幕間「ルカの人間観察・後編」
かつて、ルカの周りには二種類の人間しかいなかった。
自分の味方と、敵である。
そんな環境にいたからか、ルカは人間に対してそれほど深く考えたことは無かった。
人間にも色々な性格の者がいること。個性を持っているということを、いつの間にかルカは無意識に失念するようになっていた。
その事実に気づいたとき、ルカは頭が真っ白になる感覚を味わっていた。
少し前まで持っていたはずの買い物袋。しっかりとお使いを済ませ、レジに運んで会計も通った、「やればできる」という自分の成果の証。
それが消えていた。
手元から。
さっぱりと。
「え……え……?」
ゆっくりと立ち上がり、生気の抜けきった目で呆然と両手を眺める。
あるべき物が、そこには無かった。
何が原因であるのか、ルカは既に把握していた。
ひったくりだ。
「まさか、まさか私が……」
まさかそれの被害をまさか自分が受けるとは思ってもいなかったので、こうしてルカは想像以上の精神的なダメージを受けていたのだった。
「どうしよう……もうお金は持ってないし、かと言ってこのまま手ぶらで帰る事も出来ないし……」
その場に立ち尽くしてぶつぶつと呟く。
ルカは己の運命を呪った。
それから散々逡巡した結果、ルカはそのまま、手ぶらで帰ることにした。
ひったくりの相手は既にどこかへと消えてしまっていた。追いかける余裕もなかった。
大悟たちには、起こったことを正直に話すしかない。そう考えながら、ルカは帰り道を一人寂しく歩いていた。
やがて交差点に差し掛かる。そこは道中の中では比較的人や車の往来が激しく、しっかりと信号を守らなければひかれてしまうような場所であった。
「……ん?」
ルカがそれに気づいたのは、赤信号のために横断歩道の前で立ち止まった時だった。
自分の横を通るようにして、腰を曲げた一人の老婆が前へと進んでいく。
信号は赤のままだ。多種多様な車たちが、未だ我が物顔で道路を行き来していた。
五感が衰えているのか、老婆は何も気づいていない様に見えた。
「ま、待って」
それはお節介なほどの優しさの発露。ルカがその肩を掴んだのは無意識のことだった。
老婆が立ち止まり、びっくりしたようにルカの方を振り向く。その老婆に優しく微笑みながらルカが言った。
「まだ赤信号だから、危ないですよ」
その老婆は目を白黒させてルカの方を見つめ、そしてゆっくりと信号の方へ首を回す。
信号灯はまだ赤かった。
「ああ、いえ、そんなお礼を言われるほどの事はしてませんよ」
信号を確認してからやたら小さい声で感謝の意を伝える老婆に、ルカが笑いながらそう返した。そして信号が青になると、その見知らぬ老婆の手を取ってルカが共に横断歩道を渡り始めた。
横断歩道を渡りきって老婆と別れるまでの間、ルカはお使いの事をさっぱりと忘れていた。
渡った後、老婆はもう一度、ルカに小さい声で感謝の言葉を伝えた。
誠実なその態度に、ルカは強い親しみを感じた。
それまでさっぱり忘れていた反動なのか、老婆と別れ、歩道と車道を柵で区切られた道路の細いを歩道の上を、ルカはこれまで以上に陰鬱な気分に陥っていた。
「はあ……ああ……」
帰りたくないと言う気分が心を支配し、自然と足取りも鈍くなる。だがその体は、ゆっくりながらも確実に彼女の居候先に向かっていた。
時間切れは近い。その事はルカが一番よく知っていた。
「はあああ……」
だからこそ歩みも遅くなる。
そうやって道幅の細い一本道を歩いていると、目の前から自分の事を呼ぶ声が聞こえてきた。
「あら、ルカさんではないですか」
「あ――」
声のする方を向く。
蝶々だ。
薄桃色の布地に白い蝶の刺繍を施した着物を身に纏い、手に麻布で出来たハンドバッグを提げ、ゆったりとした足取りでルカの元へと近づいていく。それは洋装で固められた周りの光景に比べて酷く浮いた立ち姿であったが、同時に俗世とは一線を画した、天女のような光輝く存在感をも放っていた。
そしてそんな浮き世離れした出で立ちの蝶々が、ルカの所へ一直線に進んでいく。ルカは軽い目眩を覚えた。
「ルカさん、お久しぶりですね」
「あ、はい。お久しぶりです」
「元気にしていましたか?」
「まあ、その、お陰様で……」
