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『太玄無極経の継承者 〜40歳の武侠オタク、死亡確定の天才弟子に転生して江湖の運命を覆す〜』  作者: あちゅ和尚


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2/2

第2話 自分の死に場所

 岳玄真の山を離れてから、半刻はんこくほどが過ぎていた。


 柳天成は月明かりの差す山道を下りながら、肩口へ指を当てた。黒衣の剣に裂かれた衣の下には、細い傷が残っている。血はすでに止まっていたが、刃の冷たさと皮膚を掠めた感触は、まだ生々しく身体にこびりついていた。


 太玄無極経の内力を巡らせると、傷の周囲へ温かな気が集まってくる。


 痛みが遠のき、裂けた皮膚が僅かずつ閉じていくのが分かった。


 ゲームでは、帰元周天を修得した者は一定時間ごとに体力が回復する。ただ画面上の数字が増えるのと、自分の肉が癒えていく感覚を味わうのとでは、まるで話が違う。


 便利ではある。


 それ以上に、気味が悪いほど生々しかった。


「死んでも復活地点へ戻る、なんてことはないんやろな」


 誰に聞かせるでもなく呟いた声が、夜の山へ吸い込まれていった。


 柳天成という人物は、ゲーム開始時点ですでに死んでいる。


 正確には、主人公が最初に訪れる青石鎮せいせきちんの外れにある落星廟らくせいびょうで、身元不明の若者の遺体として発見されるのだ。


 遺体の懐には、太玄無極経の一節が記された布片。


 それを正派の剣士が持ち帰ろうとしたところへ邪派の武人が現れ、双方が争い始める。騒ぎを聞きつけて朝廷の玄衣衛まで介入し、秘伝書の存在が江湖全体へ知れ渡る。


 プレイヤーは偶然その場へ居合わせ、どの勢力へ味方するかを選択する。


 《江湖大乱》最初の分岐だった。


 ゲームを始めたばかりの頃は、何度もやり直したものだ。


 正派へ加われば剣法を学べる。邪派につけば毒功を得られ、玄衣衛へ情報を渡せば朝廷側の任務が解放される。


 しかし、死んだ若者の正体を深く考えたことはなかった。


 設定資料集を読んで初めて、それが岳玄真の弟子、柳天成だと知った。


 作中では顔も名前も出ない。


 物語を始めるために置かれた死体。それが、今の自分だった。


「3日後に死ぬ場所が分かっているなら、見に行かない理由はないか」


 夜明けを待って青石鎮へ入るより、先に落星廟を調べる。


 本来の柳天成がどのように殺されたのかまでは、ゲームにも資料集にも書かれていない。ただし、死体が発見される場所と、そこに太玄無極経の断片が置かれることは分かっている。


 殺害現場が別にあるとしても、落星廟には何らかの準備が施されているはずだった。


 柳天成は足を速めた。


 山を抜けると、視界の先に広い平野が現れた。


 遠くには青石鎮の城壁が黒い影となって横たわり、門楼もんろうの上で小さな火が揺れている。ゲーム画面で何度も眺めた景色だが、実際の町は記憶より遥かに大きかった。


 畑の間には細い用水路が走り、街道沿いには家々が点在している。


 地図では一瞬で通り過ぎた場所にも、人が暮らしている。


 その当たり前の事実が、柳天成には妙に重く感じられた。


 ゲームでは青石鎮が邪派に焼かれても、別の周回を始めれば元に戻る。しかし今は、城壁の向こうで眠る人々の命も一つしかない。


 自分の選択次第で、彼らが本当に死ぬ。


 それでも足を止めるわけにはいかなかった。


 落星廟は青石鎮の北西、街道から外れた林の奥にある。


 山神を祀っていた小さな廟だが、十数年前の落雷で屋根の一部が焼け、今では旅人すら近寄らない。夜になると火の玉が出るという噂もあり、ゲームでは序盤の探索場所になっていた。


 林へ入る手前で、柳天成は歩みを緩めた。


 風の中に、微かな鉄の匂いが混じっている。


 血の匂いだった。


 しかも新しい。


 柳天成は街道を外れ、木々の間へ身体を滑り込ませた。浮煙歩を使うと、枯れ葉を踏んでもほとんど音が立たない。


 数十歩ほど進んだところで、女の荒い息遣いが聞こえた。


「どこまで逃げるつもりだ」


 低い男の声が続く。


「剣を置けば、苦しまずに済む」


「その言葉を信じるほど、私は愚かではありません」


 返した声は若い。


 柳天成は太い木の陰から、前方を覗いた。


 林の中に3人の男がいる。


 全員が灰色の衣をまとい、腰には同じ形の長剣を帯びていた。胸元には、雪を頂いた山を象った青い刺繍がある。


 清霜剣門せいそうけんもん


 正道盟に属する七大門派の一つだ。


 3人に囲まれているのは、白い衣を血で汚した少女だった。


 年は17、8歳ほど。長い黒髪を背で束ね、右手には細身の剣を握っている。左腕から流れた血が指先を伝い、地面へ落ちていた。


 月の光に照らされた横顔を見て、柳天成は息を呑んだ。


 蘇雪鈴そ・せつれい


 《江湖大乱》で最も人気の高かった登場人物の一人であり、序盤に落星廟で柳天成の遺体を発見する正派の剣士でもある。


 清霜剣門の若き天才。


 真っ直ぐで正義感が強く、門派の教えを誰よりも信じていた。しかし物語の序盤で敬愛する師叔を殺され、その犯人が門派内部の人間だと知ったことで、正派そのものを憎むようになる。


