幕間「ルカの人間観察・前編」
「別に、そのくらい一人で出来るもん!」
大悟の家、そのリビングの中で、ルカの虚勢を張ったようにも見える声が朗々と響いた。
リビングにはテーブルを挟んで大悟と隼、そしてルカがおり、そしてたった今立ち上がったルカを残りの二人が座ったまま、怪訝そうな目つきで見上げていた。
「……本当に出来るの?」
「本当に出来るのか?」
半信半疑――いや、もはや殆ど疑いしか残っていない目つきを向けながら、大悟と隼がルカに言った。
「お前は気軽な物のように考えているようだが、はっきり言って、これは簡単なことではないぞ」
「そうだよ。ルカはまだこっちに来て日が浅いんだし、それにこの町の地理だって全部把握してないんでしょ?」
「ううう、それはそうだけどさ……でもどうにかなるもん! 絶対どうにかしてみせる!」
「どうしてお前はそう自信満々なんだ……?」
根拠のない自信を見せるルカに、隼が頭を抱える。それは大悟も同じ事だったが、そんな風に暗く沈んでいた二人に向けて、ルカが笑顔で言ってのけた。
「大丈夫だって! 私だって子供じゃないんだから、おつかいくらい簡単に出来るって!」
きっかけは前日の夕方過ぎの事だった。いつものように--もはや当たり前のように隼が台所に立って、そこで夕飯の準備をしていた時の事だった。
「あ、まずい」
不意に顔をしかめてそう呟いた隼に、それを不思議がった大悟とルカがリビングから首を伸ばして彼女に尋ねた。
「隼さん、どうしたんですか?」
「包丁で指切ったとか?」
「いや、そうじゃない。それよりもっと深刻な事だ」
「?」
意味が分からず首を傾げる二人に、隼がため息混じりに言った。
「……醤油が切れてしまった」
「うわあ……」
醤油は日本人にとって最もポピュラーな調味料である。ただ単に料理に味を付けるだけでなく、料理の味を調えたり、隠し味として料理の中に数滴垂らし、味にアクセントをつける事も出来る。
まさに醤油は日本の誇る万能調味料の一つであり、故に料理に聡い純日本人である大悟とこちらに来てから日本料理のイロハを知ったルカは、隼の嘆息の理由を痛いほど知ることが出来たのだった。
「まいったな。これでは満足に物が作れん」
「別の物で代用とか、出来ないんですか?」
「出来ないこともないが、やりたくはないな。醤油のない料理など、もはやそれは料理とは言わん。全く別の何かだ」
「そうなんですか?」
「そうだ。醤油は唯一無二の存在だ。誰にも、何にも、それの代役を務め上げる事など出来ん。決して出来ないんだ」
ルカの提案に隼が目に見えて渋い顔を浮かべ、そして声高に宣言する。偏屈なほどに醤油への拘りを見せる隼だったが、それは二人にとって理解不能な物ではなかった。
醤油の万能性は、二人もよく知る所だったからだ。
「じゃあ、俺が買いに行ってきましょうか?」
そんな状況を見かねて、大悟が隼に言ってきた。
隼の目の色が変わった。
「本当か!?」
「ええ。暫く暇ですし」
「ああよかった、ぜひ頼む! すぐ頼む!」
「は、はい、わかりました。わかりましたから包丁おいてください危ないんで」
包丁を持ったまま身を乗り出してきた隼にそう忠告してから、大悟が重々しく腰を上げる。そして一度自分の寝室に行って財布を取って来て再びリビングを経由して玄関へと向かう。
そして玄関口で靴を履き、いざ出発しようと扉を開けたその時、
「待って待って!」
後ろから声がした。ルカの声だった。
「私も! 私も行く!」
「ルカ?」
「私も一緒に行く! むしろ私一人で行きたい!」
「一人で? どうして?」
怪訝そうに尋ねる大悟に、ルカが不満そうに答えた。
「だって、こういう時っていっつもダイゴが率先してやるじゃない?だからたまには私に任せて、ダイゴはゆっくりしてってよ」
「……隼さんの役に立っていい所を見せたい?」
「うん。そうとも言える。悪い?」
隠すこともせず、自分から胸を張ってルカが言い切る。それに対して頭をかきながら大悟が言った。
「いや、別に俺は点数稼ぎのためにやってる訳じゃないんだけど……」
「わかってるわよ、そんなこと。でも私だって、役に立つ所を見せたいの。いつまでもおんぶにだっこってわけにも行かないし。ねえ、いいでしょ? 変わってよダイゴお」
「うーん……」
猫なで声で縋り寄ってくるルカを見つつ、大悟が困った声で隼に言った。
「隼さん、聞こえてましたか?」
「ああ、しっかり聞こえてたぞ」
「……どうしましょう?」
「ああ、それはだな……」
「私、忘れてませんから。あのとき断られたこと忘れてませんから」
「仕方ないだろう。あの時のお前は来たばかりで、この世界の事なんかまるでわかっていなかったんだから。途中で道に迷ったり、知らない誰かに絡まれたりしたらどうするんだ」
「大丈夫ですよ。その時は自分で何とかしますから」
