3 お日さまに会いに
雪だるまは自分のたどった道のりを逆に進んで戻ろうとしました。
ところが。
いつの間にか雲の切れ間はふさがり、お月様は姿を隠していました。そして、また冷たい雪が静かに、静かに降り始めたのです。雪だるまは生まれて初めてあせりました。
(早くいかなきゃ……!)
でも、もう遅かったのです。しばらく進むと雪はすっかり、雪だるまの歩いてきたあとを隠してしまっていました。大通りにぶつかったところで、雪だるまは途方に暮れて歩道の上に立ちどまりました。
曲がり角のところから、大きな機械がごうごうと音を立てて走って来ます。雪だるまはなぜかぞっとして、電柱の陰に隠れました。
その大きな機械は、道路の上に積もった雪をがりがりと音を立ててかき集め、次々と飲みこんでいました。そうして、泥が混ざって茶色になった雪を、ばしゃばしゃと道路の脇に吐き出していくのです。
(これは、見つかるわけにはいかないぞ)
雪だるまは電柱の陰でじっと息をひそめていました。あの機械につかまったら、子猫もろともばらばらにされてしまうに違いありません。
ようやくその機械が大通りの向こうへと姿を消したときには、あたりの様子はすっかり変わってしまって、雪だるまはいよいよ、自分が通ってきた道をたどることができなくなっていたのでした。
風が少し強く吹き始めていました。降って間もない雪が舞い上げられて、街灯の光の中で輝きながら踊ります。美しい夜でした。でも、宿無しの小さな生き物たちにとっては、こんな恐ろしい夜もありません。
どこか高いところで羽ばたきの音が響きます。ねぐらを見失ったカラスが愚痴をこぼしているのでした。
――翼が雪まみれだ、重くてかぁなわん!
近くの側溝の格子蓋に風が吹き込んで、くぐもった虚ろな音を立てました。その中に、小さなささやき声が混ざります。
(猫だぜ)
(ああ、猫だ)
ひそひそとささやき合う声は雪だるまにも聞こえていました。その声の中にこもった意地悪で冷たい響きは、雪だるまを締め付けるように思われました。
(ほっとけばいいのに)
(どうせ長くもたないだろうにな)
(どこに連れて行こうっていうのかね)
雪だるまは身構えました。格子蓋の向こうから響く声は、子猫を助けたいと思う雪だるまのことを、どこかこの風のとどかない暗いところからせせら笑っているのです。
「誰だ! 何なんだ、君たちは!」
雪だるまの鋭い叫びには答えず、さざめく声はこういいました。
(そいつを産むために、そいつのお袋さんは俺たちの仲間を、ずいぶんたくさん殺して食ったものさ。だから、そいつの血と肉は、俺たちのものだ)
(そうだ、俺たちに返してくれ。こんな夜には、温かい肉を食わなくちゃ)
(そうだそうだ。そいつをよこせ)
口々に勝手なことをわめいているその生き物たちは、格子蓋の向こうに隠れて出てきません。隠れたまま、子猫をほしがって雪だるまをののしり、笑っていたのです。
「ふざけるな! この子はまだ生きているんだ! お前たちなんかに、渡すものか!」
ペットボトルの目玉がぐるぐると回り、ぼうっと光りました。怒った雪だるまが、先ほどまで隠れていた電柱を殴りつけると、電線から大きな雪の塊がいくつも落ちてきます。
そのどさどさという音に驚いて、側溝の中にいたものたちは、さあっと逃げ去ってしまいました。まるでほうきで掃いたように気配を消してしまったのでした。
「雪だるまくん、どうしたの?」
子猫がいいました。
「暖かいところ、あった?」
「ごめんよ、まだなんだ」
子猫はどうやら、少しの間眠っていたようでした。あの恐ろしくいやらしいささやき声を聞かせずに済んだと知って、雪だるまはほっとしたのです。
(よかった。あの声を聞いたら、猫くんはきっと泣き出してしまっただろう。それにしても、困ったなあ)
雪だるまはどうすればいいか一生懸命に考えました。生まれたところに帰ることはもうできません。でも、このまま立ち止まっていることもできませんでした。
いつもなら夜通し明るく電気をともしている通りのお店も、今夜は早々と照明を落とし、ドアを閉ざしてしまっています。子猫を受け入れてくれる暖かい場所など、見つけられそうにもありません。何より、生まれたばかりの雪だるまには、ごくごく限られた知恵しかなかったのです。
(お日様さえ、昇ってくれれば……)
ふいに浮かんだその考えに、雪だるまは少し身震いしました。自分がこうして動けるのも、ものを考えていられるのも、この雪の夜の暗闇の中でだけのことだと、知っていたからです。お日様にあたったら、きっとその場で動けなくなって、そのまま融けていってしまうことでしょう。
それでも、雪だるまはぐっと頭を持ち上げました。
「猫くん。僕は、君をお日様のところに連れていくぞ」
「お日様……」
子猫は目を閉じたまま、繰り返しました。
「いいねぇ。お日様はあったかいよね。うん、もう一度お日様を見たいよ」
(見せてやるとも!)
