は不完全な鬼ということになるわけなのだが。そもそも完全な鬼ではないとは、一体どういうことなのだろうか。羅刹に聞こうと思ったカルマだったが、その問いは口から出ることはなかった。
羅刹が、どこか話したくなさそうに顔を顰めていたからだ。少し俯きがちに唇を噛み締めている。その様子からいって、あまり良いことではなさそうだが、まあ無理矢理聞き出すこともない。どの道もう、人には戻れずこのまま生きていくしかないのだから。
己の中である程度踏ん切りがついた途端、カルマの腹の虫が鳴いた。思えば村の一件が起こる前に食べた朝餉が最後だった。
今は……、空に太陽が上っているから日が明けたことは分かるが、もともと穴蔵生活をしていたカルマに、太陽の位置で時刻を読み取ることは不可能だ。あれから一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。腹の具合からして、そうとう時間が経っているように感じる。
お腹減ったと、思わず俯いて腹を撫でるカルマに羅刹が苦笑。
「カルマ」
「はい?」
「ほら、受け取れ」
「えっ……」
そういってこちらに向かって投げられたのは、羅刹が持っていた生肉であろうもの。なんとか地面に落とす前に受け取りはしたが、これを食えというのか。自分の肘の先以上の長さも重さもあるものをどうやって。
ちらりと羅刹に視線をやれば、彼は豪快に生肉に食らいついていた。バリバリとおおよそ食事では有り得ない音がしている。骨すらに噛み砕いているのだろうか。
カルマは再度、己が持つ立派に骨もついた生肉を見る。あまり肉は好きではなかったはずなのに、どうしてだか腹の底から食欲がわいてきた。だいたい生肉なんて食べたこともないのに、美味しそうだと感じてしまうこの違和感。
無意識に、感じる空腹を満たすために、生肉が口元まで運ばれる。けれど次の瞬間、その手は止まった。
人がどうして鬼を嫌うか。どうして人類の仇として、その存在を退治するのか。その理由を今更ながら思い出す。鬼の食指が動くもの、それは———。
「……ねえ、羅刹。これ、何の肉ですか?」
「………」
「もしかして……」
鬼は人間を食う。厳密には人間しか食さない。人から鬼に転化したものも、それに習うのだとしたら。
どうしてだか、涙がこぼれた。
悲しい、という気持ちではなかった。虚しい、という気持ちでもなかった。ついには同族であったものをも食らう存在になったのかと、ただその醜い事実に涙が出た。
羅刹はずっと無言を通して何も答えてくれない。カルマの考えが正しいということなのだろう。つまり、この肉は———。
「ま、しばらく何も食わなくてもやっていけるさ。俺ら鬼は人間とは違うからな」
「……そう」
「けど、ずっと食わねえでいるのもきっついからな。いずれは、覚悟しろよ」
「…………、はい」
生肉に齧り付いたまま呟く羅刹の言葉に、カルマは返事の代わりに小さく頷いた。腹は空いていたが、とても食事をする気にはなれなかった。
傍においてあった羅刹の、もはや使い物ならないほど血なまぐさい羽織りの上に、羅刹から受け取った肉を置く。なんとなくやるせない溜め息を一つ吐いて、カルマはその傍に腰を下ろした。
そんな折、ふとカルマは思い出す。死ぬと思った間際の、心残りを。
「あ、そうだ。羅刹、ずっと言おう言おうと思ってたことがあるの」
「なんだあ?」
「どうもありがとうございました」
カルマは深々と頭を下げた。なんのお礼か、ではない。すべてに対しての、だった。
どこにもいけないカルマの代わりに、洞にきてはかまってくれたこと。朔日は桜の木の根元で、他愛のない会話に付き合ってくれたこと。肌に傷を付けるなと嘆いてくれたこと。選択肢を与えてくれたこと。村から引きずり出してくれたこと。
そして、この世がさほどひどいものではないと教えてくれたこと。そのどれもが嬉しかったこと。
「本当に、いろいろと、ありがとうございました。———それと、これからもよろしくお願いします」
「おう」
帰ってきた言葉はぶっきらぼうだった。でもそれが羅刹らしいと、下げたままでくすりと笑った。
そうして知らぬうちに、カルマは己の足を擦る。完全に意識が覚醒し、羅刹の食事が終わるまで手持無沙汰の今になって、彼女は途方もない焦燥感に襲われていた。
たぶんもともとは人であるカルマの精神が、鬼としての転化した体に馴染んでいないのだ。体の作りこそ鬼にはなったが、やはり心はそうもいかないということか。
人間の精神はあくまで、100年もたない肉体に宿るもの。それが急に肉体だけが100年どころか1000年以上不老のまま過ごせるものに転化し、精神がその感覚についていけていない。まったく先の見えない未来に、本能的に恐怖している。限りない時間に、精神が怯えている。さっきから震えるほどに感じる焦燥感の正体はこれだろう。
これが意味することはきっと、さっき羅刹がいった「完全な鬼ではない」というのが原因だろうかと、ふと思った。