まるで気にしてもいないとでも言うようにルカが返す。隼はどうしようもないと言うように頭を抱えた。だがそんな事などお構いなしと言う風に、ルカがずいと身を乗り出して隼を見ながら言った。
「とにかく、私だってもうこの世界の事にはだいたい慣れてきたんだし、もう一人でも歩けますから。だから隼さん、ね?いいでしょう?」
「いや、だからってルカ、さすがにまだ一人は……」
「わかった」
なおも渋る大悟の言葉を遮るように隼が言った。目を光らせるルカと目を見開いて驚く大悟を交互に見やりながら、半ば捨て鉢に隼が言った。
「お前がそこまで言うならもう止めはしない。次の買い物にはお前一人で行ってもらおうか」
「やった! 任せてください!」
「ただし、途中でいかなる災難が降りかかろうとも、全てお前一人で対処すること。私たちは手を出さない。必ず自分一人で解決しろ。わかったな?」
「もちろん、そっちの方も任せてください!」
威圧するように釘を差す隼だったが、ルカはそれに怖じ気付く事なくはっきりと返す。
「……大丈夫かなあ」
いつもならばとても頼りになるその底なしの明るさは、今の大悟にとってはとても危うい物として映っていた。
と、言うわけで、ルカはいま家を出て、一人で近くのスーパーへとお使いに向かっていたのだった。
今回の目的は、ちょうど切らしていた塩と小麦粉の調達。舞台となるスーパーは、大悟の家から歩いて五分ほどの場所にあった。
《道中で障害となるのは、やはり信号と交差点だろうな》
そんなルカの姿を見ながら、隼が頷いて言った。
直接ルカの姿を見ている訳ではなかった。隼は今、家にあるパソコンと接続された装置を起動し、監視衛星とリンクさせて上空からの俯瞰視点からルカの姿を見つめていたのだった。
背後からバレないように、直接ルカを見つめていたのは別の人間の役割だった。
《途中で嫌と行うほど言い聞かせてきたから特に問題はないと思うが、それでもやり、ルカにとってここは異世界なんだ。どんな不都合が起きても不思議じゃない》
「言いたいことはわかるんですけど……隼さん、これちょっとやりすぎじゃないですか?」
電信柱に体半分を隠し、鼻歌交じりに細い道を行くルカの背後を見つめながら大悟が言った。その大悟の耳には本来ならルイが身につけているヘッドセットが装着されており、それを使って自宅にいる隼と会話していたのだった。
今の大悟の姿はストーカー以外の何者でもなかった。だがその道は町の中心部から離れているために人通りが少なく、時間帯によっては全く人や車が見あたらないような道であったために、彼を咎める者は今ここに存在しなかった。
それでも大悟の心は後ろめたさでいっぱいだった。
「俺、正直こんなのやりたくないんですけど。誰が好き好んでストーカー紛いの事なんか……」
《我慢しろ。これもルカの事を考えての行動だ。もし万一ルカに何か起こったとして、その時にあいつを支えてやれる奴がいなかったらどうするつもりなんだ?》
「それ、ちょっと過保護すぎると思うんですが」
そう言ってから、何かを思い出したように大悟が隼に言った。
「そう言えば隼さん」
《なんだ?》
「隼さんって、俺たちに優しいですよね」
《な、なんだ。どうしたんだ、いきなり》
突然の事に目に見えて狼狽する隼に、大悟が続けて言った。
「いや、優しいのが嫌なんじゃなくて、むしろ嬉しいくらいです。俺たちにご飯作ってくれたり、勉強教えてくれたり、色々世話を焼いてくれる」
《……》
「凄い、嬉しいんです。まるで家族みたいな……お母さんが出来たみたいで」
そこで一度言葉を切る。隼は何も言わない。
大悟が続けた。
「でも隼さんって、本当は任務で俺たちの所に来てるんですよね? なのにどうして、他人の俺たちに、こんなに優しくしてくれるんですか?」
《……優しくされるのは、嫌いか?》
そこで漸く隼が言葉を発した。辛うじて、喉から捻り出すように放たれた言葉。
今度は大悟が狼狽する番だった。
「そんな! そんな訳ないじゃないですか! すっごい嬉しいです! 隼さんがお母さんでもいいかなってくらい、それくらい嬉しいです!」
《……ッ》
「……そうですよね。こんなに優しくしてくれるのに、その人を疑うなんて最低ですよね……ごめんなさい」
《……いや、いい。寧ろ、ここまでやっておいて、これまでお前たちが私の腹を探ろうとしなかったのを、自分でも不思議に思っていたくらいだからな》
「……ごめんなさい」
人の親切を踏みにじった気分になった。
後悔と羞恥で死にたくなる。
そんな思いの元で言葉を絞り出した大悟に、優しい--母が子に向けるような温かさを持つ言葉で隼が言った。
《……理由は、いずれ話す》
「隼さん……」
《お前たちに拘る理由も、全部。だからそれまで、私はお前たちの母親でいたい。一緒に生活したい――駄目か?》
今にも消え入りそうな、か細く弱い声。
