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 暗闇の中で、冷蔵庫から漏れ出す黄色い光に千穂の顔が照らし出されていた。足元にはキャベツやトマト、ソーセージに鮭の切り身、割れた卵やバターが散乱している。包装は破り取られ、乱雑に齧った跡があった。

 千穂は一心不乱に、両手で生の牛肉にかぶりついている。整った顔が歪み、口元は血で濡れていた。古い冷蔵庫のモーター音に、にちゃにちゃと生肉を咀嚼する音が重なる。千穂は、噛むのも惜しいというように次々と口の中に生肉を押し込んでいったが、不意に大きく咳き込むと、噛みかけの赤い断片を吐き出した。牛肉のパックが転がり、薄く切られた肉がフローリングの床に貼り付いた。

 「・・・くそ!」

 大きく息をしながら、千穂はパジャマの裾で口元を拭った。

 駄目だ・・・何を食べても僕の渇きを満たせない。右腕が痺れて、力が入らない。頭の奥が、芯から割れるように痛む。気を抜くと、このまま意識を失ってしまいそうだ。まさか、こんなに人間の体が脆弱だとは。昼間に奴に遭遇した時に、是が非でも乗り移るべきだった。あの鬱陶しい女の邪魔さえ入らなければ! あいつも人間ではなかったようだが、もっと早く始末しておけば良かった。体は頑丈なようだが、固めてしまえば、池に沈めるなり、どうにでもなる。・・・いや、今更そんなことを考えても仕方が無い。一刻も早く奴に乗り移らなければ、生命が危ない。千穂は冷蔵庫の扉を開けたまま、台所を後にした。



 金色の月が、灰色の雲の隙間から金守山を照らしている。風が強く吹き、木の葉が擦れる音が周囲を覆っていた。辺りには、新緑のむっとした匂いが立ち込めている。舗装されていない道の、轍の間に生えた長い雑草が脛を撫でた。6月といえども、珠洲原町の夜は寒い。千穂は、パジャマの上にカーディガンを羽織り、金守山の山道を歩いていた。普段のように眼鏡を掛けていない。右腕が奇妙に腫れ上がり、腕を引きずるようにして坂を登っていた。時々立ち止まっては、鼻を動かして周囲を窺った。やがて、道を外れ、畑の中に踏み入って行く。苗を踏み潰しながら一直線に林の中へ入って行った。

 高い木々が月の明かりを遮り、深い闇に包まれる。それでも千穂は確かな足取りで、かろうじて人が1人通れる細い道を登って行った。どこで切ったのか、踵から血が流れていたが、気にする様子もない。やがて、木立の間隔が広がり、月の光が射し込む開けた場所に辿り着いた。伐採が進んでいて、辺りに切株が並んでいる。鼻を動かしながら周囲を見回すと、枯れ枝と雑草に覆われた斜面が崩れ落ちているのを見つけた。崩れた落ちた土砂は、つい最近掘り起こしたように見える。

 「ここか?」

 苦しそうな表情で千穂は呟いた。しばらく見守っていると、土砂の山の上から、小さなかけらが転げ落ちた。やがて周囲に振動が起こり、土が大きく盛り上がると、赤い甲殻が姿を現した。甲殻の棘の間を土砂が流れ落ちる。節のある長い8本の脚が地面を踏みしめ、体を揺すって土を振るい落とすと、甲殻の上部から、亀のように収納されていた頭が、長い首をもたげた。目の無いつるりとした頭部の、大きな団子鼻から息を吹き出す。頭部の左側には、里美に受けた傷を塞ぐように、大きなこぶが出来ていた。折られたはずの前足も、折れた場所が一層太くなり、修復していた。心なしか、体全体が昼間に見た時よりも大きく見える。胴の真ん中の、金色の大きな一つ目が千穂を睨んでいた。左右の2つの大鎌を振り上げ、唸り声を上げる。


 「もう少しだけ持ってくれよ・・・」

 千穂が自分に言い聞かせるように囁くと、ぐにゃぐにゃに腫れ上がった右手をゲムトスに向けてかざした。すると、腕全体が空気を入れたように一層大きく膨らみ、先端から鋭い鉤爪が飛び出した。

 ゲムトスが先手を打って、右手の鎌を振り下ろす。千穂は右腕を大きく振るうと、ゲムトスの鎌をはじき返した。すぐに腕を反対方向に振って、左手の鎌を叩き落す。ゲムトスは間髪を容れず連続で鎌を繰り出すが、千穂は右手をムチのように振るい、攻撃を凌いでいた。辺りに剣戟の甲高い音が響く。