雪だるまは体中にありったけの力を込めました。その時、大通りの上のほうから声をかけてきたものがありました。
「ほう、お日様に会いに行くのかね」
声の主は、高い鉄柱の上に取り付けられた、真っ青に塗られた標識板でした。
「お日様がお出ましになるにはまだだいぶ時間があるぞ。だが少しでも早く会いたいというなら、東へ向かって歩いて行くことじゃ」
「東……」
雪だるまは手袋を振って、標識に叫びました。
「行きます、東へ……! 教えてください、標識さん、東はどっちへ行けばいいんですか?」
標識は体に描かれた矢印をもぞもぞと動かして答えました。
「こっちじゃ。道がわからなくなったら、わしの仲間にまた訊くがええ」
「ありがとう、標識さん!」
雪だるまはそう叫ぶと、標識が差した方角へ向かって歩き始めたのです。
長い、長い道のりでした。雪で真っ白に埋まった歩道を、雪だるまは一散に歩いていきました。そのあいだにも、絶えず、どこか暖かい場所はないか、子猫に食べさせてやれるものはないかと、目をみはり続けていたのです。
ですが、雪道はどこまでもただ白くなだらかで、暖かなものなどなに一つ見当たりませんでした。子猫にとって、雪だるまの口の中が手の届く限り世の中で一番暖かな場所でした。
直接雪に触れる足の裏から染み込んでくる冷たさに、子猫はすっかり眠ってしまうことはできませんでした。それでも自分の体の温もりで和らいだ空気に包まれて、心地よくうつらうつらとしておりました。
子猫があまりに静かだと、雪だるまは不安になりました。小さな友達がもう二度と目を覚まさないのではないかと、心配になりました。
「猫くん。大丈夫かい」
「うん……」
そんなやり取りを、何度繰り返したことでしょう。か細い返事を確かめて、雪だるまはまた歩き出すのです。丸いお尻の下で、踏み固められた雪がぎしぎしと鳴りました。
ときどき、どこかから声が聞こえます。
―無駄なことは、やめなよ。
(無駄なもんか! ぼくはあきらめないぞ!)
仄暗い誘いの声に、雪だるまは首を振って歩き続けます。
時折雪が激しくなって、雪だるまの足元を凍り付かせ、地面に縫いとめようとします。電柱の脇に寄せ集められた汚れた雪が、雪だるまを呼び止めます。
――よう、仲間に入れよ。明日になって日が照ったって、俺たちと一緒なら融けずにいられるじゃないか。
雪だるまは、その呼び声に耳をふさいで歩き続けます。
(だめだ! ぼくは、歩いて行くために生まれたんだ!)
いつしか、子猫はすっかり目を覚ましてしまったようでした。口の中の小さな友達が、雪だるまに話しかけました。
「ねえ、雪だるまくん。もう、いいんだよ……ぼくのために、頑張ってくれてありがとう。でも君はきっと……お日様にあたったら消えてしまうでしょ? 魚屋さんの裏にあった氷みたいにさ。だったら――」
げしゅ、とまた子猫は咳き込んで、言いかけた言葉を飲みこみました。そして、少したってこういいました。
「ああ、ぼくの命を、今のうちに君がもらってくれたらなあ」
雪だるまはぎょっとして立ち止まりました。そして、頭を振るとまた歩き始めました。
「えへへ、変なこといって、ごめんね。今急に、思ったんだよ。君がお日様の下で、遊べるようになればいいなって」
子猫がおかしそうにそういいました
「何を言うんだ。僕のほうこそ、あげられるものなら僕の命を、君にあげたいよ」
雪だるまは心の底から、そういいました。
雪だるまには分かっていたのです。
自分の命が、子猫のものとはもともと違っていて、世の中の誰ともつながっていない、という事が。
子猫の今にも消えそうな命――本物の命を、自分の命を使ってつなぎとめることができたなら、どんなに嬉しいことでしょう。だのに、こうしている間にも、子猫の温かみと心臓の鼓動は、少しづつ、また少しづつかすかになっていくのです。
「ああ、でもね。お母さんが言ってた。命は、簡単にあげたりもらったりできないものなんだって」
苦しそうな息で、子猫がくすくすと笑いました。
雪だるまは風が入らない様に片方の手袋を口元にあてがい、ペットボトルキャップの目玉を絶え間なく回しながら、ただ黙々と歩き続けました。目玉の回転で溶けた雪が、丸い顔の上を伝って少しづつ流れ落ちておりました。
(ああ、お日様! お日様! 早く来てください)
雪だるまはただひたすら、そう念じました。
(僕はきっと、あの子の言葉を嘘にしないために、命を授かりました。歩き去るために生まれました! でも、僕には今、猫くんを助けるという仕事もできました!)
