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 香奈恵はいら立ちをぶつけるように、地面をどすどすと踏みしめながら、帰り道を急いだ。香奈恵の足の裏の周囲から土煙りが上りそうな勢いだ。初夏の湿気を含んだ空気の中を急ぐ。体育でバスケットボールをやったせいもあり、自分の汗の臭いがするが、そんなことを気にする余裕はなく、一心不乱に歩みを進めた。


 お腹もそれほど空いていないし、見たいチャンネルがあるわけでもない。そもそも、あんなボロくて田舎くさい家に帰りたくはない。しかし、香奈恵はゆっくり歩いている気にはなれなかった。目尻に浮かんだ涙に夕日が反射する。大通りから旧道に入り、いよいよ人の気配が無くなると香奈恵は走り出した。背中の鞄に、ぶら下げた熊やら果物のキーホルダーががちゃがちゃ音を立てる。道をゆっくり横切ろうとしていた灰色の猫が、必死の形相で走ってくる香奈恵に気付くと、取って食われるとでも思ったのか慌てて走って生け垣の中へ身を隠した。目に涙が滲み、視界がぼやけるが足を止めることは出来なかった。風になったような気分で新緑の木に囲まれた道を走り抜けた。しかし運動音痴なので、実際は本人が思っているほど早く進んでいなかった。

 上り坂に差し掛かると途端に息があがり、道の真ん中で立ち止まる。膝に両手をついて肩を上下させて呼吸をした。鼻の頭から汗が滴り落ち、灰色の地面に黒い染みを作った。その中には涙も混じっていたかもしれない。

 落ち着け・・・私。こんなの私のキャラじゃない。私は同級生よりずっとクールで大人びているし、流行にも敏感だし、なにより美人だ。素敵な彼氏だっている。そう自分に言い聞かせた所で、再び胸がずきんとした。おそるおそる携帯を取り出し、メールボックスを開く。一番上に、袴田惣一の名前があった。件名には何もない。ごくりとつばを飲んで指をかざす。もしかしたら、さっきのは私の見間違いかもしれない。そうであって欲しいと思いながら、震える指でメールを開いた。しかし、やはり香奈恵の記憶は間違っておらず、寸分違わない文言が並んでいた。


 『香奈恵にとっては突然かもしれないけど、少し前から考えていた事があるんだ。香奈恵と一緒にいるのは楽しいよ。でも、正直に言って少し疲れる日もある。そして、残念ながら最近そんな日が増えてきている気がするんだ。こんな事を言うと君はまた怒って冷静に話ができないかもしれないから、メールで伝えるのを許して欲しいけど・・・今のまま付き合い続けるのは難しいと思う。模試も近いし、これからお互い受験勉強も忙しくなるだろうから、一度友達に戻った方がいいと思うんだけど、香奈恵はどう思う?』

 今日、惣一は部活に顔を出さなかった。どうしたの、とメールをしたらこんな返信が来たのだ。再び動悸が激しくなる。何で? 何がいけないの? 私達、うまくやってきたじゃない。そりゃあ少しはケンカもしたけど、私だってあなたに不満があってもガマンしてた所もあるし・・・なにより、どうしてもって言うから付き合ってあげてるのに、突然そんな事を言うなんて許せない。そう直接言えたらいいのに、私にはとても言えない。香奈恵は顔を上げて目をつぶり、深呼吸を繰り返し、20回数えた所で目を開いた。大丈夫、まだ慌てる時間じゃない。

 『どうしたの? 中間テストの成績が悪かったから、少し気落ちしてるんじゃないかしら? でも、すぐに結論を出す必要はないと思うの。私も至らない所があるかもしれないから、これから気をつけるわ。明日また会いましょう』

 極力、感情を抑えてそう打つと、送信ボタンを押した。じっと見つめていると画面が暗転した。それでも香奈恵は返事が来るのを期待しながら、銅像のように立ち尽くしていた。


 大きな音を立てて、引き戸が木の枠にぶつかった。

 「香奈恵!? どうしたの、そんな乱暴に戸を開けて! 雷が落ちたのかと思ったわよ!」

 「戸の立て付けが悪いからいけないんでしょう! こんな古い家、建て直してよ!」

  奥から佳恵が怒鳴ると、香奈恵も乱雑に靴を脱ぎ捨てながら言い返した。

 「何言ってるの! 何を苛々してるのか知らないけど、八つ当たりは許さないわよ!」

 香奈恵は台所に行くと、冷蔵庫から取り出した麦茶をコップになみなみと注いで、一気に飲み干した。

 「出しっ放しにしないの!」

 麦茶の瓶をそのままにして立ち去ろうとした香奈恵を、ジャガイモの皮を剝いていた佳恵が呼び止める。香奈恵は佳恵を睨むと、冷蔵庫へ瓶を放り込んで扉を力強く閉めた。

 「ちょっと! 冷蔵庫が壊れちゃうじゃない! 一体何があったって言うの!?」

 「うるさいわね、いちいち! ほっといてよ!」

 「待ちなさい!」

 香奈恵は佳恵が手が離せないのを横目に、ゆっくり台所を出て居間へ向かった。居間には丸刈りの男の子と、古びた柱や畳の居間にはおよそ似つかわしくない、黒い派手なドレスを着た女がいた。

 「あら香奈恵、おかえりなさい。何かおばさまと言い合ってたみたいだけど、どうかしたの?」

 香奈恵はウンザリした。モニカの事は常識のかけらもない胡散臭い女だと思っているし、全然好きでも何でもないけれど、悔しいが人目を惹きつける美貌と瀟洒なドレスと見比べると一層自分の住んでいる家がみすぼらしく見えるのであった。

