第十六話 完成と文化祭
文化祭の前日、映画は完成した。
黒澤瞬は、最後の書き出しボタンを押したあと、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。
進捗バーがゆっくり進んでいく。
五パーセント。
二十パーセント。
五十パーセント。
その間、部屋にはパソコンのファンの音だけが響いていた。
何度も見た映像だった。
階段。
歌声。
非常階段の夕日。
夜の学校。
屋上。
カノンの歌。
ラストの空。
もう、どこにどのカットがあるか覚えてしまった。台詞の間も、風の音も、自分のぎこちない横顔も、全部知っている。
それでも、完成版として書き出されていくのを見ると、胸の奥が変なふうに熱くなった。
百パーセント。
画面に表示された。
```
書き出しが完了しました。
```
瞬は息を吐いた。
「できた……」
小さな声だった。
でも、確かに言った。
すぐにグループチャットへ送る。
「完成した」
最初に返事をしたのは、小津仁晃だった。
「本当に?」
次に北野ライカ。
「データ確認したい」
少し遅れて、市川カノン。
「お疲れさまです。見たいです」
瞬は完成版の動画ファイルを共有フォルダに上げた。
ファイル名は、最後まで悩んで、結局これにした。
```
屋上の歌_完成版.mp4
```
数分後、仁晃からメッセージが来た。
「タイトル、完成版なんだ」
ライカが続ける。
「最終版じゃないのがいい」
カノンも送ってきた。
「完成版、少し緊張します」
瞬は笑った。
「もう修正しない。たぶん」
すぐにライカから返ってきた。
「たぶん?」
「絶対しない」
そう送ってから、瞬は椅子にもたれた。
完成した。
でも、まだ終わっていない。
明日、文化祭で上映する。
誰かに見られる。
その事実が、編集の孤独とは別の怖さを連れてきた。
翌朝、学校はいつもとまるで違っていた。
校門には文化祭の看板。
廊下には装飾。
教室からは焼きそばの匂いと、段ボールを切る音と、誰かのはしゃいだ声があふれている。
瞬たちの上映場所は、視聴覚室だった。
映画研究部があるわけでもない学校で、自主制作映画の上映など珍しい。佐伯先生が文化祭実行委員に掛け合ってくれた結果、空き時間の視聴覚室を三十分だけ使えることになった。
上映は午後二時。
たった一回。
それでも、十分だった。
視聴覚室に入ると、すでに仁晃が来ていた。
机の上に上映用のノートパソコンを置き、プロジェクターとの接続を確認している。
「早いな」
瞬が言うと、仁晃は画面から目を離さずに答えた。
「映らなかったら終わるから」
「怖いこと言うな」
「だから確認してる」
ライカもすぐに来た。
首から一眼レフを下げている。
「今日は撮らなくていいだろ」
瞬が言うと、ライカは真顔で答えた。
「上映会の記録」
「なるほど」
「あと、みんなの顔」
「俺、変な顔してたら消して」
「いい写真なら嫌」
「前にも聞いた」
最後にカノンが来た。
制服の上に、クラス出し物用の小さなリボンをつけている。少し緊張した顔だった。
「おはようございます」
「おはよう」
瞬が返す。
「今日、歌のところ、変じゃないか心配で」
「昨日完成版見た?」
「見ました」
「変だった?」
「自分ではわからないです」
ライカが言った。
「変じゃない」
仁晃も頷く。
「むしろ、あの歌がないと成立しない」
カノンは少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
瞬はスクリーンを見上げた。
まだ何も映っていない白い幕。
数時間後、ここに自分たちの映画が映る。
そう思うと、急に手のひらが汗ばんだ。
午後二時前。
視聴覚室には、思ったより人が集まった。
佐伯先生。
演劇部の部長。
写真部の幽霊部員らしき男子。
カノンの友人たち。
クラスメイトが数人。
文化祭を回っていた下級生。
そして、瞬の祖父。
祖父は一番後ろの席に、少し照れたように座っていた。
「じいちゃん、本当に来たんだ」
瞬が小声で言うと、祖父は笑った。
「上映会なら見ないとな」
「変でも笑うなよ」
「俺の映画の方がよほど変だった」
「それはそう」
上映五分前。
瞬は前に立った。
予定では、簡単な挨拶をすることになっていた。
でも、用意した言葉は全部どこかへ飛んでいた。
視聴覚室のざわめきが、少しずつ静まる。
瞬は深呼吸した。
「えっと」
声が少し震えた。
「短編映画『屋上の歌』を上映します。高校三年の春に、映画を撮りたいと思って、友人たちに協力してもらって作りました」
仁晃が少し下を向いている。
ライカはカメラを構えていない。
カノンは脚本を持っていない。
みんな、ただそこにいた。
「下手なところもあると思います。でも、最後まで作りました。見てください」
瞬は頭を下げた。
明かりが落ちる。
スクリーンに、最初の映像が映った。
階段。
歌声。
青年が足を止める。
視聴覚室が静かになる。
瞬は一番後ろの壁際に立って、スクリーンではなく客席を見ていた。
誰かが笑うのではないか。