雪だるまは、まだ真っ暗な東の空に向かって、手袋をはめた雪の方腕を伸ばしました。
(生まれてきてたった一晩で、二つもいいことができる。僕は幸せ者です。朝になったら立ち止まって、そのまま融けてしまう、それでも本望です! だから、どうか猫くんを助けてください。助けさせてください)
暗闇の中に吹き荒れる風と、街灯の明かり。その中で雪がきらきらと舞い続けていました。雪だるまは疲れるということがありません。どこまでも歩きました。
一歩でも東へ。そうすれば、子猫の命が助かる可能性がそれだけ増える、そう信じて。
やがて、いつしか――
東の空の下のほうに、わずかな明るみが現れたように思えました。きっと、もうすぐ夜明けなのです。
「猫くん! 猫くん! もう少しだ、頑張って!」
「雪だるまくん……ぼく、眠いよ……」
「眠っちゃだめだ! 僕を一人にしないでくれ!」
叫んだその時でした。東の空がばら色に染まり、黒々と横たわる山の裾から、金色の光が差したのです。その光は、雪だるまの顔を真正面から照らして貫きました。
「あ、ああ……お日様……!」
光に焼かれて、雪だるまの目の前が真っ暗になりました。頭の中にまで黒い靄が広がっていくその中で、雪だるまは最後の力を振り絞り、子猫を口の中から抱きあげました。そうして、自分の下敷きにならないよう、できるだけ遠くへと腕を伸ばしたのです。
「こりゃ、ひどい。まず雪かきをしないと車を出せないな」
狭い庭のある小さな家の玄関から、男の人が出てきて、そういいました。その脇を通り抜けて、早起きな女の子が一人駆け出しました。
「うわあ。学校、お休みになっちゃうかも!」
女の子はすっかりはしゃいでいます。
「こらこら、遊ぶのもいいけど、着替えてご飯を食べてからにしなさい」
女の子はお父さんがそういうのも聞かずに、薄いサンダルをはいて門の外へ駆けだしました。
ふと、お父さんは門の前を見て顔をしかめました。
「全く、どこの誰だ、ひとの家の前にこんな……」
半ば融けつつまた凍った、灰色の雪の大きな塊が、ずっしりと積み上げられていたのです。どこかの不心得な人が自分の家の前を雪かきした後、ここに捨てたに違いありませんでした。
「お父さん! 猫! 猫がいる!」
不意に女の子の叫び声がしました。
「猫ぉ?」
猫くらいどこにでもいるだろう、この近所にだって――
そう呟きながら、お父さんは雪の塊の脇を通って、娘のほうへ行きました。
女の子が胸に抱えたものを見て、お父さんは顔をしかめました。ぐったりと力なく目を閉じた灰色の子猫が、目ヤニを貼りつかせた顔でうつむいていたのです。
「どうやら酷い風邪をひいてるな。こりゃあ、ダメかもしれないぞ」
そういって難しい顔をしましたが、心の中はもう決まっていました。そう、この男の人は、猫が大好きだったのです。
――やれやれ、獣医さんに払う治療費について、母さんに何といったものかな。
「ねえ、助かるでしょ? 助けてあげて!」
必死な顔で見上げる娘に、お父さんは力強くうなずきました。
「できるだけの事は、してみような」
心配そうに腕の中の生き物をのぞき込む、小さな娘の肩を抱きながら、お父さんはドアの中に消えていきました。
薄緑とオレンジのペットボトルキャップが、朝日を浴びて雪の中に転がっていました。
おしまい