第1話 死ぬはずの継承者
呼吸するたび、冷たい何かが腹の底から湧き上がった。
それは血でも空気でもない。細い流れとなって臍下から背を上り、肩を巡って両腕の先まで染み渡る。次いで胸へ戻り、喉、眉間、頭頂へと昇ったのち、再び腹へ沈んでいった。
循環するたびに、身体の輪郭が鮮明になる。
閉じたまぶたの向こうで、風に揺れる松葉の一本一本まで見えるような感覚があった。
「意を急がせるな。気は水に似る。押せば濁り、導けば巡る」
老人の声が聞こえた。
佐久間修一は、その言葉に従って呼吸を整えようとした。
いや、従おうと思うよりも先に、身体が勝手に反応していた。
舌先を上顎へつけ、肩の力を抜き、腹の奥で渦を巻いていた力を細い糸のように伸ばしていく。気の流れは十二の経脈を巡り、最後に丹田へ静かに収まった。
その瞬間、修一は目を開いた。
見知らぬ岩窟だった。
壁には油灯が一つだけ掛けられ、淡い炎が無数の文字を照らしている。石壁を埋め尽くしているのは、日本語でも英語でもない。だが不思議なことに、修一にはその意味が読めた。
天地は一気より生じ、万象は一理へ帰す。
その下には、人体を巡る気の道筋と、剣、掌、指、爪、歩法に至る膨大な図が刻まれている。
正面には、白い道袍をまとった老人が座っていた。
腰まで届く銀髪と、深い皺。その身体は枯れ木のように細いのに、老人を中心として岩窟全体の空気が静止している。
岳玄真。
その名が脳裏に浮かんだ途端、修一の背中を冷たい汗が流れた。
「師父……」
口から出た声は、驚くほど若かった。
慌てて自分の手を見る。節の太い中年男の手ではなく、傷一つない細く長い指だった。
袖をめくれば腕も若い。引き締まってはいるが、まだ少年の面影が残っている。
岳玄真は、わずかに眉を上げた。
「妙な顔をしておるな、天成」
天成。
その呼び名を聞いて、散らばっていた記憶が一つに繋がった。
柳天成。
武侠ファンタジーRPG《江湖大乱》の設定資料に、一行だけ登場する人物だ。
伝説の武人、岳玄真の最後の弟子。
天下の武学を内包すると称された秘伝書《太玄無極経》を完全に継承した唯一の男。
しかし、ゲーム本編に本人は登場しない。
岳玄真の死後、柳天成も何者かに殺害される。その遺体から太玄無極経の一部が発見され、正派、邪派、朝廷、暗殺者たちが秘伝を奪い合う。
それが《江湖大乱》の始まりだった。
修一は20代の頃から武侠小説や映画にのめり込み、40歳を過ぎても、帰宅後に酒を飲みながらこのゲームを遊んでいた。
全ての門派で攻略した。善人にも悪人にもなり、隠し武功も集めた。設定資料集まで買い込み、登場人物の因縁も、滅びる村も、裏切る仲間も覚えている。
その世界へ転生した。
よりにもよって、物語が始まる3日前に死ぬ男として。
「聞いておるのか」
岳玄真の声に、修一――柳天成は我に返った。
「申し訳ありません。少し、妙な夢を見ておりました」
「夢か」
老人の目が細くなる。
心の内側まで覗かれているようだったが、岳玄真はそれ以上追及しなかった。
「夢から戻ったなら、もう一度《帰元周天》を巡らせよ。先ほどは、わしが示した周天の七割ほどで意が乱れた」
「七割……」
「不満か」
「いえ」
不満どころではない。
帰元周天は、太玄無極経の根本となる内功法だ。ゲームでは最上位の修練法に分類され、習得すれば毒への抵抗力、内力の回復速度、武功の威力が大幅に上昇する。
通常なら数十年を費やしても、大成できる者はほとんどいない。
その複雑な運行を、今の身体は一度も滞らせることなく、師が示した七割まで巡らせていた。