 千穂は全ての攻撃を力任せに受け止めるのではなく、太刀筋を読んで受け流したり、フットワークを活かしてかわし、隙を見て頭に近付いた。首に鉤爪を突き立てようとしたが、ゲムトスは首をくねらせて避けた。千穂はすぐに後ろに大きく跳び、横から迫る鎌を飛び越える。

 変異した右腕だけではなく、千穂の身体能力も人間を大きく凌駕していた。素早い動きと、右腕の力でゲムトスの攻撃をしのぐ。傍目には、千穂がゲムトスに競り勝っているように見えた。

 しかし、千穂の顔には焦りが浮かんでいた。呼吸が乱れ、額には大量の汗が浮かんでいる。千穂は後ろに下がると、右手をゲムトスに向けて、鉤爪を開いた。

 「時間が無いんだ! 少し大人しくしていてくれ!」

 千穂の手から赤い液体が勢いよく噴射し、ゲムトスの左腕を赤い飛沫が覆う。すると、ゲムトスの左手の根元が見る間に赤い半透明のガラスに包まれた。ゲムトスは左手の鎌を動かそうとしていたが、先が痙攣するだけだった。しかし、ゲムトスはそれに構う事なく、すぐに間合いを詰めて右手の鎌を千穂めがけて振り下ろす。千穂は横に跳ぶと、倒れこみながら前脚の関節部に液体を噴射した。

 千穂は、動きの鈍ったゲムトスの左手側から接近する。右手の鎌を大きくはじき飛ばし、上から口を開けて噛み付こうとする団子鼻をかわすと、頭部のすぐ下の首筋に鉤爪を突き立てた。千穂が力むと、腕の血管が大きく膨らみ、前に向かって脈動する。ゲムトスは、口を開閉しながら頭を震わせていたが、やがて力尽きたようにうなだれた。千穂が鉤爪を引き抜くと、大きな音を立てて巨体が地面に崩れた。



 「・・・里美、起きろ」

 創士の声で里美は目を覚ました。朦朧とした意識でうつ伏せになった身体を起こす。周りには雑草が生い茂り、風が吹いている。どうやら屋外にいるらしい。目を擦って声のした方を見ると、暗がりの中に銀色の球体が浮かんでいた。目のように、赤いランプが点滅している。

 「ふあ・・・ここはどこ?」

 「早く目を覚ませ! ここは金守山だ!」

 そうだ。千穂より先にゲムトスを倒すために金守山に来てたんだっけ。そういえば、白い戦闘服を着ている。土手の下でじっとしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。こんな薄手の格好で寒さを感じないのは、リミッターを解除したせいなのか、このスーツのおかげなのか。どんな場所でも眠れるのは里美の長所の1つだった。

 「今何時?」

 「午前2時12分だ。つい先ほど、衛星がゲムトスの生体パルスを検知した」

 「えっ!? 千穂は!?」

 「既に金守山に入っているかもしれない」

 「かもしれないって、わからないの!?」

 「3日前に設置した観測装置が何者かに破壊された。現在、金守山の中にいるかどうかは不明だ」

 「千穂がやったの・・・?」

 「千穂ちゃんが来ているなら、目指すべき場所は1つだ。里美、我々もゲムトスの所に急ぐぞ!」

 「うん!」

 里美は身を隠していた土手の下から、大きく跳んで山道に上ると、風のような速さで駆け上って行った。



 肩で息をしながら、千穂は地面に転がったゲムトスの頭の前に立った。頬が切れて血が流れている。衣服もところどころが破れ、血が滲んでいた。

 「まったく、手間を取らせる・・・」

 ゲムトスの団子鼻から大きな呼吸音が聞こえる。

 「ゆっくり眠るといい。次に目が覚めた時には、僕と一緒だよ」

 千穂は右手をゲムトスの頭部にかざした。顔が大きく歪み、腕に血管が浮かび上がる。鉤爪を開くと、掌の中央から穴が大きく広がり、丸く並んだ牙が姿を現した。

 千穂が、ゲムトスの口の中に右腕を捻じ込もうとした、その時。ゲムトスの首の根元の甲殻が割れ、大きな鉤鼻が姿を現した。鉤鼻の下には、昆虫の顎のような小さな口が見えた。次の瞬間、顎が左右に開くと、口から大きな針が飛び出し、千穂めがけて襲いかかった。

