番外編 父の悩み
エイプリルフールということで考えた番外編です。
リリー・メイが朱威竜の屋敷に引き取られた後、最初の四月一日の模様を朱威竜視点でお届けします。
朱威竜が帰宅すると、妻たちと娘たちが揃って出迎えた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
口を揃えたのは第一夫人の香蘭と第二夫人の金蓮。穏やかな微笑みを絶やさない香蘭と、夫の姿に喜びを露にする金蓮と。いずれも美しい彼の自慢の妻たちだった。
「父様、ずっと待っていたのよ!」
「玉蓮、先にご挨拶をなさい」
長女の玉蓮が彼に駆け寄ろうとして、すかさず実母の金蓮にたしなめられる。すると玉蓮はちろりと赤い舌を覗かせて、改まって恭しく礼をとった。
「お帰りなさいなさいませ、父様。今日もお疲れ様でございました」
「ああ。今日は二人で来ていたのだな」
金蓮と玉蓮とは普段は別邸に住まっているのだ。玉蓮は丁寧な口調と態度を一瞬で脱ぎ捨てると、破顔して大きく頷いた。
「ええ。暖かくなってきたからみんなで莉麗の衣装を考えていたのよ」
そこでもう一人の娘の莉麗――長く離ればなれだったのをつい三ヶ月ほど前に引き取ったばかりだ――に目を向けると、彼女ははにかんだように微笑んだ。
「おかえりなさいませ、おとうさま」
「ああ、ただいま」
まだたどたどしい華語に思わず笑みが浮かぶ。言葉を覚えたての子供が懸命に訴えているようで大変に愛らしいのだ。華語には外語にない発音があることもあって、莉麗の喋り方は舌足らずに聞こえるから尚更だ。
だがいけない、と自分を戒める。莉麗は慣れない華語に苦労しているだけで、年相応に、いや彼女が経験してきたことを思えばそれ以上に深く物事を考えている。
言葉が拙いのを見て喜ぶようではいけない。それでは金蓮を侮り、翡蝶――莉麗の実母――を勝手に哀れんだ外来戸どもと同類になってしまう。
だから彼は下の娘に問いかけた。
「今日は何をした? 欲しい衣装は決まったか?」
莉麗が華語を覚えるのを助けるため、毎日何があったか、何をしたかを説明させるのが最近の習慣になっているのだ。
まだ考えるのと同じ早さでは喋ることができないのだろう、莉麗はゆっくりと、節ごとに区切るように答えた。
「今日は太太たちに包子のつくりかたを教えてもらいました。ふつうのと……いろいろな形の包みかたを。皮のいろもたくさんです。例えばほうれん草の緑のとか」
「晩餐に出しますから楽しみにしてくださいね」
香蘭が横から言うと、莉麗は恥ずかしそうに頬を赤く染めた。
「あんまりキレイじゃないけど……」
「娘が作ったのだ。それが何より嬉しいものだ」
威竜は莉麗の頭を撫でた。三ヶ月前は目を覆うほどだった火傷も、ためらいなく触れることができる程度には癒えていた。それもまた、彼には嬉しいことだった。
晩餐に供された包子は、確かに様々な形をしていた。基本の包み方でも幾つか種類があるものだし、中には花や鳥、魚などを模したものまである。皮も野菜などで鮮やかに染めてあるため、皿の上に絵が描かれているようだった。中の餡もそれぞれ違った味が入っているのだろう。
「金蓮はやはり腕が良い」
「ありがとうございます、旦那様」
妻への礼儀として一際整って繊細な出来のものを最初に口に運ぶと、金蓮は嬉しそうに胸の前で手を合わせた。
「莉麗が包んだのはそれよ。私はそっち」
「味はおいしいとおもうの。餡は太太が作ってくれたから……」
娘たちが口々に言うのに勧められて箸をのばすのは、それぞれの作品とおぼしき包子。玉蓮が作ったのはごく基本的な形のもの。金蓮は娘が基本を完璧にものにするまで飾り包みを教えるつもりはないらしい。そして莉麗のものは明らかにいびつだったので、言われるまでもなくそうと知れた。
「玉蓮は一段と上手になった。莉麗も、初めてなのによく頑張った」
「ほんと!?」
「よかった、嬉しい……」
顔を綻ばせる娘たちを前に、威竜も頬が緩むのを止められない。広い卓上には、主一家の晩餐に相応しく料理人が腕を振るった品々が並んでいたが、もちろん彼にとっては妻子の手作りに勝る一品はなかった。
そして晩餐を終え、食後の茶を囲んでいると、玉蓮が真剣な表情で威竜に話しかけてきた。
「父様。待っていたって言ったでしょ」
「ああ」
「大事な話があるの」
「……何だ?」
玉蓮につられて威竜も思わず居住まいを正す。
この数ヶ月、莉麗にばかりかまけていた。玉蓮も妹ができて喜んでいたようではあったが、何か心に溜め込んだことがあったのだろうか。実母と離して育てたことも、纏足をさせなかったことも。いずれも娘のためとは思っているが、それでも玉蓮には辛いことに違いなかったのだ。
だから、姉妹で分け隔てをするようなことは決してすまいと、彼は心に決めていた。
「私、結婚したい人ができたの」
