止められぬ、別れ
東の切り窓から、うっすらと光りが差し込んだ。
朝が潮のように夜を追う。続く、ちゅんちゅん、と、可愛らしい雀の囀り……。
膝を抱えていたあまねは、ぼんやりと顔を上げた。
涙跡をこすれば、ざらり、と頬は乾燥して粉吹いていた。
板敷に直に座っていた尻は冷えに冷えており、心無し咽も痛い。
固く閉ざされた戸を見遣る。
戸の外では、忙しなく人が往来する気配がした。
廊下の軋みが、室内まで伝わってくる。
……そっと、あまねは戸に近寄った。耳を寄せて、気配を探る。
西の方が騒がしかった。
戸の近くに、あまねを監視するような人の気配はなかった。
彼女は、そっと駄目もとで戸を押してみる。
(…………開いた)
何とか通れるほど開けて、あまねは身体を斜めにして外へ出た。
誰も彼女を気に掛ける者はなかった。
武具を持って走る女中、運び込まれる怪我を負った武士……。
「おぉい! 源氏の奴ら、五条河原に陣を張ったらしい」
大声をあげて、下人が飛び込んでくる。あまねはさっと身を隠す。
「何だって!? 清水橋は落としたと言ったじゃないか!」
女中がぞろぞろと集まってきて、男を囲んだ。
「橋ぃ、落とす前に奴らきちまったんだよ」
悲鳴があがる。
「だが、そんなん小さな問題だ。やべぇのは、犬神憑きだよ。あれが怨霊を呼んじまってて、戦にならねんだ」
「ああ、そんなら大丈夫さぁ。さっき陰陽師の兄さんが出ていったから」
年かさの女が、下男の背中を叩く。
ホッと一同が胸を撫で下ろす……陰陽師と言われたのは、直愛のことに違いない。
「重盛坊ちゃんも出て行ったよ!」
若い女が声を張り上げた。
それに、「えっ」とみなが目を丸くした。
「そりゃ、本当かい? 随分、渋ってたようだったが」
「あたし、この目で見たよ」
……あまねは、そっとその場を離れた。
(これは、何の戦なの?)
歯を食いしばって、西を目指す。
(どうして、申し開きすらさせてくれないの? どうして、信頼さんはあんな嘘を……)
分かりきったことだった。
清盛は、急進的に力を付け始めた源氏を邪魔に思い、信頼は……自分の罪をなすりつけるため、頼朝を告発した。
けれど、あまねは問わずにはいられなかった。
理不尽な、不条理な、この戦に納得ができない。
……やがて打ち落としまいらせて
衣を引きかづけ……
朝長は、死んでしまう。義平も死んでしまう。義朝だって、死んでしまう。
あまねに優しくしてくれた人たちが、頼朝の大切な家族が……死んでしまう!
納得などできるはずがなかった。
何もせず、終わるのを待ってなどいられなかった。
(私には、何もできない。だからって……何もしないなんて、嫌だよ)
……そうは思ったはずなのに、六波羅の邸宅を出る間際、あまねは恐怖に取り憑かれて、動けなくなってしまった。
自分の未来は保証されていない――直愛の言葉が重くのし掛る。
耳に飛び込んでくる、金属がぶつかり合う音。断末魔の悲鳴、地を這う呻き声に、飛び交う怒号。
あまねは鼻孔を擽る死臭に、口を覆うと座り込んだ。
目前で行われているのは、命の取り合いだ。
……そんな中に飛び出して行って、何になるのだろう? あまねは両手を組むと、額を押しつけた。
自分は、千人力の武将であるわけでもない。
何かができるわけではない。
そして、飛び出したが最後、死ぬかもしれない。――父親や、兄弟にも、友人にも――誰にも、知られずに、消える。そんな危険を犯してまで、行く価値があるだろうか。
あまねは、頭を抱えて首を振った。
そんなことを考えたいわけではない――――あまねは、歯を食いしばる。
「パパ……」
ここへ来たばかりの頃、見た夢が脳裏を過ぎる。
生きたいように生きたら良い、と、父は言った。
――――――あまねは、どう生きたい?
不意に、耳を突いた声。
何かに引かれるようにして、あまねは顔を上げた。
目前で繰り広げられる喧噪が急激に遠ざかる。
(ここで逃げて、生きて。私は、私を許せるのかな)
両の手を見下ろせば、小刻みに震えていた。
いつの間に傷を負ったのか、足の脹脛に血が滲んでいた。
死ぬと言うことは、もっと、ずっと、痛いものだ。
怖い。
(怖い…………死にたくない。怖い。怖い)
行けない理由の自己弁護はいくつも出てくる。
今、あまねが動けなくとも、誰も責めるわけがなかった。
直愛だって、行ってはいけないと言った。
上司の言うことは聞かねばなるまい……そんな言い訳は、腐るほど用意できた。
けれど。
けれど――――いずれ、本心から、自分を許せる時がくるとしても――――あまねは、今の恐怖よりも、その時まで苦しむ時間を、恐ろしく感じてしまった。
「………………大丈夫」
あまねは、手の甲で目元を力強く拭った。
笑う膝を伸ばし、姿勢を正した。
ゆるりと瞬きをしてから、真っ直ぐ、戦に対峙した。
そして、か細く深呼吸を一つ。
「私は、頼朝の側に…………いたいんだ」
――――あまねは、震える足で、地を蹴った。
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