第三十三話 遠き友へ
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「ああ、月を見たのはいつぶりかしら……とでも言うべきなのでしょうけれど、体感的にはそう久々でもないので不思議な感覚ですわ」
すっかり意気消沈してしまったアニスとフォリントを見て、エブリーがとりあえず外へ出ようと提案したので迷宮を後にした。
封印するための施設であったので当然なのだが、地上へ一気に戻る手段があるはずもなく、長い長い螺旋階段を上がるのは苦労した。
最初に高齢のエブリーが、続いてアニスと、意外にもエンデレアが根を上げたため、途中何度か休憩を挟んだ。
魔族と言えば人間離れした体力を持っているものだが、それは豊富なマナによる産物であり、マナのない今のエンデレアは見た目相応の体力しかないそうであった。
そのため外に出た頃にはすっかり夜も更け、月灯りが迷宮の入口を淡く照らしていた。
「やっぱり封印されている間、意識ってないもんなの?」
「ええ、わたくしにとってはつい先程のことのようでしてよ。
当時からここは辺鄙な場所でしたから、見た感じは今も昔もそう変わりありませんわね」
瞼を伏せ、道端に咲いている花に触れる。
派手さのない控えめで可愛らしい花がエンデレアの指に合わせて揺れると、ふ、とほんのり表情を緩めた。
花を触っているだけでなんて絵になるんだろう、とアニスはつい見惚れてしまった。
「昔はね、こんな風に花なんて触れなかったんですのよ。
人類に対する兵器として、わたくしのマナはお父様の憎悪がたっぷり乗っておりまして、生きとし生けるものを否定しました。
花に触れれば枯れ、水に触れれば濁り、人に触れれば腐る……それはもう、娘相手にやりたい放題施したんですのよ。
ですからあの子、マリアベルはわたくしのマナを全て抜くことを考案したのです」
「それでこの封印なのね。
随分手の込んだ術式だと思っていたけれど、封印というよりあなたからマナを抜くための装置だったってことかしら」
エブリーの言に頷き、当時に思いを馳せるように目を瞑る。
瞼に塗られた薄い紅が一層艶かしさを放った。
「マリアベルは善い方でしたわ。魔族であるわたくしから見ても、ずっと好人物でした。
いつも笑顔で、人の嫌がることを率先して行い、常に人を慮っていました。
そんな彼女に惹かれてわたくしは……魔族を、そしてお父様を裏切ったのです」
すっと顔を上げたエンデレアは、なぜかアニスをみて曖昧な笑みを浮かべた。
「結局裏切りが見つかり、怒り狂ったお父様に歪なマナを注がれて生きた兵器となってしまったわけですけれど。
彼女はわたくしに何度も謝っておりました、こんなことになってしまってごめんなさい、と。
わたくしはその頭を……撫でてあげられなかったのです」
エンデレアの白い手が、緋色の頭を優しく撫でる。
傍目にはわからないだろうが、アニスにはしっかり伝わっていた。
その手は、小さく震えていた。
「エンデレアさん……」
「親しい方々はエンデと呼びます。どうかそうお呼びになって。
エブリー、レド、レディエール、フォリント、そしてアニス。
わたくしを迎えてくれたのがあなたがたで本当に良かった。
わたくしは今日という日を忘れません、遠き日の友に誓って」
胸が締め付けられるように痛む。何故だか無性に涙が込み上げて抑えることが出来ない。
翡翠の瞳から大粒の雫をぼたぼたと零しながらも紡いだ言葉は、またもや何故か"ごめんなさい"であった。
「あっ、アニス様……!?」
「あ、う。あれ、なんで、なんでぇ……?」
自身の中で膨れ上がる説明の出来ない感情に、アニスはただただ戸惑った。
ひやりとした手が、林檎のように赤くなった頬を包む。
「あなたに謝られては、どうすればよいか分からなくなってしまいましてよ」
ほんのりと、葡萄の香りがした。困ったように垂れ下がった眉が、やけに印象的である。
柔らかな感触。しっとりとした質感。仄かに伝わる熱と吐息。
不思議とそこまで動揺はなかった。驚きに目を見開きはしたが、唇から伝わる熱に、心の中で泣いていた何かが徐々に大人しくなっていくのを感じた。
繋がっている時間は一瞬にも、永遠にも思えた。
ふ、とエンデレアが離れていくのが名残惜しくさえあった。
「もう大丈夫?」
「は、はい……」
じんわりと熱を帯びた瞳でふと周りを見渡すと、口元を両手で覆い隠しつつ愉快げに目を輝かせているフォリントと、白目を剥いて固まっているレディエールとが見えた。
夢見心地から一気に現実に引き戻されのか、思い出したようにアニスの顔から火が吹き出した。
「えっ、あっ!? あぇぇっ!? えっ、なっ、なんっ、なんでキスしたんですかぁ!?」
必死の形相で問い詰めるアニスに、エンデレアはとぼけたような顔で人差し指を自らの下唇に宛てがい、考える素振りを見せた。
目尻の上がり方から、どう見ても楽しげだ。
「うーん、そうですわねぇ……ああ、そう。昔の魔族にとってキスは挨拶のようなものでしてよ。
ですのでそんな深い意味はありませんわ、ええ」
それ今絶対適当言いましたよね!? と激しく突っ込んだアニスであったが、証拠はありまして? と不敵な笑みを浮かべられたのでそれ以上どうとも言えなかった。
へなへなとその場に崩れ、真っ赤になった顔を隠すように両手で覆う。
「は、初めてだったのに……」
絞り出したようなアニスの声に、硬直していたレディエールが勢いよく剣を抜く。
切っ先から放たれる剣気はガーゴイルを相手取ったときのそれとは比較にならないほどで、眉間に寄る皺の数が殺意の程を雄弁に語っていた。
「斬ります」
「スト~~~ップ、どうどう、落ち着いてレディ、シャレになってないからその殺気!