「何!?」
しかし玉蓮の放った言葉の余りの衝撃に、彼は持っていた茶器を卓に叩きつけ、菓子の載った皿を宙に躍らせた。
「誰だ!?」
悲鳴にも似た詰問と共に浮かんだのは、社交で娘に引き合わせた何人かの青年、それに、莉麗との縁で付き合いが始まった租界の少年の顔だった。
しかし玉蓮はすぐに答えず恐らくわざとゆっくりと茶で口を湿し、父親を大いに焦らせた。
「父様の知らない人よ。でも、好きなの」
そして満面の笑顔で告げられた答えは、彼の不安と苛立ちを掻き立てるばかりだった。
「金蓮は知っているのか」
二番目の妻に目を向けると、困ったような表情で首を振った。
「いいえ、旦那様。……許してやってはくださらないのでしょうか」
「まさか」
彼が口を開く間もなく、穏やかな態度と表情を崩さない香蘭が断言した。
「莉麗は好きな人と結婚するのですもの。玉蓮は駄目だなんて、仰るはずがないわ」
これには威竜も喉まで出かかった否定の言葉を呑み込んだ。そう、確かに姉妹で分け隔てはしないと考えたばかりだった。
それに、金蓮も玉蓮も、纏足をしていない娘に嫁ぎ先が見つからないのではとずっと気にかけていた。父親として責任をもって相手を探すつもりだったし、早すぎることとは思うが、娘が望む男が現れたというのは恐らく良いことのはずだった。少なくともそう、彼は信じようとした。もちろん財産目当てではないかどうか、よく確かめなければならないが。
(エドワードより腹立たしい相手はそうはいまい)
婚約者がいながら娘――莉麗と結婚したいと言い出した男の姿を肖像画として思い浮かべ、さらにそれを引き裂いてから、威竜は努めて平静な声を保った。
「本当に好き合っているならばこの屋敷に連れてきなさい。良い相手だと分かったら結婚を許そう」
「無理よ、父様」
しかし、装った冷静さは娘の答えに瞬く間にひび割れた。
「なぜだ!?」
「そんな人いないもの」
「何」
「嘘よ、全部嘘なの」
ごくあっさりと笑顔で告げた玉蓮を、威竜は怒るより先に驚愕の目で見た。確かにこの上の娘は気も強いし口も達者だが、目上の者への礼儀を忘れることなど今までなかったというのに。
「……親をからかったのか」
「おとうさま、ちがうの。太太たちも、莉麗も一緒だったの。いたずらよ。四月のついたちだから……」
そこへ下の娘が必死な表情で口を挟んだので、威竜は一層眉を顰めた。
「いたずらだと?」
「外国の伝統だそうですわ。開花の月の最初の日には、罪のないささやかな嘘を吐き合って楽しむのだそうですよ」
「莉麗が教えてくれたから試してみようと思ったの。太太が良いって言ったから」
香蘭の笑顔は飽くまで常と変わらぬものだったのでやっと冗談だと納得し、威竜は脱力して椅子に背を預けた。ささやかな嘘などでは決してないぞ、と思いながら。
「悪習だな」
外来戸は何かと華夏を野蛮だと見下す癖に、彼ら自身の習慣もさして高尚という訳ではないではないか。
「でも、嘘だと分かったらほっとするでしょう」
発端が自分だと知られたからか、莉麗がやや気まずそうに言い訳のように眉を下げて訴えた。
「租界のお屋敷でもやっていたの。おにいさま――エドワードがね、今日はおそくなるから夜は会えないって言って、でも、いつもより早く帰ってくれてたくさんあそんでくれたのよ」
「そうか」
歳の離れた恋人のことを語る莉麗は、瞳の輝きといい紅潮した頬といい、愛らしさが一段と増していた。そしてだからこそ威竜の機嫌は一段と傾いた。
「金蓮も安心したでしょう。旦那様は玉蓮も莉麗も同じくらい可愛くて仕方ないのよ」
「ええ、お姐様。でも、可愛すぎて手放さないのではまた心配ですけれど」
(私は試されていたのだろうか)
妻たちの会話に憮然としつつ、威竜はすっかり冷めてしまった茶を啜った。
「旦那様、拗ねていらっしゃるのですか」
「そんなことはない」
香蘭には見え透いていただろうがそれでも言葉では否定すると、やはり彼女は宥めるように微笑みかけてきた。
「四月一日に吐いた嘘は、一年間は実現しないそうですわ。ですから、玉蓮がお嫁に行くとしてもまだ先です」
「たったの一年か」
思わずこぼれた心からの言葉に、女たち四人がさざめくような笑い声を立てた。
威竜も分かってはいる。玉蓮は今年で十五になるから、いつ縁談が出ても早すぎるということはない。莉麗に至っては成人したらあのエドワードと結婚すると約束している。十五も歳が離れている上に、つい最近まで自分に都合の良いことばかり莉麗に吹き込んでいた男だ。できることなら一日でも早く心変わりして欲しいのだが、今のところその兆しは一向に見えない。
娘たちと共に過ごせる時間はごく限られたものなのだ。
だからこそ、せめてこの手の中にいる間は精一杯守り慈しもう。
父親を放って笑い合い語り合う娘たちを前に、威竜は改めて決意した。