そんな声を聞いて、断れるはずがない。それに、隼に母の影を求めていたのは大悟も同じだった。
「駄目なわけ、ないじゃないですか」
大悟の声も同じくらい微弱で、温もりに満ちていた。
「駄目じゃないです。それより、俺の方からもお願いしていいですか?」
《……》
「いつかは別れるかもしれない。全部終わったら離れ離れになるかもしれない。でもそれまでは……一緒にいてくれませんか?」
《……もちろん》
ヘッドセットの向こうから小さい笑い声が漏れ聞こえる。つられて大悟も笑みをこぼす。
そして僅かな笑い声の後、そこから聞こえてきたのは、完全にいつもの調子に戻った隼の声だった。
《さて、この話はこれでおしまいだ。早くルカを追うぞ。すっかり先に行ってしまっている》
厳しく、鋭利で、それでいて優しい。
そんな隼の声を何故かとても懐かしいものの様に感じながら、大悟がそれに答えた。
「はい、それじゃあ行ってきます」
《頼むぞ。途中でバレないように慎重にな》
「もちろん、任せてください!」
『母』の要求に、大悟が力強く頷く。
彼ら二人の絆は、こうして再びしっかりと結ばれたのだった。
大悟と隼が話し合っていた間、ルカは既に目的のスーパーまで到着していた。隼が障害と言っていた交差点さえ、ルカには何の問題も無かったようだった。
大悟はそのスーパーの角、入り口のすぐ脇に立っていた。さすがにこの辺りともなると人の往来も激しくなってくるが、今の大悟に自分の状況を省みるような余裕はなかった。
「ちゃんと着けたみたいですね」
《ああ。だが問題はこれからだ。あいつに買うよう頼んだのは塩と小麦粉だからな。しっかり区別してくれればいいが……》
「それフラグにしか聞こえないんですけど」
塩と小麦粉は、それこそ似たような粉類がゴロゴロしていた。特に砂糖と片栗粉は、それぞれ塩と小麦粉とはどこまでも似通った物となっている。
袋に書かれている文字を見ればどうという事もないが、それを見ないでカゴに入れたがために間違えてしまったと言う事は、隼も大悟もそれなりに経験した事象であった。
《まさか、ルカだって日本語は読めるんだぞ? さすがにそんなベタな間違いはしないだろう》
「いや、そうは言ってもさすがに……」
自分が日本の言語や常識を異常な速さで吸収していった理由は、ルイへの変身の際に大悟と同化したがために彼の持つ情報が自分の中に流れていったからだと、どこか得意げ話したルカの顔を思い出しながら隼が言った。
「文字は読めても頭の中に入るという事が無いと言うのもよくある話でしょう? 俺は不安なんですよ」
《それを言うなら私だって不安だよ……まあいい。とりあえず、中に入って様子を見てくれ》
「ええ、わか――」
そこまで言いかけて大悟が言葉を切り、とっさに建物の陰に身を隠す。いきなり会話が切れた事を不審がるように隼が言った。
《おい、どうした?》
「ルカが出てきました」
《もうか? 意外と速いな》
感心したように隼が言った。ルカが膨れ上がったポリ袋を下げているのを遠目に見ながら、それに頷いて大悟が返す。
「ちゃんと物も買えてるようですし、杞憂に終わった感じですかね」
《そうか。ちゃんと買い物も済ませていたか。だが家に帰るまでがお使いだ。最後まで気を抜くなよ》
「わかってますよ」
ルカが横から飛び出してきた人影とぶつかり、その場に尻餅をついたのは大悟がそう言った矢先のことだった。
「あ!」
《どうした!?》
「いや、ルカが知らない人とぶつかって、後ろに倒れただけなんですけど……」
《ルカは無事なのか?》
「はい、怪我とかはしてないみたいです」
《ぶつかった奴はどうした?》
「どっか行っちゃいました」
《そうか……》
大悟の応答を受けて、忌々しげに隼が呟く。だがその後に一つ咳払いをして気を取り直してから、隼が大悟に言った。
《まあいい。ルカが無事なだけで良しとしよう》
「それもそうですね」
《ああ。では引き続き、ルカの事を頼む》
その隼の言葉は大悟の耳には届いていなかった。このとき大悟は、全意識をルカの方に向ける視線に傾けていたからだ。
「……」
《……おい、どうした?》
反応のない事を不審に思い、隼が大悟に尋ねる。
何の反応もない。
《おい、大悟》
「……」
《大悟!》
「――!」
そこでようやく気づいたのか、大悟が女のような高い声で返事を返す。それを聞いて安堵と苛立ちを覚えながら隼が言った。
《おい、どうした? 聞こえているんなら返事くらいしろ》
「ご、ごめんなさい。その、ちょっと」
《どうした? 何かあったのか?》
「その……」
そこまで言いかけて言葉を喉に詰まらせるように大悟が顔をしかめていたが、やがてそれを吐き出すようにして隼に言った。
「ルカの手元に無いんです」
《何が?》
「袋が」
《袋?》
「ルカの買っていた物が引ったくられたんですよ!」
朗々たる隼の叫びが大悟の耳を強烈につんざいた。