柳天成が天才だったという設定は知っていた。
だが、これは天才などという言葉では足りない。
頭では初めて聞いたはずの教えを、身体がすでに理解している。石壁に刻まれた図を一度見れば、そこに描かれた人物が動き始め、正しい呼吸と重心移動まで読み取れた。
見た武術を理解し、その理を吸収する天賦の才。
《一見悟武》。
柳天成に与えられていた、ゲーム本編では使われることのなかった才能だ。
これほどの力を持ちながら、なぜ殺された。
修一が記憶を探ろうとしたとき、岳玄真が静かに立ち上がった。
「今日はここまでにしよう」
「もうですか」
「客が来た」
岩窟の中には、岳玄真と柳天成しかいない。
外から足音など聞こえなかった。それでも岳玄真は、数里先の出来事まで見通しているかのように入口へ顔を向けている。
「客、ですか」
「招いた覚えのない客だ。しかも十七人もおる」
岳玄真が片手を上げた。
岩窟の奥に立て掛けられていた古びた剣が、見えない糸に引かれたように宙を滑る。老人は鞘ごと受け取ると、それを柳天成へ投げた。
反射的に受け止めた剣は、見た目に反して重かった。
「師父が戦われるのでは?」
「わしを訪ねてきた者ならば、わしが相手をする。しかし連中の視線は、初めからお前に向いておる」
岳玄真は穏やかに言った。
「太玄無極経を狙う者が、ようやく山を見つけたらしい」
岩窟を出ると、夕暮れの空が山々を赤く染めていた。
切り立った崖の中腹に、細い足場が続いている。谷底から吹き上げる風は冷たく、足を滑らせれば命はない。
だが柳天成の足は、岩の上へ吸いつくように安定していた。
岳玄真の後を追って崖を下りながら、修一は必死にゲームの記憶を辿った。
柳天成が殺されるのは、岳玄真が死亡した直後だったはずだ。資料集にも、岳玄真の存命中に山が襲撃されたという記述はない。
すでに展開が違う。
自分が転生したことで変化したのか。それともゲームでは描かれなかっただけなのか。
考えているうちに、岳玄真が歩みを止めた。
前方に、黒衣をまとった男たちが並んでいる。
道を塞ぐ者が5人。左右の木立に潜む気配が8人。さらに崖の上にも4人。
数えようと思う前に、それが分かった。
息遣い、草の揺れ、殺気の向き。それらが一枚の絵のように頭へ入ってくる。
先頭の男だけは顔を隠していなかった。
30代ほどの痩せた男で、腰に細身の刀を差している。
「岳老前輩」
男は両手を重ね、武人の礼を取った。
「突然の訪問をお許し願いたい」
「許さぬと言えば帰るのか」
「まさか」
男が笑うと、周囲の黒衣たちが一斉に武器へ手を掛けた。
「我らが求めるものを渡していただければ、無益な争いは避けられます」
「太玄無極経か」
「いいえ」
男の視線が柳天成へ向けられる。
「その者です」
修一は剣の鞘を握り直した。
予想していたはずなのに、実際に殺意を向けられると心臓が激しく鳴った。ゲーム画面の向こうでは何千人と倒してきたが、現実の刃は光の粒にもならない。
斬られれば血が出るし、刺されれば死ぬ。
その恐怖を、岳玄真の声が断ち切った。
「天成」
「はい」
「山を下りたければ、まずは己の足で道を開け」
「いきなり十七人は多すぎませんか」
つい前世の調子で返すと、岳玄真は僅かに口元を緩めた。
「十六人だ」
「一人は?」
「わしの客だ」
その言葉が終わるより早く、崖の上にいた黒衣が動いた。
弓弦が鳴る。
4本の矢が、柳天成の胸と喉を正確に狙って飛来した。
避けなければ。
そう思った瞬間には、身体が半歩だけ左へ滑っていた。
軽功《浮煙歩》。
矢は袖と髪を掠め、背後の岩へ突き刺さった。