どこか歯切れの悪い、陰鬱な返事をするルカに、蝶々が不審そうな目を向ける。
「あのどうかしましたか? 何か困っていることでも……?」
「ああ、ええっと、それは……」
指をこねあわせて言いあぐねているルカの頭に、蝶々がそっと手を乗せる。そして優しくルカの頭を撫で始めたのだが、それは相手を子供扱いしているのではなく、純粋に相手を思っての行為であった。
「何かお困りのようでしたら、私がお聞きしますが……それとも、このようなお節介はお嫌でしょうか?」
「うっ……」
頭を撫でながら蝶々が尋ねる。その掌を通して頭頂から全身へと広がる暖かな慈愛の気持ちと、憂いを湛えた悲しげな視線の前に、ルカは屈服せざるを得なかった。
「なるほど、そのような事が……」
それから二人は、通りを外れた脇道の所にある小さな公園のベンチに腰掛け、そこでルカは自分の置かれた境遇を滔々と蝶々に話したのだった。
「なるほど、ひったくりに……それは災難でしたね」
「本当に災難ですよ。私は塩と小麦粉を買っただけなのに、どうしてあの人は、よりにもよって私を狙ったんでしょう?」
「犯人の心理は、犯人にしかわからないものです。あなたを狙ったその人だって、その時はお塩だけが必要だったという可能性もありますし、ただ単純にその時ひったくりがしたかっただけという可能性だってあるのです」
「そんな理由でやっちゃう人って、いるんですか?」
「悲しい事ながら、人間の中にはそう言う思考の者が少なからずいるのです。それこそ、ずっと昔の頃から……」
「?」
蝶々の口振りにルカはどこか引っかかる物を感じたが、この時のルカには、それよりももっと引っかかっていた事があった。
口調の事は後回し。恐る恐るといった感じで、ルカがもう一つの疑念について尋ねた。
「それより、あの、蝶々さん」
「はい。なんでしょうか?」
「……その、いつまで、頭……」
ベンチに横並びに座ってからずっと、蝶々はルカの頭を撫で続けていたのだった。
恥ずかしくて死にたくなってきた。
自分のしている事に今気づいたのか、慌ててその手を頭から離して蝶々が言った。
「あら、ごめんなさい。ルカさんが余りにも可愛くって、つい」
「か、可愛いって……」
一瞬顔を赤くするが、すぐに頬を膨らませて蝶々に詰め寄る。
「それ、私が子供っぽいって言う事ですか?」
「そんな、そうではありません。子供っぽいとかそう言う理由ではなく、私は本当の意味で貴女のことを可愛いと思っているのですよ?」
「本当の……?」
きょとんとするルカの頬を、蝶々の手が優しく撫でる。
「なんと言ったらいいのでしょう。女性らしいと言うか、魅力があると言うか……」
絹糸の束に頬摺りするような滑らかな感触、そしてその掌から伝わる温もりはその相手に絶対の安息をもたらす物だったが--ルカはこの時、安らぎではなく背筋に絶対零度の寒気を感じていた。
なぜだかわからない。ただ全身が、彼女の無意識が、大声で警鐘を鳴らしていたのだった。
逃げろと。
「ルカさん、本当に可愛い……」
「あ、あの、蝶々さん?」
「何百年も何千年も生きてきたけれど、貴女のような可愛い人に出会えたのは初めてです……ああ、長生きはするものですね……」
「え、え?」
両の瞳にギラギラと情欲の炎をたぎらせながら、蝶々が見る者を竦み上がらせるほどの危険な笑みを浮かべる。
自分に向ける蝶々の態度が何を意味するのか、ルカは本能のレベルでは既に察していた。しかしその笑顔が引き金となって、今やルカは理性のレベルで危機を察知し、本格的にアラートをかき鳴らしながら脳髄が慌ただしく活動を始めていた。
そして、殺される--いや、ある意味ではそれ以上に最悪の結果をルカの思考回路が弾き出し、脳内で激しく展開されていた。
逃げよう。
「ルカさん」
「は、ひゃい!」
不意打ちに近い呼びかけにルカの声が裏返る。そして腰を浮かせようとしていたルカの頬を両手で挟み込む。
尻が再びベンチに押しつけられる。
逃げられない。
八方塞がりの中、蝶々が聖母の如き甘く優しい口調で言った。
「食べていいかしら?」
血の気が一気に失せる。
ルカの口から悲鳴が漏れる。
「ひ――」
――意地でも逃げよう。
その決定が全会一致で採択される。