 「・・・あんたには関係ないでしょう」

 香奈恵は憎々しげに言う。

 「確かにそうね」

 モニカは香奈恵の顔も見ずにそう言うと、膝をついて弟の修の頬に四角いガーゼを貼った。続けて、テープを切ってガーゼを固定する。そのしなやかな指で優しく傷を押さえる手つきは優美に見えた。

 「はい、もうこれで大丈夫。自分で剥がしちゃだめよ」

 「ありがとう、モニカ姉ちゃん!」

 修は頭からモニカに抱きつく。修も、最近はモニカにべったりだ。

 「危ないじゃない、まだハサミを持っているんだから」

 「へへ、大丈夫だよ!」

 自分に絡んでこないのはありがたいとも思うが、他の人間に懐くのは気に入らない。

 「・・・修、その怪我はどうしたの?」

 「これ? 今日、モニカ姉ちゃんと金守山に行った時にパープルレギオンに会ってさ! かじられちゃったんだ!」

 「パープルレギオン?」

 修が好きな日曜朝の特撮番組に出てくるモンスターだ。

 「そんなのいるわけないじゃない」

 「本当だよ! どうして姉ちゃんはいつも信じてくれないのさ! こーんな大きかったんだ!」

 修は両手を目一杯伸ばして、円を作った。

 「あんたがいつも嘘ばかりついてるからでしょ。そんな大きなのに噛まれたら、その程度の傷じゃ済まないでしょうが」

 「いつもじゃないよ、本当だよ! モニカ姉ちゃんがやっつけてくれたんだ! モニカ姉ちゃん、キャリバーの仲間だったんだよ! 正義の味方なんだ!」

 「馬鹿馬鹿しい・・・そんな怪物をどうやってやっつけるって言うのよ?」

 「あのねー、シュバババ!って光るビームと、めちゃくちゃつえーロボットで戦ったんだよ!」

 「はあ? ロボットなんてどこから出て来るのよ?」

 「それはね、えーっと・・・」

 「修、あまり人に言ってはダメよ、私が正義の味方だっていうのは秘密なんだから」

 モニカは口にそっと指を当てた。

 「えー、なんで?」

 「キャリバーだって、正体は隠しているでしょう?」

 「そういえば、そっかあ。じゃあ、俺とモニカ姉ちゃんの秘密だね」

 「そうね。でも、香奈恵になら教えてもいいわよ」

 モニカはそう言うと香奈恵に微笑んだ。

 「馬っ鹿みたい。あんた、歳いくつなの?」

 「この星・・・国でレディに歳を聞くのは失礼だって聞いたんだけど。言ってもいいけど、驚くわよ?」

 「本当に知りたいわけじゃないわ! それより、修が怪我したってどういうこと? あんたも一緒に金守山に行ったのよね? あんたがついていながら修に怪我させたってどういうことよ?」

 「このぐらいで大げさね。私は注意したわ。それでも修が虫を離さなかったのよ」

 「そうだよ、このぐら全然へっちゃらだよ!」

 「言い訳するの? 危ない所に近づかなければ良かったでしょう! 子供なんだから、先回りして危険な目に合わせないようにするのが大人の役目でしょう!」

 「程度問題よ。何もかもやらせないのが子供のためになるわけではないわ。あなたが今、親御さんの許可を得ないと何もできないとしたら、それはあなたの幸せなの?」

 モニカは香奈恵の言っていることが理解できなというように、淡々と答えた。言い争っているという意識はないのだろう。それが、ますます香奈恵を苛立たせる。

 「私はもう子供じゃないわ! なんなの、居候のくせに! 子守りも満足に出来ないの!?」

 自分でも無茶を言っているのはわかっていたが、止めることは出来なかった。

 「いい加減にしなさい!」

 横から殴りつけるような怒声が飛んでくる。振り向くと、佳恵がエプロン姿のまま、目を見開いていた。

 「モニカさんに何てことを言うの! そういう所が子供だって言うのがわからないの?」

 「だって、修が! 自分の子供が傷つけられたのよ?」

 「修のせいにするのはやめなさい! あなたの苛立ちを、モニカさんにぶつける口実にしているだけじゃない!」

 「だって・・・」

 香奈恵はそう言うと口をつぐんだ。佳恵は香奈恵の前に立って、目をじっと見据えた。

 「だって、なんなの? 違うなら言って見なさい!」

 俯くと、香奈恵のエプロンが見えた。年季の入ったエプロンは、何がついたのか様々な染みと黄ばみで、花柄をドライフラワーのように変色させていた。エプロンの下には毛玉の付いた、洗濯で色褪せたトレーナーが覗いている。目を上げると、化粧っ気のない顔に皺と染みが増えた佳恵の顔が自分を睨んでいた。

 香奈恵は、佳恵がほとんど化粧もせず、作業着のように何年も経ったトレーナーや、ウェストがゴムになった服ばかり来ているのが嫌だった。千穂の母親はいつも綺麗にしているのに。

 「モニカさんと、お母さんに謝りなさい!」

 嫌だ。ここにいたら、自分もこのまま色褪せて、枯れた人間になってしまう。香奈恵は唇を噛んだ。

 「何よ、その態度は! 黙っていても許さないわよ!」

 詰め寄って来た佳恵を、香奈恵は両手で突き飛ばした。

 「・・・嫌! もう何もかも嫌! お母さんも、こんな古い家も大っ嫌い!」

 佳恵の平手が、ムチのように香奈恵の左の頬を打った。傍らで息を飲んで見ていた修が、おお、と歓声を上げた。

 「嫌なら出て行け! 勝手にしなさい!」

 香奈恵は頬を押さえて後じさった。佳恵の目が完全に座っている。香奈恵は涙を見られないように顔を背け居間を出ると、靴のかかとを踏んだまま外へ駆け出した。


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