「殺せ!」
男の号令とともに、木立から黒衣たちが飛び出す。崖上の弓兵たちも弓を捨て、軽功を使って斜面を駆け下りてきた。
左右から刀が迫る。
柳天成は剣を抜こうとしたが、鞘の口に引っ掛かって刃が出ない。
身体に武功が刻まれていても、修一に実戦経験はなかった。
右から来た刀を鞘で受ける。金属がぶつかり、腕が痺れた。
続く左の敵が低く沈み、脇腹を薙ごうとする。
その足運びを見た瞬間、時間が引き延ばされた。
踏み込む右足。
僅かに浮く左肩。
刀へ内力を集めるため、一瞬だけ閉じる胸の経脈。
技の仕組みが、何年も修行したかのように理解できた。
《断浪刀》。
水上戦を想定した刀法で、足場の悪い場所ほど威力を発揮する。しかし第三歩の直前、重心が前へ寄りすぎる欠点があった。
柳天成は鞘を縦に立てた。
敵の刀を受けるのではなく、刀身の腹へ軽く触れる。
腕へ伝わった衝撃を腰へ流し、足裏から地面へ逃がすと、黒衣の刀は軌道を逸らされ、前方の味方へ向かった。
「何っ――」
2人の黒衣が慌てて身を引いた。
柳天成は空いた隙間へ踏み込み、剣の柄頭を最初の男の胸へ押し当てた。
太玄無極経の内力が、意思に応じて掌から流れ出す。
爆発音が響いた。
男の身体が宙を飛び、後ろにいた2人を巻き込んで岩壁へ叩きつけられた。
柳天成自身が、一番驚いていた。
殺してはいない。
そう分かったのも、送り込んだ内力が相手の胸骨を避け、筋肉と呼吸だけを打ち抜いた感覚が残っていたからだ。
「化功の術か!」
黒衣の1人が叫んだ。
「違う! あれは我らの刀法を――」
言い終える前に、別の黒衣が斬りかかってくる。
柳天成は今度こそ剣を抜いた。
夕日を受けた刃が、白い弧を描く。
相手の剣技を一度見るだけで、その理が頭の中へ流れ込んできた。だが、理解できることと、実戦で完璧に使えることは同じではない。
踏み込みが僅かに遅れ、敵の剣先が肩口の布を裂いた。
冷たい刃が皮膚を掠め、細い血の線が走る。
柳天成は息を呑んだ。
身体がどれほど優れていても、自分は戦いに慣れていない。読み違えれば死ぬ。その現実を突きつけられ、かえって頭の中が冷えていった。
次の剣を半歩退いてかわし、相手の呼吸を読む。
理解する。
自分の身体で使える部分だけを選び、太玄無極経の理へ組み替える。
敵の剣が柳天成の肩を狙う一方で、柳天成の剣先は相手の手首へ触れていた。
傷は浅い。
だが、剣は地面へ落ちた。
次の者には柄を当て、さらに次の者には足を払う。敵が使う刀法、剣法、掌法が、戦うたびに頭の中で解体されていった。
恐怖は消えていない。
一歩間違えれば死ぬという感覚は、むしろ鮮明になっている。
それでも身体は動いた。
ゲームの中で憧れた武功が、今は自分の手足になっている。ただし、最初から何でも完璧に使えるわけではない。
理解し、試し、失敗し、その場で修正する。
それこそが、柳天成の天才たる所以だった。
最後の1人を剣の峰で打ち倒したとき、柳天成は荒い息を吐いていた。
周囲には16人の黒衣が倒れている。
死者はいない。
岳玄真は一歩も動いていなかった。
先頭に立っていた男だけが、その前で膝をついている。
男の細身の刀は抜かれていたが、切っ先は岳玄真へ届く遥か前で止まっていた。
老人が2本の指で刀身を挟んでいる。
「どこの者だ」
岳玄真が問う。
男は答えず、奥歯を噛んだ。
その動きを見た柳天成の視界に、首筋から顎へ伸びる僅かな筋肉の収縮が映った。
「師父、毒です!」
叫ぶと同時に踏み込み、男の顎関節を横から指で打つ。
口が強制的に開き、噛み砕かれかけた黒い丸薬が、血とともに地面へ落ちた。