 千穂は反射的に右腕で体を庇ったが、針は千穂の右腕を貫き、そのまま右脇腹をえぐった。

 うどんを啜るように、細長い針は再びゲムトスの口の中に戻って行く。針を引き抜かれると、千穂は呻きながら腹ばいに倒れた。脇腹が熱い。左手で押さえると、指の間を血が流れる感触がした。右腕からも赤黒い血が地面に広がる。

 「くそ・・・」

 顔を上げると、鉤鼻が付いた頭が首を伸ばし、千穂を見下ろした。大きな体が再び立ち上がる。音を立てて、左手の根元に付いたガラスが砕けた。続けて、脚に付着したガラスも壊れ落ちる。体を震わせると、左右の鎌の下から、新たな鎌が飛び出した。

 次に、鉤鼻が団子鼻の首筋に噛みついた。大量の紫色の血が吹き出す。千穂は意外な行動に驚いたが、しばらくすると団子鼻の付いた頭の口が動き出し、首を持ち上げた。首元の傷は見る間に塞がっていく。

 ゲムトスは、2本の首と4本の鎌を振り上げて、千穂に近付いた。



 林の中を、小さな人影と銀色の球体が駆け抜けて行く。頭上からフクロウの鳴く声が聞こえた。

 「もうすぐだ。ゲムトスのパルスが急に強くなっている。移動していないところを見ると、既に千穂ちゃんと接触している可能性が高い」

 「千穂、大丈夫かな?」

 「・・・どちらが勝ったとしても、千穂ちゃんが危ない。早く止めなければ」

 「わかってるよ」


 木々の間を抜けると、切株が点在する開けた場所に出た。月の明かりに蟹のような赤い甲殻が照らされている。甲殻からは2本の首が伸びている。団子鼻の付いた頭は見覚えがあったが、もう1つ、昔絵本で見た魔女のような鉤鼻の付いた頭が並んでいた。首の付け根から左右に2本ずつ鎌が突き出している。

 怪物の前方に、倒れている人影が見えた。体のそばには、一見、赤褐色の巨大な芋虫が横たわっているように見えたが、その芋虫は人間の肩から伸びていた。里美は、暗闇の中でも昼間のように見える機械の目で、千穂の腕が血にまみれているのを見た。腕をわずかに持ち上げ、ゲムトスに向かって鉤爪を伸ばしている。

 「千穂!」

 里美が大きな声を上げると、団子鼻と鉤鼻が向き直った。

 「よくも千穂を・・・許せない!」

 里美はゲムトスに向かって走り出した。鉤鼻の下顎が左右に開き、里美に狙いをつけるが、里美は気付かずに一直線に突っ込んで行く。

 「避けろ!」

 銀色の球が叫んだ刹那、鉤鼻の口から針が飛び出した。避ける間もなく、里美の胸に突き刺さる。里美は強い衝撃を受け、後ろに飛ばされた。背中を地面がやすりがけして、ようやく止まる。

 「かはっ・・・」

 里美は横になったまま、胸を押さえた。呼吸ができない。胸に穴が空いてしまったのではないかと思ったが、みぞおちのあたりが少し窪んでいるだけで、穴は見つからなかった。首だけで振り返ると、鉤鼻の口の中に針が吸い込まれて行くのが見えた。


 「動けるか!?」

 銀色の球体が飛んでくる。里美は胸を押さえながらなんとか立ち上がった。

 「ランダウム合金が損傷するとは・・・予想以上に危険な攻撃だ。気を付けろ」

 里美は胸をさすりながら頷いた。ゲムトスの方を見ると、再び千穂に獲物を定めている。団子鼻が大きく口を開き、千穂に迫っていた。

 「今、ゲムトスの心臓の位置を探っている。慎重に、一撃で仕留めろよ」

 「・・・千穂が危ないよ」

 里美はかすれた声を絞り出した。

 「厳しいようだが、ゲムトスを倒すことを第一に考えろ。千穂ちゃんを庇いながら勝てる相手じゃない」

 「・・・」

 里美は首を横に振ると、ゲムトスの後ろから走り寄った。鉤鼻が里美に気付き、口を開いて針を射ち出す。里美は発射する寸前に横に跳んで避けると、一気にゲムトス接近した。


 ゲムトスの後脚のそばで右手をかざすと、急速に掌が輝き出した。直後に爆音が響き、左側の4本の脚がちぎれ飛ぶ。紫色の血が飛び散り、ゲムトスの体が横に倒れた。鉤鼻が地面にめり込む。

 「何をしている! この程度じゃゲムトスはすぐに回復するぞ!」

 里美は銀色の球体を無視して千穂の側に駆け寄ると、右腕を背中に回して抱え上げ、そのまま林に向かって走り出した。


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