第七十七話「ブリーズ・ウインド・ゲイル」
「気になりますか?」
ベッドに腰掛け仏頂面で俯いていた所に不意にかけられた言葉に、シェリルが驚いて顔を上げる。そこには自分に割り当てられた部屋の扉を開き、そこにまっすぐに立っていた蝶々の姿があった。
薄い水色の着物を纏い、重ねた両手を腰に当て、柔和な表情でシェリルを見つめている。外は既に夜を迎えていたためにシェリルの部屋を含む施設内の照明類も殆ど消されていたのだが、その蝶々の姿はそんな薄暗闇の中において、自ら輝きを放っているかのようにハッキリと見据えることが出来た。
彼女がなぜ声をかけたのか、何を言わんとしているのか、シェリルは十分に理解していた。
シェリルが小さく頷く。
「……私は」
そしてしぼり出すようにシェリルが言った。
「私は、ここにいていいのでしょうか?」
「……」
「彼らが――ルイが戦っているというのに、私はここでじっとしているしか出来ない。支援も、援護も出来ない。ただここにいて、祈ることしか出来ないなんて……」
その声は己の立場を呪う響きに満ちていた。シェリルは自分の置かれた状況を理解していたが、それだけに何も出来ない、してはいけないと言う歯痒さもひとしおだった。能力を使わなかったのもそれが理由だった。
「辛いですか?」
蝶々が音も立てずに部屋の中に入っていく。シェリルが黙って頷く。
蝶々がシェリルの前に立ち、その場で片膝をつく。膝上にあったシェリルの手の甲に自身の手を重ね、その顔を見上げるように見つめながら蝶々が言った。
「前に出るだけが、戦いではありません」
「――え?」
「忍耐です。どれだけ理不尽な状況に置かれても、時が来るまでじっと耐える。これもまた、戦いなのです」
「……」
「自重なさい。今はただ、ルイを信じてじっと待つのです……あなたの戦いは、この後にしっかりと控えているのですから」
強く諭す蝶々の言葉に、そして刹那の沈黙の後の優しさに満ちた語調とのギャップに、シェリルが軽く驚いて蝶々を見る。
綺麗な瞳。慈愛に溢れ、吸い込まれそうなくらいに綺麗。
顔全体に広がる柔らかな笑みは、すべてを投げ出して童心に帰って甘えてしまいたいくらいに危険な暖かさを持っていた。
「それは、どういう……」
雰囲気に呑まれかけた自身の精神を引っ張り上げる意味も含めて、最後の言葉の意味を確認しようとシェリルが返す。それに対して手の甲を優しく撫でながら蝶々が言った。
「それは簡単です。いえ、簡単ではありますが、ある意味では最も難しい事です」
「……では、私は何をすれば?」
「――『お疲れ様』と、帰ってきたルイを労うのです。友の暖かい言葉と笑顔は、戦いでささくれた心を解す一番の良薬なのですから」
そう言って蝶々が笑う。
邪念の欠片もない。眩しすぎる。
シェリルの頭の中に、聖母という言葉が真っ先に浮かぶ。
「……出来ますね?」
蝶々の言葉にしっかりと頷く。
「はい。絶対に」
「よろしい」
シェリルの頭を撫でながら蝶々が再び笑う。くすぐったさを感じながら、シェリルもつられて笑みをこぼす。
蝶々がシェリルの頭を撫でる。
「多分、朝ぐらいにはこちらに来ると思いますので、その時にはお願いしますね」
「……あ、はい。任せてください」
蝶々がシェリルの頭を撫でる。シェリルの表情が翳る。
「あの、蝶々さん?」
「何でしょうか?」
蝶々がシェリルの頭を撫でる。
「そろそろ、頭の方を離して欲しいかなと……」
「ああ、ごめんなさい。すぐに終わらせますから」
蝶々がシェリルの頭を撫でる。もう片方の手でシェリルの頬を撫で始める。
「あ、あの、すぐにって――」
「シェリルさん、可愛い」
拘束するようにシェリルの頭と頬を撫でる。蝶々が妖しく笑う。
顔が近づいていく。シェリルの笑顔が恐怖に塗り変わっていく。
「シェリルさん」
「ちょ」
「――味見していいですか?」
シェリルの上げた短い悲鳴は、誰の耳にも届かなかった。
同時刻。
岩屋町上空。
風が笑っていた。
正確には、一人の少女がさも楽しげに上げる笑い声が周囲に吹き荒ぶ風に乗り、その風が辺り一帯に流れてその声を伝播していったのだった。
「……やかましいったらない」
そんな鬱陶しい風を全身で受けながら、ツェッペリンは顔色一つ変えずに空の上にいた。翼をはためかせて腕を組んで片足に体重を乗せるように体を傾けながら、風を纏ってツェッペリンと同高度に滞空し、笑いながら四方八方に気流を撒き散らす少女をじっと見つめていた。
その風と笑いの主――メア・オクトフェストはそうして一頻り笑った後、それまで関節が外れんばかりに開けていた口を閉じて、風はそのままに興味津々といった体でツェッペリンを舐めるように見つめて言った。
