第二話「必然の偶然」
大きな市場の入り口付近、少し人通りの途切れた建物の陰でポーラは立ち止まり、地図を広げた。
深呼吸をひとつして、地図の上にそっと手のひらをかざす。軽く目を閉じて、意識を指先に集中させる。
傍目にはただの棒立ち状態だが、呼応した魔力がポーラの体内を駆けめぐっている。その魔力は波紋となって、手元から街全体へと広がる。
この程度の探知魔法であれば、ポーラには大がかりな魔道具も詠唱も必要ない。
一人の人間としては驚異的なまでの、強い魔力とその保有量。ポーラ本人は、これを巫女として神に仕えていた前世の名残であり、はるかな時を経て生まれ変わったことへの特典なのだと解釈していた。
しかし、こんな強大な力は現代社会においては悪目立ちする。不用意に使えば、よからぬ輩の目を引くことは明白だった。
両親との約束もあり、ポーラは普段から意識して魔力を内側に抑え込んでいた。今も周囲に干渉しないよう、慎重かつ丁寧に探知の網を広げていく。
ここで探りを入れるのは、記憶のなかに残るあの懐かしい気配。
(ウィルハ。貴方……この街にいるのよね?)
街の喧騒を遠くに聞きながら、ポーラは反射する魔力から繊細に情報を読み取っていく。
確固たる証拠はなく、頼みの綱は魂の奥底に刻まれた直感だけ。ポーラにとっては、それだけで十分だった。
長い睫毛がピクリと動く。指先にかすかな引っ掛かりを覚え、ゆっくりと目を開ける。ものの数秒間の出来事だったが、大まかな方角はわかった。
あとは、行動あるのみ。いそいそと地図をしまい、ポーラは足早に動き出す。
降り注ぐ陽光のぬくもりが、地面から体へと伝わってくる。通りには色鮮やかな果物や、緻密な刺繍が施された織物を並べた露店などが並んでいた。
店主の威勢のいい声、値切り交渉をする客の笑い声、車輪が石畳を擦る音。さまざまな生活音が、耳を楽しませてくれる。
神に近しい巫女であった身からすれば、神の存在が忘れ去られていく時勢には、ほんの少しだけ寂しさを感じていた。しかしそれ以上に、人間の成長と自立していく姿は、見ていて気持ちが良かった。
行き交う人々の活気にあてられて、ポーラはすっかり浮ついた観光客と化していた。
そんなとき、腰のあたりに何かが当たったような、小さな衝撃があった。
ポーラが「わっ」と短い悲鳴を上げた直後、肩にかけていた旅行鞄の重みが消える。
驚いて振り返ると、汚れた衣服をまとった小さな子供がポーラの鞄をしっかりと抱え込み、人混みの中を駆け出していくところだった。
「ちょ、ちょっと!? 待ちなさい!」
ポーラはとっさに右手を突き出し、足止めの魔法を放とうとして……やめた。指先に集まった魔力は行き場を失い、霧散する。
周囲には大勢の買い物客がひしめき合っているのだ。ここでうかつに魔法を使えば、無関係な人々を巻き込む可能性がある。
舌打ちをしつつ手を下ろした隙に、子供は通行人の合間を縫うように走り抜け、露店と露店の狭い隙間から薄暗い路地裏へと飛び込んでいった。
「もう、仕方ないわね……!」
ここで見逃すという選択肢はない。ポーラはドレスの裾を両手で軽く持ち上げると、小さなひったくりの背中を追って、迷うことなく入り組んだ路地裏へと駆け出した。
---
ひと気のない路地裏に足を踏み入れた途端、ひんやりとした湿気が首筋にまとわりついた。苔や泥が混じり合い、空気が重く淀んでいる。
空を見上げても、両脇にそびえる建物のせいで、太陽の光は細い線となってわずかに差し込むのみだった。
ポーラはぬかるんだ石畳を蹴って奥へと進む。逃げ込んだ子供の足音は、入り組んだ路地の反響で方向が掴みづらい。
相手は地の利を知り尽くした地元の子供。かたやポーラは浮ついた観光客。何層にも重なった愛らしいドレスは、もはや枷になっている。このままでは、どう考えても不利だ。
(くっ……! 大人げないとは思うけど、少しだけ使わせてもらうわよ)
ポーラは小さく息を吐き、走りながら右手に意識を集中させた。街中での派手な魔法は控えるべきだが、今は状況が状況だ。
対象の足元をほんの少しだけ隆起させる土の魔法か、あるいは背中を押して転ばせる程度の風の魔法か。少し痛い目を見るかもしれないが、窃盗の罰としては妥当なところだろう。
指先に微かな熱が集まり、どの魔法を使用すべきか思案している。その時だった。
「いったあっ!」
前方の角を曲がった先から、くぐもった小さな悲鳴と、誰かが地面に倒れ込む重い音が響いた。
ポーラは即座に詠唱を止めて指先の魔力を散らし、警戒しながら角から顔を出す。
薄暗い行き止まりの空間には、二つの影があった。一人は先ほどポーラの鞄を奪った子供だ。泥だらけの地面に伏して、涙目で自分の膝をさすっている。
そしてもう一人は、子供の前に立ちはだかる見知らぬ少女だった。
年齢はポーラと同じくらいだろう。灰色の髪の奥で、黄色の瞳が鋭い光を放っていた。
華奢な体つきだが、地面を踏み締める姿勢には隙がない。その堂々とした物腰のわりには、身にまとっている服は全体的に色あせている。
そして、その細い腕には、ポーラから奪われた革の旅行鞄がしっかりと握られていた。
「もう盗みはしないと、私と約束したはずだろう!」
少女の凛とした声が路地裏に響き渡る。その語気には強い怒りと、隠しきれない悲哀がにじんでいた。
子供はその叱咤にビクッと肩を震わせたあと、忌々しげに舌打ちをした。
「うるせぇ、説教すんな!」
悪態をついた子供は少女の脇をすり抜けて、入り組んだ路地のさらに奥へと走り去っていった。
残された少女は逃げていく子供の背中を見送ったあと、深く長い溜息をついた。それからゆっくりと振り返り、立ち尽くしていたポーラへと歩み寄ってくる。
「……観光の邪魔をしてしまって、本当に申し訳ない。あの子は私が叱っておくから、どうか許してほしい」
少女はまっすぐにポーラの目を見て、鞄を両手で突き出した。そして、深く頭を下げる。
しかし、ポーラは鞄を受け取ることができなかった。手を出さないのではない。動かせなかったのだ。
目の前に立つ少女の凛とした口調、射抜くような眼差し、不器用なほど誠実な謝罪の言葉。それらすべてが、ポーラの脳髄を激しく揺さぶっていた。
いつまで経っても鞄が受け取られないことに疑問を抱いたのか、少女がゆっくりと顔を上げた。怪訝そうに首をかしげる彼女に向かって、ポーラは震える唇を必死に動かし、ようやくその音を紡ぎ出した。
「なんてこと……貴方、ウィルハ?」
その名前を聞いた瞬間、少女の表情が凍りついた。
鋭い黄色の瞳が見開かれ、息をのむ。少女は信じられないものを前にして、ポーラの全身を上から下まで見つめ返した。
「……まさか、ファウナか?」
生ぬるく湿った風が、二人の間を吹き抜ける。
上等なドレスを着た少女と、つぎはぎだらけの服を着た少女。対照的な格好をした二人は、五百年の時を経て再会した互いの顔を、無言で見つめ合っていた。




