青色の祝福
風が吹く。それが緑を渡ってゆけば、木々はささやきでも交わすように葉音を立てる。梢の音は潮の音だ、と以前友人は言った。いつも通りの無感動な声で。
それでも、あまりに心地よさげに目を伏せて聞いていたので「好きなのか」と聞いたら、そっけなく「嫌いだ」とつぶやいた綺麗なヴァーノン・ウィルクス。
あれは王立学院に通っていたころのことだった。額縁だらけの部屋の中、青が嫌いなくせに、薄青の便箋に書かれた手紙をいつも待っていた友人……。
「どうしたの? 王子さま」
子供特有の澄んだ声と上着の裾を引かれる感覚で、王太子エドモンドは我に返った。木々を渡る風の音。でも、ここはあの学院の森じゃない。夏の緑に包まれ風にさざめく北の大地。オーツ伯爵の領地。
「こっちよ。お兄さまたち、いつも湖のところにいるの」
明るく笑って踊るように歩き出した少女の髪は、ヴァーノンと同じミルクティーの色。ちゃんと「王子さま」が後ろを付いて来ているか、時おり金色の瞳で確認しながら緑の中を進んで行く。
「王子さまは、お兄さまとキャロリンさんのケッコン式にいらしたんでしょう? ええと、あと二日だものね」
「あ、ああ。そうだな」
「お兄さまってひどいひとなの、わたくしもキャロリンさんと遊んでみたいのに、いつも取っていってしまうのよ。お母さまを取ってしまうお父さまみたい」
エドモンドがオーツ伯爵の城館に着いたのはほんの数時間前のことだったが、このヴァーノンの妹だという少女は人懐っこく、伯爵に言われる前に初対面のエドモンドの案内役を買って出てくれた。ヴァーノンとその婚約者がいるという場所への。
「お兄さまとは、お兄さまがキャロリンさんを連れてきたときに初めてお会いしたの。お兄さまはね、わたくしを見て『これは誰ですか』ってお父さまに聞いたのよ」
友人に妹がいた(しかも自分に教えて貰えなかった)という事実にいささか驚いていたエドモンドは、その言葉を聞いて密かに安堵した。少女の甘そうな髪に口角を上げる。
「お兄様が嫌いなのか」
「ひとりでいるときのお兄さまは、きらい。怖いもの。でも……キャロリンさんといるときのお兄さまは好き」
「どうしてだ?」
「とっても素敵に笑うのよ。きれいなの」
「ふむ、なるほど」
それは楽しみだな、と答えながらも不思議な感じがした。エドモンドはこの少女の兄が笑うところなど見たことがない。誰より綺麗で誰より表情の乏しい友人。それが、笑う?
ざぁぁぁ――――と梢が鳴る。
数歩先を歩いていた少女が立ち止まり、風に舞うミルクティー色の髪を押さえながら嬉しげな声を上げた。
「あ、ついたわ、ちゃんといる! ほら王子さま。静かにしなきゃだめよ、ばれちゃだめなの」
「私達は覗きに来たのか……わっ」
小さな手に腕を引かれて隣に並べば、ふいに視界が開けた。木々と背の高い草、深緑に隠されていた景色。美しい岸辺、向こうに見える丘。そこに広がる青い、色。
高ん澄んだ空、瑠璃色の湖。吹きゆく風……青嵐。
それが目に入った瞬間、森の主役だった緑は溶け去ってただの脇役以下に成り下がる。割り込めるのは白い雲と白いさざ波だけ。
エドモンドは息を呑んで立ち竦んだ。あまりに圧倒的な色だった。静謐なのにどこまでも鮮烈な青と白。友人が青を嫌う理由を、初めて、ほんの少しだけ理解できた気がする。こんなに凄まじい色は、知らない。
それに。
「ほんとうに綺麗な空と水。これで潮の匂いがしたら、ここにいるのが夢だと思ってしまいそう。ね、そうじゃない?」
これほど空気に溶ける声は、あれほど空に映える髪は知らない。紅茶色の髪を陽光があかがねの色にきらめかせる。少し離れた場所。空の下、青いドレスの娘が浅瀬に足を浸して優雅に舞っていた。水辺の蝶さながらに。ひらひら、ひらひら。誘うみたいに。
「夢だったほうが良いのか」
彼女の声に答えた冷淡な声と、湖のほとりに座る男の姿に、エドモンドは驚いた。ヴァーノン・ウィルクス。そうだ、彼はそこにいた。でもどうして自分は先に彼に気付かなかったのだろう。彼ほど周囲の景色に溶け込まず、目立つ人間は他にいない、と思っていたのに。
ふふ、という笑い声が聞こえた。踊りが止まる。
「違うわ、これが夢だったら私は別の人と結婚することになってたかも。ヴァーノン様はそれでいいの?」
「様はいらない」
「……ヴァーノン」
「嫌だ、キャロリン」
大嫌いなはずの青色に囲まれ、紅茶色の髪の婚約者を抱き締める、久々に見た友人の淡い淡いミルクティーの髪。空に溶けたりなんてしないはずなのに。