あっ力つよっ、レドさ~~ん、レドさぁ~~~~~んっ、ちょっとこの人止めるの手伝って、あっこらっ、止まりなさいってばぁっ!」
レドは深く、それはもうここ数年で一番深い溜息を吐き出した。
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「ごめんなさい、あなた方の絆を軽視しておりましたわ。
正直に言うと、わたくしもどうすればいいか分からなくなって咄嗟にしてしまったのです」
苦労して、それはもう大変に苦労してレディエールを宥めると、エンデレアが申し訳無さそうに頭を下げてきた。
剣こそ収めたものの未だに怒りは収まりきっていない様子のレディエールが、毅然とした態度で応える。
「咄嗟にしてしまった、では済みません。アニス様の唇を穢した罪は万死に値します。
……ですがアニス様からも許してやってほしいと言われておりますので、仕方ありません。
今回は不問とします。
今後は迂闊な行動は慎むことですね。生きてきた時代が違うとは言え、許されぬこともあります。
エブリー殿についていき、現代をよくよく勉強してきなさい」
「は、はい……そういたしますわ、ええ……」
真剣そのもの、本気の怒りを感じてエンデレアもすっかり萎縮し、引き気味である。
はあ、と溜息をついたのはアニスだ。
「レディさん、わたしのために怒ってくれるのは嬉しい……あれ、これ嬉しいんですかね?
うーん……嬉しいということにしておいて、わたしが大丈夫と言ったらちゃんと退いてくださいね。
ちょっと、いやかなり怖かったので……」
「申し訳ございません。ですが、事が事ですので、たとえアニス様が止めようが怒らねばならないときだったのです。
アニス様の唇はまさに世界の至宝、それも初めてとなれば、なれば……!!
……ふゥーっ、いえ、取り乱しました。
とにかく、騎士たるものと気には主の静止も聞かず行動するべき時があるのです。
もちろん平時ではそんな事決して許されることではありませんが」
「わかっているなら話は早い」
ふん、と一つ鼻息を鳴らしてレドが口を挟んだ。
心底疲れた様子で目頭を揉みながら、アニスの方に手を乗せる。
「騎士ならば主の命令は絶対だ。だが、お前の言う通り時には命令を超越して動かねばならん時がある。
しかしそれは許されぬ行いだ。
つまり、たとえ主のためを思ったが故の行動だったとしても罰を受けねばならん。
そしてアニス、お前もこれの主として相応の罰を与える必要がある。
それが主従関係というものだ」
「ええ……でも罰って言われてもそんな……添い寝しばらく禁止はもう言ってるし、他に何を……」
添い寝禁止と聞いて再び深くため息を付くレドに、エブリーはにまにまとしたまざなしを向けていた。
寡黙で感情をあまり出さないレドがこんなに表情を変えることは中々ないのだ。
こんな顔を見れただけでも来た甲斐があるというもので、帰ったらうんとからかってやろうと心に決めた。
「う~~~……ほ、保留!
今すぐここでは思い浮かばないので保留ですっ。
でもとりあえず、しばらくあんまりべたべたしないことっ、わかりましたね!」
「承知いたしました。……正直すでにかなり辛いですが、甘んじて受けさせていただきます」
「言っとくけど、なあなあじゃ済まさないからね。
べたってした雰囲気感じたらあたしが咎めるから覚悟なさいよねーもう」
本当に、仲が宜しいですのね。
そんな五人の様子を、エンデレアはなにか眩しいものでも見るように眺めていた。
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「それじゃあ私達はそろそろ行くわね。
こんなに楽しい冒険はいつぶりかしら、レドもたくさんはしゃいでいたし」
「……はしゃいだ覚えはない、勝手なことを言うな」
エブリーの軽口にレドがぴしゃりと言い放つ。しかしその言葉とは裏腹に、その語気は柔らかい。
そんな二人を見て、エンデレアはどこか寂しそうに微笑んだ。
今にも消えてしまいそうな、そんな儚さ。彼女はこれから、様々な好奇の目に晒されることになる。
決してよい出会いばかりではないだろう。寧ろかつての魔王の娘など、危険視されて然るべきだ。
エブリーとレドがいれば大丈夫と思う反面、見知らぬ土地、見知らぬ人々に囲まれ、マナのないエンデレアがどれだけ心細いか、考えるだけで胸が締め付けられた。
「あの……エンデさん」
なんと声をかければよいのかわからないまま、呼びかけてしまった。
深い紫色の瞳が物欲しげに輝く。ちょうど、夜明けの空――暁のような瞳だ。
「また、会えますよね?」
幼さの残る貌に引かれた紅が、微かに、しかしはっきりと喜びに曲がる。
「ええ、もちろん。その時はきっと……」
「きっと?」
わずかに逡巡を見せたが、アニスと、その奥に立つレディエール、フォリントを見て、今度は確かに笑った。
「あなた方といっしょに旅を。構わないかしら」
「! はいっ、ぜひ!」
「その時はちゃんと魔術使えるようになっててよね~、待ってるんだから」
「……個人的には少し釈然としませんが、でも、いいでしょう。
ちゃんと人間社会を学んでからなら、歓迎しますよエンデレア」
レディエールの、どこか棘があるような物言いにエンデレアは苦笑しつつ頷いた。
そしてレドが、エブリーとエンデレアを急かすように小突く。早くしろと言いたいのだろう。
その仕草がなんだか可笑しくて、思わず笑ってしまったアニスに釣られ、エンデレアも笑った。
やがてエブリーが魔術でポータルと呼ばれる転移門を生み出し、三人はその場を去っていった。




