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香奈恵はベンチから立ち上がり、集会所の軒下に身を屈めた。こんな田舎とはいえ、夜は安全とは言い切れない。遊ぶ場所の無い不良がたむろしている場合もあるし、去年、隣町で下半身を露出した変態が現れる事案が発生したの思い出した。低い男の声が徐々に大きくなってくる。集会所の脇の道を、誰かが歩いているらしい。時折、男の声に応える少し高い声が聞こえる。聞き覚えのある声のような気がした。低い声が、もう一人を詰問しているようだ。今は集会所の裏側から声が聞こえる。香奈恵は、集会所の道の反対側に回り、通り過ぎるのを待った。
「・・・おい、のらりくらり言ってねえで、どうして遅れているかはっきり言え。俺達にもう時間がねえのはわかってるだろ?」
低い男の声が聞き取れるぐらいに近付いている。それほど大きな声でもないのに、有無を言わせぬ迫力があった。
「言われなくてもわかってるって、兄さん」
一方で、声が低い男より手前から、緊張感のない声が答えた。今度ははっきりと思い当たった。クラスメートの斎田智章の声だ。香奈恵は、意外な知人の声に少し驚いたが、すぐに胸を撫で下ろした。だが、積極的に出て行くつもりもなかった。別段仲が良いわけでもないし、夜、こんな所に一人でいる理由を詮索されるのも面倒だ。
砂利を踏み散らかす足音が近づいてくる。もう一人は智章の兄だろう。兄がいる、と智章と仲の良い友人から聞いた覚えがある。
「あいつがその気にならないんだから、しょうがないでしょ? 僕がどんなに励ましても、自分の殻から出てこようとしない。いわゆる引きこもりってやつだね」
智章はいつもの軽い調子で答えた。家族の前でも学校でも変わらないらしい。
「引きこもり? なんだそりゃ?」
「引きこもりも知らないの? この国には、部屋に閉じこもって出てこない人間がいるらしいよ? 食事もトイレも、全部部屋の中で済ませるんだって。うちのパソコンで検索してみなよ、たくさんヒットするから。それにしても、食事はともかく、トイレはどうやって済ませるんだろうね。部屋の真ん中に便器があるのかな? ああ、そういえば逆にトイレの中で食事もする人もいるらしいよ? もう、トイレと他の部屋の区別がつかないよね。それならみんな、トイレに住んだらいいじゃんって思わない?」
智章は自分で言ったことが面白いらしく、そういうと声を上げて笑った。ビニール袋がガサガサ揺れる音がする。しかし、傍にいる人物は無反応だった。
香奈恵は好奇心が湧いた。クラスの女子に人気はあるものの、誰にでも愛想を振りまいているように見える智章に、香奈恵はあまり良い印象を持っていない。彫りが深い顔もタイプでは無い。香奈恵は薄くて、中性的な顔が好きなのだ。だが、智章の兄を知っているクラスメイトは誰もいない。智章に似て、彫りが深い精悍な顔なのだろう、と取り巻きの女子は噂していたが勝手な推測でに過ぎなかった。香奈恵は、集会所の陰から顔だけ出して覗き見た。砂利道に集会所のそばの街灯が、2つの人影を浮かび上がらせている。手前にスーパーのビニール袋を持った制服姿の智章がいて、奥に布袋を担いだ影があった。もう少し乗り出し、布袋を持った方の人影を確認する。