 攻略次第では仲間になるが、選択を誤れば復讐鬼となり、清霜剣門の長老を皆殺しにする。


 その蘇雪鈴が、同じ門派の衣を着た者たちに追われている。


 ゲームでは見たことのない場面だった。


「師叔を殺したのは、あなたたちですね」


 雪鈴が剣先を向けた。


「落星廟で待てと言ったのも、私を消すためですか」


 男の一人が鼻で笑う。


「余計なものを見たお前が悪い。門主の弟子だからといって、何を知っても許されるわけではない」


「門主は、このことを……」


「聞く必要はない」


 男が剣を抜いた。


 残る2人も左右へ開き、雪鈴の退路を塞ぐ。


 柳天成は木陰で眉を寄せた。


 蘇雪鈴が敬愛する師叔を殺されるのは、ゲーム開始から半月後のはずだった。


 しかも犯人は清霜剣門の者ではなく、邪派《黒河幇こくがほう》の刺客として処理される。後に内部の裏切りが判明するものの、少なくとも今夜起きる事件ではない。


 時間がずれている。


 岳玄真の山を無相楼が襲ったことといい、知っている歴史が前倒しされていた。


「殺せ」


 中央の男が命じた。


 左右の2人が同時に踏み込む。


 雪鈴は剣を横へ払い、右から迫った刃を受け流した。しかし左腕の傷が深いのか、体勢が僅かに崩れる。


 もう一人の剣先が、無防備になった脇腹へ迫った。


 柳天成は考えるより先に地面を蹴っていた。


 木々の間を風のように抜け、男と雪鈴の間へ割り込む。


 抜刀が間に合わない。


 柳天成は鞘に収めたままの剣を振り、相手の剣身を下から打ち上げた。


 甲高い音が響き、剣先が夜空へ跳ねる。


「何者だ!」


 男が叫びながら後退した。


 柳天成は答えず、その足運びを見る。


 清霜剣門の《寒梅剣かんばいけん》。


 冬の風に耐える梅の枝を模した剣法で、小さな動きから鋭い突きを連続して放つ。攻めと守りの均衡に優れ、ゲーム序盤では扱いやすい武功だった。


 だが、目の前の男が使った技は、記憶にある寒梅剣と僅かに違う。


 踏み込む際、左の踵が外へ流れている。


 肩にも余計な力が入り、突きの軌道が不自然に低い。


 技量が足りないのではない。


 清霜剣門の剣を似せているだけだ。


「お前たち、清霜剣門の人間ではないな」


 三人の男が揃って目を細める。


 雪鈴も驚いた顔をしたが、柳天成は構わず続けた。


「刺繍も剣もよくできている。だが寒梅剣は、3歩目で踵を外へ逃がさない。そんな動きをすれば、次の《雪中返花せっちゅうへんか》へ繋がらないからだ」


「黙れ!」


 男が剣を突き出す。


 柳天成は半歩だけ身体をずらし、その剣を避けた。


 続けて放たれる2撃目と3撃目も、首を傾け、肩を引くだけでかわす。


 動きは速い。


 だが、一度見れば次に来る技が分かる。


「こいつ……」


 男の顔に焦りが浮かんだ。


 柳天成は剣を抜いた。


 同じ寒梅剣を返せば、相手を驚かせることはできる。しかし、今の自分には剣を使った実戦経験がほとんどない。技の形を理解していても、剣の間合いや刃の重さまで完全に自分のものになったわけではなかった。