退屈そうにスマホを見るのではないか。
そう思っていた。
けれど、誰も茶化さなかった。
スクリーンの中で、少女が歌う。
青年が聞く。
夜の学校を歩く。
屋上で向き合う。
最後の歌が終わる。
青年が言う。
「君がここで歌ってたこと、俺は忘れない」
少女が答える。
「じゃあ、忘れないでください」
夕方の空。
カノンの歌。
画面が黒くなる。
タイトルが出る。
```
屋上の歌
```
上映が終わった。
数秒、誰も喋らなかった。
その沈黙が、瞬にはとても長く感じた。
最初に拍手したのは、祖父だった。
それに続いて、佐伯先生が拍手した。
演劇部の部長も。
カノンの友人たちも。
下級生たちも。
大きな拍手ではなかった。
映画館のような歓声でもなかった。
でも、ちゃんと届いた。
瞬は、息をするのを忘れていたことに気づいた。
隣で仁晃が小さく息を吐く。
ライカはスクリーンを見たまま、少しだけ笑っていた。
カノンは目元を押さえていた。
「泣いてる?」
瞬が小声で聞くと、カノンは首を横に振った。
「泣いてないです」
「泣いてる」
「少しだけです」
上映後、演劇部の部長が瞬たちのところへ来た。
「完成したんだ」
「はい」
瞬は少し緊張した。
「どうでしたか」
部長は少し考えてから言った。
「芝居は、正直まだぎこちない」
「はい」
「でも、最後まで見られた。何を撮りたかったのかもわかった」
彼女はカノンを見た。
「歌、よかった」
カノンが驚いた顔をする。
「あ、ありがとうございます」
「次に何か撮るなら、企画書を持ってきて。大会後なら、少し相談できるかも」
瞬は目を見開いた。
「本当ですか」
「次があればね」
そう言って、部長は去っていった。
佐伯先生も近づいてきた。
「よく完成させたな」
「ありがとうございます」
「黒澤」
「はい」
「何もないまま終わる高校生活じゃ、なくなったな」
瞬は答えられなかった。
代わりに、深く頭を下げた。
文化祭が終わるころ、四人は屋上へ続く階段の前に集まっていた。
屋上には入れない。
扉は鍵がかかっている。
でも、それでよかった。
ここから始まったのだ。
歌声を聞いた階段。
閉ざされた扉。
その向こうに、映画の最後があった。
「終わったね」
仁晃が言った。
「終わったな」
瞬が答える。
「映画、もう完成したんだよね」
ライカがカメラを抱え直す。
「完成版だから」
「最終版じゃないけど」
「もう修正しない」
カノンが小さく笑った。
「完成して、見てもらって……変な感じです」
「自分だけのものじゃなくなった?」
瞬が聞くと、カノンは頷いた。
「はい。でも、嫌じゃないです」
仁晃は扉を見上げた。
「僕も、自分が書いたものを人に見せた」
ライカが言う。
「私は、時間を撮った」
瞬は三人を見た。
それから、屋上の扉を見た。
「俺は」
少し考える。
「何もないって思ってたけど、何かあった」
それは、きれいな言葉ではなかった。
でも、今の瞬にはそれで十分だった。
その夜、瞬は祖父の家へ行った。
ノートパソコンを持って。
居間のテレビにつなぎ、完成した『屋上の歌』をもう一度上映した。
祖父は黙って見ていた。
最後まで。
画面が黒くなっても、しばらく何も言わなかった。
「どうだった?」
瞬が聞く。
祖父は少し笑った。
「気恥ずかしいな」
「俺の映画なのに?」
「そうだ。お前の青春を見せられるのは、気恥ずかしい」
瞬は笑った。
祖父も笑った。
「でも、よかった」
その一言だけで、瞬は十分だった。
帰り道。
夜の風の中、自転車を押しながら、瞬は空を見上げた。
映画は完成した。
文化祭で上映した。
拍手をもらった。
それで何かが劇的に変わったわけではない。
進路が決まったわけでもない。
急に何者かになれたわけでもない。
でも、もう「何もない」とは思えなかった。
カメラの中に。
パソコンの中に。
みんなの記憶の中に。
確かに残ったものがある。
翌日、グループチャットにライカが写真を送ってきた。
文化祭上映後の四人の写真だった。
視聴覚室の前。
少し疲れた顔で、でも笑っている四人。
瞬はその写真を保存した。
仁晃がメッセージを送る。
「次、何撮る?」
瞬は画面を見つめた。
すぐには返信しなかった。
でも、胸の奥で何かがまた動き始めるのを感じていた。
映画づくりは終わった。
でも、映画を撮りたいという気持ちは、終わっていなかった。
瞬は少し笑って、返信した。
「まずは反省会」
ライカが返す。
「上映会の写真も整理する」
カノンも続ける。
「歌も、ちゃんと録り直したいです」
仁晃が送る。
「じゃあ、まだ終わってないね」
瞬はスマホを握ったまま、夜の道を歩いた。
そうだ。
青春の一ページは、完成したら閉じるものだと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
一ページ書いたら、次の白紙が見える。
瞬は空を見上げた。
どこか遠くで、あの歌がまだ聞こえる気がした。
忘れないで。
ここにいたこと。
この空に歌ったこと。
黒澤瞬は、もう一度歩き出した。
次の一ページへ。