「でも、本当に夢みたいに幸せなの。いけないかしら」
「いや」
ヴァーノンが笑う気配がした。甘く柔らかく。
「それなら、わかる……」
初めて出会った少年のころから、少しも変わらぬ誰をも魅了する美貌と才知。たったひとつのもの以外本当はどうでもいいと思っている友人。彼にこんな声が出せたなんて。
直接その表情が見えなくとも、神聖な孤高の花が自ら墜ちるのを見たような衝撃だった。そして、同時にひどく嬉しかった。
寄り添い合って輝く紅茶とミルクティーの髪。
ずっとずっと、ただひとりのために回っていた彼の世界。エドモンドはそんな彼を哀れに思い、たまに不満にも思ったけれど、あんな女性が相手では仕方がない。
彼が生まれ育ったという空と海に挟まれたセレステの地で、凄烈な青の中で、彼女の髪ほど心に残るものは無かっただろう。彼女の声ほど優しく染み込んだものは無かっただろう。
エドモンドでさえそう思うのに、あの感情の乏しい寂しいスポンジケーキ色の目をした彼が、そうでなかったなどありえない。エドモンドが、この景色の中で彼より先に彼の婚約者を見つけたのは、自然なことだったのだ。
ザァー、ザァー……と葉擦れの音がする。潮の音。
彼女のそばで彼は孤高などではない。彼女といれば張り詰めた空気をまといつかせる必要などなく、大嫌いなはずの青にだって溶け込める。彼のたったひとりの想い人。
エドモンドは隣の少女の頭を軽く撫でた。ヴァーノンと同じ、王都の喫茶店でその彼が『不味い』と評した甘い甘いミルクティーの髪。きょとん、と少女は王太子を見上げる。
「王子さま?」
「私はキャロリン嬢に挨拶をしてこよう」
「ええっ。おジャマするとお兄さま怖いのよ」
「なに、構うものか。私はヴァーノンの友だからな」
友人だから。少なくとも、自分は彼を親友だと思っているから。だから、彼が自らの居場所に戻ることができて嬉しい。たったひとりの女性のそばで、彼がそのひとに笑いかけるなんて、こんなに嬉しいことはない。
森から青と白の世界に踏み出して、寄り添う二人に大股で近付く。感情の薄いスポンジケーキ色の目を向けてきたヴァーノンに、いつも通りエドモンドは笑った。
「やあ、招かれてもいないのに来てやったぞ。結婚式は明後日だってな。間に合って良かった。どうだ、幸せか?」
微かに目を見開いたヴァーノンはやはり、にこりともしなかったし、返事もそっけなかった。 それでも、これほどまでに嬉しげで幸せそうな返事は初めてだ。
「ええ。エドモンド様」
二日後、オーツ伯爵の城館。
その礼拝堂で行われた次期伯爵の結婚式は、これでもか、というほど小規模なものだった。参列者はオーツ伯爵夫妻とその令嬢、花嫁の後見人であるセレステ子爵夫妻とその子息。それから王太子エドモンドのみ。
だが、花嫁も花婿もそれを少しも気にすることなく、ただお互いのみを見つめ、ひとつひとつの言葉をかみしめるように、婚姻の誓約を交わした。
――誓います。
その、神聖で美しい響き。
二人分の署名の入った結婚証書を受け取った神官が、厳かに婚姻の成立を告げ、ゆっくりと礼拝堂の扉が開かれた。
伯爵令嬢が撒いた花びらが入ってきた風に舞い上がる。
かつて見た手紙と同じ薄青のドレスを身にまとった花嫁と、その手を取る白い衣装の花婿の後に付いて、参列者が祝宴会場である庭園に向かって移動していく。
「おめでとうございます!」
待ち受けていた使用人達、領民達が祝福の言葉を叫ぶ。おめでとうございます、ヴァーノン様、キャロリン様、お幸せに……。口々に。
音楽と歓声と笑い声に満ちた祝宴の席。エドモンドは花婿が近くにいないときを狙って、紅茶色の髪の花嫁に声をかけた。
「どうも私がいるところだと、ヴァーノンは微笑む気にならないらしいな。あなたのそばだと素敵に笑うと聞いたのだが、残念ながら私はその表情をまだ見ていない」
「まあ、王太子殿下。そんな……」
美人だが、美女というには少し幼い顔立ちで、花婿に比べれば目立って見劣りする娘。でも、そう。きっと友人にとっては誰より美しく、特別な女性。
綺麗な青の似合う女性。空に映える髪の。
エドモンドは離れたところでセレステ子爵の子息と話しているヴァーノンの、その背に流れる淡い淡い色の髪をちらりと見て、それから彼女にそっとささやく。
「どうか私の友人をよろしく頼む」
蒼穹の下、友人の花嫁はただ柔らかく微笑んだ。