男は目を見開いた。
「なぜ……分かった」
柳天成は答えられなかった。
同じ場面をゲームで見た記憶はない。
ただ一度見ただけで、男が何をしようとしたのか理解できた。
岳玄真は男の肩へ指を置き、身動きを封じると、その襟元を開いた。
胸に黒い刺青がある。
翼を広げた、目のない鳥。
修一はその紋章を知っていた。
無相楼。
江湖中の暗殺を請け負い、ゲーム終盤まで正体が明かされない組織だ。
だが無相楼が本格的に動き始めるのは、柳天成の死後である。
岳玄真は刺青を見ても驚かなかった。
「やはり、動き始めたか」
「師父は知っていたのですか」
「知っていたのではない。待っていた」
老人は男から指を離し、柳天成を振り返った。
「お前に太玄無極経を授ければ、必ず現れると思っておった」
「では、こいつらは師父を狙ったのではなく……」
「最初から、お前を奪うために来た」
岳玄真の声は静かだった。
「経典は焼ける。石壁は砕ける。されど、全てを覚えた人間は歩き、考え、さらに武を深める。連中が欲しているのは書物ではない」
老人の視線が、柳天成の胸へ突き刺さる。
「太玄無極経そのものとなった、お前だ」
谷から吹き上げる風が、血の匂いを運んできた。
修一の知る柳天成は、この世に痕跡しか残していない。
なぜ殺されたのか。誰が殺したのか。太玄無極経の一部が、どうして遺体から見つかったのか。
ゲームでは語られなかった。
だが一つだけ、確かなことがある。
無相楼は、柳天成が死んだあとに現れたのではない。
最初から彼を狙っていた。
「師父」
柳天成は剣についた血を振り払い、鞘へ収めた。
「俺は、あとどれくらい生きられますか」
岳玄真は僅かに目を細めた。
「妙な問いだな」
「どうにも、長生きできる気がしません」
老人はしばらく沈黙したあと、倒れた黒衣たちへ目を向けた。
「何も知らず、この山に残れば3日」
修一の背筋が凍った。
ゲーム開始まで、柳天成が死ぬまでの残り時間と一致している。
「では、山を下りれば?」
「江湖全てがお前を追う」
「どちらも酷い話ですね」
「そうでもない」
岳玄真は初めて、はっきりと笑った。
「追ってくる者が分かっているなら、先に見つければよい。奪われる運命にあるなら、奪えぬほど強くなればよい」
そして老人は、麓へ続く道を指した。
「行け、天成。わしが教えられることは全て教えた」
「師父は?」
「わしには、わしの敵がおる」
遠くの山で、鳥の群れが一斉に飛び立った。
一つではない。
幾つもの気配が、夕闇の向こうから近づいている。
岳玄真は背を向けたまま、最後に言った。
「江湖へ出て、お前自身の目で確かめよ。この世は、お前が知っている物語ほど単純ではない」
柳天成は剣を握り、山を下り始めた。
前世で何百時間も遊んだ世界。
誰が英雄となり、誰が裏切り、どの門派が滅びるのかも知っているはずだった。
しかし、最初の夜から歴史は食い違っている。
それでも構わない。
ゲームの筋書き通りなら、自分は3日後に死ぬ。
ならば、知っている未来など、最初から壊すしかなかった。
柳天成が山道の闇へ消えたあと、岳玄真は捕らえた男を見下ろした。
「柳天成を殺し、太玄無極経を江湖へばら撒く。それがお前たちの筋書きか」
男の顔から血の気が引いた。
「なぜ、それを……」
「古い筋書きだ」
岳玄真の指先に、白い気が灯る。
「一度目と同じ手が通じると思うな」
山を下りる柳天成は、その言葉を聞いていなかった。
自分が転生者であるように、この世界にもまた、ゲームには存在しない秘密があることを、まだ知らない。