しかし、次の瞬間、香奈恵の期待は失望に変わった。布袋を持った方の男は、智章とは似てもにつかない、純和風な顔立ちをしていた。腫れぼったい一重まぶたに切れ長の目、長く低い鼻に硬く結んだ薄い唇。短く刈り込んだ坊主頭は、震災の後でよく見た自衛隊員か、この辺りの野球部員のようだった。身長も智章より少し小さいぐらいだ。だが、体つきはかなりがっしりしている。胸板の厚さと首回りの太さは智章の倍以上あるように見える。所々泥の付いたねずみ色のだぼっとしたズボンとポケットのたくさん付いた上着を着て、大きな布袋を軽々と持ち上げているのを見ると、肉体労働で鍛えられていると見える。その風貌から想像すると、歳は20代中盤から30歳と言った所か。智章と似ている要素がまるで無い。無表情だが、引き結んだ唇と鋭い目付きは、冷たい印象を与えた。もしかしたら、義理の兄弟なのではないかと香奈恵は思った。
街灯の真下で、智章の兄の坊主頭が突然立ち止まった。智章は気付かずに前を歩き続ける。坊主頭が布袋を地面に下ろすと、金属がぶつかり合う音が
聞こえた。
「おい!」
坊主頭のどすの効いた声に香奈恵は身を固くする。しかし、それは智章に投げた言葉だった。
「どうしたの?」
智章が振り返ると、坊主頭が歩み寄り、無言で智章の顔に右の拳を叩きつけた。智章がなんとか踏みとどまると、坊主頭はすばやく左の拳で顎を突き上げた。智章が音を立てて地面に倒れた。坊主頭は倒れた智章の脇腹を蹴り飛ばす。智章の口から呻き声が漏れた。それでも、構わずに坊主頭は智章を蹴った。何度も、何度も。ごつごつした鈍い音が香奈恵の所まで聞こえて来た。剥き出しの暴力を初めて目の当たりにした香奈恵は、背中に杭を打ち込まれたように硬直したまま、目を離せずに見守っていた。
この野郎、ふざけやがって、などと言いながら坊主頭は智章を蹴り続けていたが、興奮して来たのか男はイエェイハー、ギャルトなどわけのわからない声を上げ始めた。初めは何か彼独特の掛け声を出しているのかとも思ったが、どうやら日本語でない言葉で話しているらしい。だが、声の響きが音楽のように聞こえるだけで、意味はおろか文節も判別できなかった。少なくとも英語ではなさそうだが。フランス語? スペイン語? いや、それどころでは無い。智章は蹴られるたびに地面を跳ね回り、砂にまみれた鼻と口からは血が流れ出している。それでも坊主頭は手加減する様子はない。まさか、この坊主頭は弟が死ぬまで蹴り続けるつもりなのか。どうしよう。人を呼んだ方が良いだろうか。そうだ、私が声を上げれば・・・。だが、悪い夢を見ている時のように、口がぱくぱく動くだけで、声が出てこなかった。
智章の反応が鈍くなり、本気で怖くなってきた頃、ようやく坊主頭が足を止めた。額に汗が光っているが、息は上がっていない。智章は、こちらに背を向けたまま倒れていた。まさか、死んでしまったのだろうか。香奈恵は思い出したように、携帯電話を取り出した。震える手で折りたたまれた携帯を開こうとすると、汗で取り落としてしまった。足元の草むらががさり、と音を立てる。香奈恵は体を強張らせた。坊主頭がこちらを振り返る。香奈恵はすばやく集会所の陰に隠れた。
背中を集会所の木の壁に押し付けて息を潜めた。見られた? 智章が死んでいたら、きっと自分も殺される。香奈恵は唾液を飲み込んだ。
「・・・な」
智章の絞り出すような声が聞こえた。
「やめなって・・・伸彦兄さん」
弱々しいが、はっきりした口調で言う。良かった、智章は生きているようだ。
「僕がせっかくこの国の言葉で話しているのに、誰かに聞かれたら怪しまれるでしょ。せっかく目立たないようにこの街に来たっていうのに、野蛮な外国人がいるって噂になっちゃうよ」
「ふん、いくら痛めつけても口の減らない野郎だな。構わんさ、今更この辺境の住人に知られた所で奴らに俺たちを止められん」