蝶々の実力は未知数。どこまで逃げられるかはわからない。しかし逃げなければ--酷い事になる。
そうして体を拘束している頬の手を払って全力で逃げようと覚悟を決めた--その直後、蝶々が自分からその手を離していったのだった。
「え」
ルカが間抜けな声を上げる。全身から寒気が一気に抜けていく。
「……なんて、冗談ですよ」
「じょ?」
「ごめんなさい。ルカさんがあまりにも可愛くって、ついイタズラしてしまいました」
「いたずら……」
寒気と共に力が抜け、軟体動物になったかのようにぐったりとベンチに身を預ける。
「いたずら……」
「はい。イタズラです」
「は、はは……」
そして身の安全を知った反動から、弛緩しきった筋肉を痙攣させるように、ルカはその場で乾いた笑い声を立てるだけだった。
その後の展開はとても単調な物だった。
ルカを怖がらせた罪滅ぼしとして蝶々が同行する形で、ルカは再びお使いをすることになったのだった。
今回は何の障害もなく上手く行った。最初の買い物で、ルカが間違えて砂糖と片栗粉を買ってしまっていた事も判明した。
だがルカの方は、そうして二人で買い物をしている間も、釈然としない風に表情を曇らせていたままだった。
「蝶々さん、ちょっといいですか?」
スーパーから出た帰り道、ルカは顔を引き締めて蝶々に尋ねた。
「はい、何でしょう?」
「あの、蝶々さん、さっきのことなんですけど、その……」
そこで言葉を濁し、どこか言いにくそうにして顔を俯かせるルカを見て、蝶々が小さく笑っていった。
「私は本気ですよ」
「え?」
「貴女のことを可愛いと思ったのも、食べてしまいたいと思ったのも、全て本気の、本心から出た言葉です」
「じゃ、じゃあ」
ルカの方を見て、どこか諦めたように小さい笑みを浮かべて蝶々が言った。
「――そういう性癖なんです。生まれた頃から」
「……ああ」
「貴女みたいな子を見ると、我慢が出来なくなってしまうんです。貴女から……普通の人から見たら、薄気味悪い事ですよね……あの時は怖がらせてごめんなさい」
「それは」
そんな事ない。断言できない自分が嫌だった。
蝶々に襲われかけた時、ルカははっきりと彼女を拒絶しようとしていたのだ。それなのに今更そんな事を言うのは、虫が良すぎる事であった。
「あの、蝶々さん」
だから、別れ際に、
「何ですか?」
「その……えっと……」
「……?」
「……また一緒に、お買い物しましょうね?」
別れ際に、そう伝えるので精一杯だった。
「隼さん」
「なんだ?」
無事お使いを終えたその日の夕食時。ルカはテーブルを挟み、どこか上の空といった体で隼に尋ねた。
「……人間って、不思議ですね」
「どうしたんだ、いきなり」
「いえ、何だか不意に、そう思っただけなんですけど……」
「そうか」
そう答えてから隼が味噌汁をすする。そしてお椀を置いて、再びルカの方を見ながら隼が言った。
「別に、いろんな人間がいてもいいんじゃないか?」
「どういう意味ですか?」
「自分の物差しだけで人間を量るなって意味だよ」
そこで切って、再び料理に箸をつける。ルカは物を食べる代わりに、隼の言葉の意味をじっくりと噛みしめていた。
いろんな人間がいる。
ひったくり。老婆。蝶々。
自分の周りにいる様々な人たち。
――魔族もそうなのだろうか?
そこまで考えて、ルカは思考を打ち切った。考えるには材料が少なすぎるし、何よりお腹が減った。
「ほら、早くしないと飯が冷めるぞ。早く食べないか」
今は隼の言葉に従うことにした。
白米を口に運びながら、ルカは今、自分がはっきりと人間に興味を持ち始めている事を自覚した。
「ところで、隼さん」
「今度は何だ?」
「いや、ダイゴの様子がおかしいと言うか、暗いと思ったんですけど……」
「ああ」
ルカの横でお先真っ暗と言わんばかりに顔を曇らせている大悟を見ながらルカが言った。俯く大悟を見ながら隼が平然と返す。
「何か悪いことでもあったんじゃないか? 例えば、そう……道に迷ったとか」
「道に?」
ルカを追う途中で信号に引っかかり、そこでルカを見失ったことで、大悟は傷心の身の上から隼から小言を愚痴愚痴言われながら帰って来たと言う事を、ルカは知る由もなかった。




