101 「才能がない」を笑い飛ばす5
自我が芽生える前の話は、どうしようもないことだ。
そのどうしようもないことに固執すると、人生もまたどうしようもないものになる。
日々をあがく上で、確かに「センス」に対して無策でいることは、枯渇をまねくのだろう。よくあるたとえとして、結果=努力×才能だ、なんて話を聞く。それなりに分からないでもない話なんだけど、少しだけ深掘りしてみよう。
この場合の才能とは、ご都合主義よろしく、入手経験値100倍! みたいな努力の効果を何十倍、何百倍とかけ算してくれるチートスキルを指すのだろうか?
私や君という現象を、事細かにみてみたら、そのひとつひとつは何らかの仕組みに従っているはずだ。流石神さんはえこひいきをしてくれないし、世界の外からファンタジックな干渉はされていない。現実的な保存則だ。
であるのなら。才能というのは、努力を無駄にしない感性のことではないだろうか?
たとえば、私は才能が0.0001(1万分の1)で、君の才能を0.01(100分の1)としよう。1万時間ほど努力したとする。
私は「努力1万時間」×「才能0.0001」=「結果1」を得る。
君は「努力1万時間」×「才能0.01」=「結果100」を得る。
なるほど、君は天才だ! 私の100倍の才能を持ち、100倍の結果を出した!
私はそんな君に負けてられないと、君のことを真剣に思い巡らせ、いつ、どこで、なにを、なんで、どうやって? 真似して、やってみて、結果をはかってみて、かえてみて、やり直して、何度も、何度でも。そうやっているうちに、いつの間にかちょっとは結果が出るようになってくる。
努力を無駄にしない方法を学ぶ。そして、結果から逆算すると? いつの間にか私の才能が0.01近くまで上がるわけだ。
なにかもうひとつ、アイディアがあれば、もっといい方法に気付けたら、君より才能を発揮することができるかもしれない。もちろん君だって、今の自分に慢心せず、もっと良いやり方を見つけている。けれど、どうだろう? 「努力を無駄にしない感性」、「センス」は絶対に、努力を増幅させるようなことはない。どれだけ工夫を凝らしても、努力×1を超えることは絶対にないわけだ。