そう言いながらも、坊主頭は日本語で話し始めた。
「だが、覚えておけよ。次は無え。失敗したら・・・わかってるな?」
「わかってるよ。だから慎重にやってるんじゃない。次こそはきっとうまく行くよ」
「それから、オルバルの邪魔が入らないように手を回しておけ」
「・・・わかったよ。まったく、人使いが荒いんだから」
金属のぶつかる音がして、砂利を踏み分ける足音が少しずつ遠ざかって行く。香奈恵は注意深く顔を覗かせると、智章が地面に転がった玉ねぎを拾い上げていた。左の頬が紫色に腫れ上がり、口の周りが血に塗れている。遠目からは別人に見えるほどだ。智章はジャガイモをスーパーのビニール袋に放り込むと、ふと顔を上げた。香奈恵は身をすくめるが、智章は再び落ちた食材を拾い集め、全部拾い上げると左足を引きずりながら兄の後を追って行った。
2人の姿が見えなくなると、香奈恵はまたぼろぼろのベンチに腰を下ろした。頭上では月が煌々と黄色く輝いている。座ると、足が少し震えていることに気が付いた。先ほどの光景が頭から離れない。顔色ひとつ変えずに自分の弟を蹴りつける、智章の兄。弟とはいえ、あれだけ酷い仕打ちをして良いわけがない。いや、自分の家族だからこそ、そんな事ができる事が信じられなかった。確かに自分も修の頭を引っ叩くことはあるけれど、怒りのはけ口をぶつけるようなことはしない。香奈恵は自分の頬に手を当てた。きっと、母さんもそうなのだろうな。
頬を撫でる風が冷たさを増して行く。辺りにはカエルが鳴き続けていた。不意に、ひときわ大きな声が混じる。獣の低い唸り声のようなその声に少し驚くが、すぐにウシガエルの声だと気付く。祖父が生きていた時に、さばいて食べていたのを思い出した。庭先で、金づちを使ってウシガエルの頭を叩いている祖父は、いつもの優しい祖父とは別人に思えた。香奈恵は当時からカエルが好きではなかったので、当然口に入れようとはしなかった。しかし、一度だけ祖父に騙されて食べたことがある。
その日、佳恵は生まれて間もない修を病院に連れて行っており、祖母も親戚の葬儀の手伝いに出かけていた。里美と遊んで家に帰ってくると、香ばしい揚げ物の匂いがした。何を作っているの、と聞くと今日は鶏の唐揚げだよ、とランニングシャツにステテコ姿で料理していた祖父が答えた。
妙な形の鶏だった。モモ肉と思われるが、骨の部分が妙に曲がり、モモの部分が少ない。いつもの唐揚げと違うよ、と香奈恵は文句を言ったが、ごめんな、じいちゃん、ばあちゃんほど料理上手くねえから切り過ぎちまった、と言う。少し不審に思ったけれど、お腹が空いていた香奈恵は迷わずモモに噛り付いた。鶏の唐揚げにしては脂が少ないと思い、祖父にあまりおいしくないと言ったが、祖父は痩せたばあちゃん鶏なんだ、と言いながらうまそうに唐揚げを食べ、日本酒で流し込んでいた。結局、香奈恵は唐揚げを5つほど、ご飯と一緒に平らげた。食べ終わった後、祖父はよって赤くなった顔に少年のような笑みを浮かべて、今香奈恵が食べた唐揚げの材料が冷蔵庫の横に置いてあるから見て来い、と言った。香奈恵は興味がなかったが、祖父があまり言うので台所に歩いて行った。冷蔵庫の横に、小さなプラスチックのバケツが置いてあり、新聞紙がかぶせられていた。香奈恵はバケツの前に屈み込み、新聞紙をずらすと、桃色の皮を剥がれたウシガエルが3匹、仰向けで積み重なっていた。香奈恵はその場で食べたものを全部吐いた。祖父は帰ってきた祖母と母に散々叱られ、香奈恵のカエル嫌いは決定的となった。