「いやー、面白い。まさかこっちに来て『本物』を見るなんて、こんな面白い事に会えるなんて思ってもなかったよ」
「……そうか。喜んでくれて何よりだよ」
「いや、冗談抜きで本当に良かったよ。何せレビーノじゃ禁術扱いされる術を、こっちの世界の人間が何の躊躇いもなしに実行する所を生で見れたんだからさ……魔族と合体してお姉さんは怖くないの?」
「ああ。それほど怖くはないな」
「そうなんだ。あはは! こっちの世界って不思議だな、本当に退屈しないなー!」
そうして嘲笑ではない普通の好奇心から来る笑い声を上げた後、途端にその顔を寂しげな物にしてメアが言った。
「だからさ、そんなお姉さんを倒すの、こう見えても『嫌だな』って本気で思ってるんだよ、私?」
「それは私が面白いからか?」
「勿論それもあるけどさ、やっぱりお姉さんは命の恩人な訳だし? それなりに引け目とか感じてるんだよ」
「ならどうしてそこまで勝負に拘る。先方に何か義理でもあるっていうのか?」
「……そりゃああるよ」
メアが表情を引き締める。それまでの無秩序さが嘘のように指向性を備えた風が一斉にツェッペリンを凪ぐ。
「私もキリカ派の人間だし、こっちに派遣されたからにはそれ相応の結果も残さないと駄目だし……それに」
「それに」
メアが掌を開いて両手を前へつき出す。その肘から手にかけて音を立てて風が収束していき、渦を描いて巻き付いていく。
「私も魔族嫌いだし」
渦巻く風の手甲を身に纏いながら、メアが満面の笑みを浮かべた。
ツェッペリン――真弓とメアの関係は、この時より四時間ほど前より始まっていた。
何のことはない。飲まず食わずでフラフラだったメアを、見兼ねた真弓が自分の店に上げて食事を振舞ったのだ。
この時真弓は、彼女の垂れ流す魔力の残滓から、メアが魔導士であるとぼんやりながら推測していた。そしてメアもまた、真弓の体にこびりついた魔力を認知し、それが誰のものかはわからないまでも彼女が魔法と何らかの関わりを持つ人物であると直感していた。
「お姉さんってさ、魔法使えたりするの?」
食事を済ませてお礼を言い終えた後、メアは小細工抜きでストレートに尋ねた。余りにもストレートすぎる質問だったので真弓は苦笑しながらも、隠すことでもないので正直に答えた。
「やっぱり! 実は私も魔法使いなんだよねー!」
冗談言うなと真弓は返したかったが、掌に湯呑みほどの大きさを持つ竜巻を生み出したメアを見て、真弓は浮かべかけた笑みを引っ込めざるを得なくなった。
そして互いに自己紹介をしたのだが、真弓が融合体である事をバラした瞬間、メアの眼の色が変わった。
「ああ、お姉さんが目標だったんだね」
敵意と一抹の寂しさを混ぜあわせた瞳を見て、真弓は目の前の少女が何者であるかを知った。
ツェッペリンへの融合の場面をメアの前で見せたのは、それを見たいと彼女がゴネたからだった。断る理由もないし一瞬で終わることだったので、夜になってからノワールを呼びつけ、屋上でそれを行うことにした。
合体自体のプロセスは非常に単純な物だった。魔族が自身の中に眠る魔力を開放して光の中に自らを包み、自身を魔力に応じた光を放つ球体とする。それは魔族のみが行える呪文の詠唱を必要としない特殊な術式であり、ノワールの場合は赤く輝く球体となった。後は人間がそれを体内へ取り込めば完了である。
取り込むこと自体も難しいものではない。それを腹に押し当てれば、勝手に体内へと沈んでいくのだ。後は流れに身を任せ、肉体の変化が完全に完了するのを待てばいい。
そうして融合を済ませ、赤と白の体躯を持つツェッペリンを前に、メアは予想以上の迫力と満足感のあまりに笑い出してしまったのだった。
閑話休題。今に戻る。
「雄々しき空よ、風なる刃となりて彼の者を切り裂け!」
メアが叫び、右手を振り上げる。それに応じて緩やかに弧を描いた風の刃が一つ、ツェッペリンに向かって空を奔った。
自身の身長の半分ほどの大きさを持つ白い刃がぐんぐん迫る。ツェッペリンは動くこと無く、それを片手で振り払う。
刃が形を失い、ただのそよ風となって辺りに四散する。その残滓がツェッペリンの髪やスカートを揺らしていく。
予想以上に重い。腕の骨が軋み、ツェッペリンが顔を歪ませる。
「ハッ! 流石に一個じゃ勝てないか!」
嬉しそうにメアが叫び、眼前で腕を交差させる。
「風なる刃よ! 舞え!」
両腕を同時に、力いっぱい振り払う。
何十、いや何百もの刃の大群が瞬時に生み出され、メアの前面を覆い尽くす勢いで展開される。
