173 「若さがない」を笑い飛ばす9
ときに私たちは、「若さがない」ことを言い訳にして、あきらめる。
ついつい、今さらやったところで、と考えてしまうわけだ。
これから積み上げたところで、死んですべてを失うんじゃないか? それが、あたりまえに怖い。
小学一年生のころ、曾祖父が亡くなった。私は多くの親族が集まる葬式で、明るく振る舞っていた。私は死ぬというのがどういうことか、当時まだ知らなかったからだ。
しかし、葬式が進み、棺に眠る曾祖父と対面した。わんわん泣いたことを覚えている。
それから私はよく、夜になると布団の中で泣いていた。死ぬのが、こわかった。おそろしかったんだ。どうすれば死なずにいられるのかを考えていた。
中学ぐらいのころだったと思う。ものの本で、永遠に生きる方法について知った。
もっとも簡単に永遠に近づく方法は、数学の定理を証明して歴史に名を刻むことだと。
それを読んだ私は、むしろ発奮しなかった。むしろ鼻で笑うような感情を抱いた。死に生々しさが足りなかった。自分の死も怖ければ、身近な死も恐ろしかった。それを何も分かっていない。
ひんやりと、つめたい。体温を奪っていくその永遠の冷却が、情熱を吸い取っていくさまが恐ろしいのだ。その恐怖を、薄っぺらい言葉なんかで散らせるものか。
およそ泣かなくなったのは、慣れたわけじゃない。ただの虚勢だ。命を特別だと思うほどに、喪失は、無為は、黒い穴に無限落下するような悪夢として襲いかかる。
なにより、それが杞憂でなく、いずれ必ず訪れるという。たまったもんじゃない。
死は恐ろしい。しかし、死に怯えて一生を泣いて過ごす無意味さもまた恐ろしい。
二重の責め苦の境界を、ふらふらと生きてゆくのみ。これが本当に生きるということか?