帰ろうかな。ここでカエルに囲まれているのも気分が悪いし。でも・・・。逡巡していると、左肩を叩かれた。慌てて肩を手で払い、振り返る。黒い人影が、香奈恵の名前を呼んだ。黒づくめの女が香奈恵に手を差し伸べていた。
「モニカ!」
「こんな所で何をしているの?」
モニカは穏やかに言った。月明かりの下で、ルージュを塗った唇が笑みを浮かべる。
「・・・別に。あんたには関係ないでしょ」
香奈恵はそう言うと顔を背け、手で髪を梳いた。
「そろそろ心細くなっている頃じゃないかと思ってね」
認めたくはないが、モニカの顔を見て気が和らいだのは事実だった。
「何よ。母さんに頼まれたの? 大きなお世話よ」
香奈恵はそう言うと唇を尖らせて、モニカに背を向けた。
「そう? それじゃあ、帰るわね。少し夜風に当たろうと思っただけだし」
「えっ?」
香奈恵が慌てて振り返ると、モニカは悪戯っぽく笑った。ベンチを回り、香奈恵の隣に腰を下ろす。背中の羽根が邪魔なのだろう、身体を斜めに傾けて座った。
「おばさまに頼まれたわけじゃないわ。あなたの困っている顔が見たかったから、私が勝手に来たの。交通手段も無いあなたが遠くまで家出する心配は無いでしょうし、少しは反省もしてる頃合いだと思ったのだけど・・・もう少し待った方が良かったかしら?」
「ふん、意地が悪いわね。別にそんな心配はいらないわ。もう子供じゃないんだから」
香奈恵はそう言いながらも、きまりが悪くモニカの視線を避けた。今の自分には、一人で何もできないことはわかっている。電車のお金も無いし、ヒッチハイクをして町を出る気概も無い。例え他の場所へ行ったとして、一人で生きて行くことはとても考えられなかった。遠くを見ると、灰色の雲が山の間の月に覆いかぶさろうとしていた。
「ふーん」
モニカは意味ありげな笑みを浮かべて見つめてくる。
「何よ・・・」
「別に。否定するつもりは無いわ、あなたが本当にそう思っているならね。でも私、誰にでも意地悪なわけじゃないわよ。あなたみたいな生意気な子を見ると、ついからかいたくなるだけ。あなたは特別よ?」
モニカはそう言うと、形の良い眉を上げて笑った。
「何よそれ! あんたも私を馬鹿にしてるの?」
香奈恵は、唾がかかりそうなほど顔を近づけて言った。立った時の身長はあれだけ違うのに、座った時の顔の高さがそれ程違わないのが更に悔しい。
「そんなつもりは無いわ。あなたこそ、私に風当たりが強くないかしら? 私はこんなに友好的に話しているのに」
「それはあんたがこの上なく怪しい格好をしているからでしょう! 頭がおかしいんじゃ無いの?」
「いい加減、そろそろ慣れて頂戴。これが私の正装なんだから。修も気に入ってくれてるわよ?」
「あの子が馬鹿で女好きだからよ! 純朴な子供をたぶらかさないで欲しいわ」
「そんなつもりは無いけど・・・困るわ、どこに行っても男は私を放って置いてくれないのね」
モニカはわざとらしくため息をつく。香奈恵は奥歯を噛んで罵声を飲み込んだ。この女は、私を苛立たせることを楽しんでいる。相手をしたら負けなのだ。
「・・・冗談にも返せないの? つまらないわね」
モニカは手を広げて見せた。そうそう、これでいい。こちらが嫌味を言うほどこの女は増長する。
「別に。あんたのつまらない話に付き合ってるのが馬鹿らしくなっただけ」
「ノリが悪いわね」
モニカは鼻から長く息を吐き出した。
「でも・・・ようやくこれで話ができそうね」
モニカは香奈恵の瞳をまっすぐに覗き込んだ。