 そこで、もっと単純な方法を選んだ。


 太玄無極経の内力を剣身へ流す。


 敵の突きへ正面から剣を合わせるのではなく、僅かに斜めから触れた。


 内力が剣から剣へ伝わった瞬間、相手の手首が大きく跳ねる。


 男は剣を取り落とし、悲鳴を上げた。


 残る2人が左右から斬りかかってくる。


 柳天成は一人の懐へ踏み込み、肩で胸を打った。爆発させるほどの内力は使わず、呼吸の間へ細い気を送り込む。


 男は息を詰まらせ、その場へ崩れた。


 もう一人の剣は、雪鈴が受け止めていた。


 傷を負っているとは思えないほど鋭い剣筋である。


 敵の突きを外へ払い、そのまま手首を返して喉元へ切っ先を突きつける。


「動かないでください」


 雪鈴の声は静かだった。


 だが、剣先は微動だにしていない。


 柳天成が倒した男たちとは違い、彼女の寒梅剣には余分な動きがなかった。


 ゲームで見た剣技よりも、遥かに美しい。


 映像や数値では分からなかった本物の技が、そこにあった。


「殺さずに捕らえます」


 雪鈴が言った。


「師叔を殺した者を吐かせなければなりません」


 その言葉が終わるより早く、男の胸元に黒い筋が浮かんだ。


「離れろ!」


 柳天成が雪鈴の肩を引き寄せる。


 直後、男の身体が激しく痙攣した。


 口から黒い血が溢れ、握っていた剣が地面へ落ちる。


「何をしたのですか」


「俺じゃない。最初から仕込まれていた」


 柳天成は男を仰向けにし、胸へ手を当てた。


 心臓の周囲を走る経脈が、内側から黒く染まっていく。


 毒は血ではなく、男自身の内力へ混ざって全身を巡っていた。捕らえられたか、あるいは任務の失敗を認めた瞬間に発動する仕掛けなのだろう。


 帰元周天の内力を送り込み、毒の流れを止めようとする。


 しかし、侵食は速かった。


 黒く染まった内力が太玄無極経の気へ絡みつき、逆に柳天成の腕へ這い上がろうとする。


 柳天成は即座に手を離した。


 男が血に濡れた唇を動かす。


「落……星……」


「落星廟に何がある」


「もう……いる……」


「誰がいる」


 男の瞳が柳天成を捉えた。


「お前が……」


 その言葉を最後に、男の指から力が抜けた。


 呼吸も、心臓の動きも止まっている。


 柳天成は男の瞼を閉じ、立ち上がった。


「今の言葉は、どういう意味です」


 雪鈴が険しい顔で尋ねた。


「俺にも分からない。だが、落星廟へ行けば分かるはずだ」


「あなたは一体、何者なのですか」


 柳天成は答えに詰まった。


 本名を明かせば、太玄無極経を狙う者へ自ら居場所を教えることになる。無相楼が清霜剣門へ潜り込んでいる以上、雪鈴が善人だからといって安心もできない。


 ゲームでは信頼できる人物だった。


 だが、知っている歴史はすでに変わっている。


「今は、山から下りてきたばかりの旅人だ」


「旅人が、清霜剣門の寒梅剣を見抜くのですか」


「武術を見るのが趣味でね」


「そのような趣味は聞いたことがありません」


 雪鈴の疑う視線は当然だった。


 それでも、彼女は剣を向けてこない。柳天成が助けなければ、自分が死んでいたと理解しているからだろう。


「名前だけでも教えてください」


 柳天成はすぐには答えなかった。


「その前に、なぜ落星廟へ向かっていた」


「師叔を殺した者から、落星廟で待つという文が届いたからです」


「罠だと分かっていて、一人で来たのか」


かたきを討つためです」


「死んだら、仇も討てないだろう」


 思わず呆れた声が出た。


 雪鈴は悔しそうに唇を噛んだが、反論はしなかった。


「師叔は最期に、これを私へ渡しました」


 雪鈴は血のついた左手で懐を探り、小さく折られた紙を取り出した。


 そのまま柳天成へ差し出す。


 受け取って開くと、震える筆で2行だけ記されていた。


 柳天成を探せ。


 柳天成を、落星廟へ行かせるな。


 柳天成は紙を握る指へ力が入るのを感じた。


 会ったこともない蘇雪鈴の師叔が、自分の名前を知っている。


 しかも、自分が向かおうとしている場所まで知っていた。


「師叔は、他に何か言っていなかったか」


「いいえ。この紙を渡すと、すぐに息を引き取りました」


「俺の顔を見たことは?」


「ありません」


 柳天成はもう一度、紙に書かれた名前へ目を落とした。


 ここまで知られているのなら、偽名を使っても意味はない。


「……俺が柳天成だ」


 雪鈴の目が見開かれた。


「あなたが?」


「ああ。理由は俺にも分からないが、どうやら君の師叔は俺を知っていたらしい」


「では、なおさら落星廟へ行くべきではありません。この紙には、行かせるなと書かれています」


「だからこそ行く」


「なぜです」


「そこには、俺の死体が待っているらしい」


 雪鈴が理解できないという顔をする。


 説明する時間はなかった。


 柳天成は紙を雪鈴へ返し、倒れている男たちを見回した。生きている二人は呼吸をしているが、目覚める気配はない。置いていくしかないだろう。


 二人は林を抜け、落星廟へ向かった。


 廟は記憶通り、崩れかけた石段の先に建っていた。屋根の半分は焼け落ち、入口の扉も片方しか残っていない。


 周囲には虫の音すら聞こえなかった。


 柳天成は雪鈴を手で制し、先に中の気配を探った。


 人の呼吸は聞こえない。


 だが、血の匂いが濃い。


 しかも、林の中で嗅いだものより遥かに新しかった。


 剣を抜き、足音を殺して中へ踏み込む。


 月明かりが崩れた屋根から差し込み、床の中央を照らしていた。


 そこに、一人の若者が倒れている。


 白い衣。


 細身の剣。


 胸を深く貫かれ、周囲には大量の血が広がっていた。


 柳天成は、その顔を見て動けなくなった。


 目の形も、鼻筋も、口元も同じだった。


 まるで鏡を覗き込んでいる。


 落星廟にはすでに、柳天成の死体が用意されていた。


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