メアが指を鳴らす。それらが同時に、猛然とツェッペリンへ襲いかかる。
「虎穴に入らずんば!」
だがツェッペリンは退かなかった。それどころか、自分から刃の群れの中へと突っ込んでいった。
突進直後に体を包むように翼を前に展開し、先端の閉じきっていないラグビーボールのような形になった状態で回転を加え、恐れること無く刃に正面からぶつかる。
「ウソ!?」
メアは自分の目を疑った。
高速回転するツェッペリンが襲い来る刃の群れを次々と蹴散らし、ぐんぐんこちらに近づいていくのだ。ツェッペリン自体の体にも切り傷が出来ていたが、それは出血とは無縁の、ちょっと引っ掻いた程度の微々たる物だった。
非常識だろ。自分のことを棚に上げておいてメアは心底驚くと同時に、頭の中で次の作戦を既に編み出していた。
「風よ!」
メアが両手首の付根をくっつけるようにして両手を重ね合わせ、前に突き出す。
「刃よ! 鎌よ! 空なる鎌よ! 彼の者を切り裂け!」
周りの風が一点に収束し、それまでの風の刃よりも一回り巨大な風の鎌がメアの両手を起点にして生み出される。
ツェッペリンが肉迫する。メアが鎌を両手で受け取り、上段に大きく振りかぶる。
特攻してくるツェッペリンにその刃をぶち当てる。
電車が急ブレーキをかけた時に出すような、鼓膜をつんざく甲高い音が轟いた。
メアが苦悶の表情を浮かべる。今すぐにでも鎌を手放して耳を塞いでしまいたいくらいだ。
が、やがてツェッペリンの回転が緩み始める。しめたとばかりにメアが鎌を握る手に力を込め、力任せに鎌を下ろし切る。
刃が翼とかちあい、その翼に一直線の傷をつける。
「――!」
たまらずツェッペリンが回転を止め、大きく後ろへ飛び退く。そのメアから見て左の翼の背には、生々しく刻まれた直線から赤黒い血がにじみ出ていた。
「やれやれ、ちょっと足りなかったか」
「当たり前だから。アレだけの刃を返り討ちにしただけでも凄いってのに」
残念そうに呟くツェッペリンに呆れながらメアが返す。そして鎌を右手で持ち直し、左手を顔の位置に来るように折り曲げてツェッペリンを凝視する。そんなメアに対して、感心したようにツェッペリンが言った。
「それより、お前の魔法は中々に面白いな。他に何かできないのか?」
「冗談やめてよー。私、本当は戦いとか言う面倒くさい事したくないんだからさー。これ以外に他に出来る事なんてある訳ないじゃない」
「本当か? 怪しいものだ」
事実だった。鍛錬をサボりまくっていたメアは、高い魔力を持ちながらも風の刃と鎌を生み出すことしか出来なかったのだった。
しかし尚も半信半疑な目線を投げかけてくるツェッペリンに、その顔を見つめながらメアは肩をすくめて言った。
「お姉さん、酷い。私の事信じてないんでしょ?」
「当たり前だ。何せ今の私は半人半魔。お前が嫌ってる捻くれ者の魔族の血も入っているんだからな」
「ああ、そういえばそうだったね……ああ、お姉さんの純血が穢されていく!」
「気持ち悪い物言いはやめろ――」
「――ん?」
ツェッペリンを見ていたメアが、不意にある事に気づいた。それはほんの小さな表情の変化、注意深く見なければ気づかない物であり、それにメアが気づいたのは全くの幸運であった。
「あれ、お姉さん、ひょっとして……」
「なんだ? 私がどうかしたのか?」
そこに映るのはいつも通りのツェッペリン。あれは見間違いだったのか、メアは考えたが、すぐに止めた。
その変化の意味は、どっちみち戦ってればわかることだからだ。
「ううん、なんでもない。それより、続きしましょ?」
話を打ち切るように、メアが左手に纏った風の渦の回転を速めていく。それを見たツェッペリンが小さく笑って言った。
「私に刃は効かないぞ。お前もわかっているはずだ」
「そうかな? やってみないとわからないよ?」
「なら好きなだけやってみろ。すぐに無駄だとわかる」
「仰せのままに――空なる刃よ!」
左手を振り払い、刃を四つ、連続で生み出し撃ち出していく。
間隔が短い。振り払っていると間に合わない。
ツェッペリンが顔を伏せて両手を交差させ、それを全て受け止める。
腕がか細い悲鳴を上げる。
そよ風を全身に受ける。風の気配が消える。
そして視線を上げて交差させた腕の隙間から前を見た時、
「ほら、やってみないとわからない」
その眼前には鎌を振り上げたメアの姿があった。
肌が裂かれる音というのは、存外に静かな物だった。
戦闘シーンより蝶々さんのシーンの方が書くの楽しかった(殴
次はレイスの場面に戻ります。丸々戦闘回です。
次回「ボンバー」
撃ちます撃ちます




