後日談 失くした初恋②
連続投稿の二話目です。
華夏の古風な屋敷は、以前何度か訪れた時と変わらず穏やかな雰囲気に包まれていた。朱家の幾つかあるという別邸のひとつだ。
「ダニエル……何しに来たの?」
「ごきげんよう二太太、いつもお綺麗ですね」
女主人の金蓮への挨拶もそこそこに、ダニエルは手紙で指示された部屋に向かった。華夏語を覚えた後でも金蓮が彼に対して構えた態度なのはいつものことだし、彼女は気にせず入って良いと言っていた。それに、なりふり構っていられない気分でもあった。
目当ての扉へ飛び込むと、叫ぶ。
「玉蓮っ!」
「いらっしゃい、ダニエル。待っていたのよ」
切羽詰った彼の呼びかけとは裏腹に、一つ歳上の友人の表情は余裕たっぷりの笑顔で、ダニエルを余計に苛立たせた。彼女も朱家の令嬢だから、リリーのことは知っていたに違いないのに。事実、手紙では話したいことがあるとしか書かなかったのに、何の用だと聞きさえしない。
「玉蓮……」
「座って。お茶を淹れてあげる。落ち着きなさい」
恨めしげに睨むと、玉蓮はおかしそうに声を立てて笑った。今日は自邸にいるからだろう、華服を着ている。緑の生地に白い花の刺繍の、爽やかな彩りのもの。租界で会う時のドレス姿よりも似合っていると思うので、いつもなら細かな意匠を鑑賞する気になったかもしれない。だが、今はそれどころではなかった。
「ラドフォード商会のエドワードさんに会ったんだ。婚約者を紹介してくれるって」
それでも香り高い華夏茶を一口飲むといくらか気分も落ち着いて、最初よりも穏やかな声を出すことができた。
「そう」
玉蓮の印象は猫に似ていると思う。いつも好奇心に目を輝かせて物怖じしない。可愛らしくもあり、所作も良家の令嬢らしく優美なものだ。
今は、澄ましてちょこんと座った猫が耳か尻尾だけをぴくぴくと動かしているような雰囲気がした。いたずらをしたのに知らない振りをしているような。
「玉蓮も会った? その人に」
「うん」
「いつ? 最初に会ったのは?」
「さあ、かなり前」
白々しい答えにも笑いを堪えたような表情にも我慢できなくなって、ダニエルはついに核心をついた。
「だってあれはリリーじゃないか! 生きてたのに黙ってたんだな! 老朱も兄さんも、君もだ!」
玉蓮は怒鳴り声にうるさそうに顔を顰めた。
「黙ってた理由も聞いたでしょ。貴方に言える訳ないじゃない。あの女の弟なんだから」
会ったこともないはずの姉のことを、玉蓮は憎しみさえ込めて口にした。これが猫だったら、鼻面に皺を寄せて牙を剥きだしてうなっていただろう。
「姉のことは……すまないと思っている」
「あの後莉麗がどんなだったかも聞いた? とても、とてもひどかったの。母様なんてずっと叫んでたから太太に追い出されちゃった。莉麗の傷に障るからって」
「まさか、だから僕にも警戒していたのか!?」
金蓮がいつまでも冷ややかな態度なのは、租界の人間全体への嫌悪というか偏見が理由だと思っていた。しかし、ダニエルも姉がリリーにしたように、いつか玉蓮に危害を加えるとでも思われていたのだろうか。
あんなことの後でも交際を続けてくれた朱威竜や玉蓮は寛大だと思っていたが、大目に見てもらえたと思っていたのは彼だけだったのだろうか。
あまりに心外な扱いに目を剥くと、玉蓮はあっさりと首を振った。
「母様は外来戸は皆苦手よ。だから関係ないと思う。
……でも、父様もエドワードも怖かったのよ。大事な莉麗があんなにされてしまったんですもの。
子供の癖に大人を惑わせたとか。可哀想なレディを破滅に追いやったとか。黒い瞳で魅了の呪いを使うのよ。外来戸はそういう話が好きなんでしょう? 大怪我させられた上にそんな噂まで背負わせるなんて」
玉蓮が言ったのは確かに両親や友人たちが言いそうなことだった。反論の余地がなくて、ダニエルは唇を噛んだ。しかし、すぐに理不尽だという気持ちも湧き上がった。彼はそんな人間とは違う。少なくとも、今は。
「そうかもしれない。でも、だからこそ謝りたかった! リリーが死んでしまったと聞いて、僕がどんな気持ちで……この五年……」
「怒ってるの? ワタシに八つ当たりしにきたの?」
言葉がかなり流暢になった今でも、玉蓮は私、という一語を独特な発音で言う。こだわりなのかどうしてもそうなってしまうのかは、ダニエルはその理由を知らなかった。
とにかく玉蓮はとても冷静で、それこそ猫のような大きくて神秘的な黒い目で問いかけてきたので、ダニエルも自分の心を覗く余裕ができた。
「……分からない。自分でも」
そしてやはり自分の感情に名前をつけることができなかった。
騙されて怒っている、などということはないと思う。もちろんリリーが生きていてくれたのは嬉しいし、ずっと抱えていた罪悪感も幾らか軽くなった。海を渡っていった姉のことが頭をかすめたのは事実だが、リリーの手のひらに残った火傷の跡を見てもなお、恨み言を言う気にはなれなかった。玉蓮の話を聞いただけでも、姉は当然の報いを受けたと思う。
玉蓮が黙っていてくれたので、思う存分考えた後、ダニエルはやっと口を開いた。
「初恋になるかもしれなかったんだ」
「ふうん?」
ネズミが視界の端をよぎった時の猫のように、玉蓮の目が輝いた。
「可愛い妹みたいなもので、病弱だから放っておけなくて。だから、恋なんてものじゃ、まだなかったとおもう。そうなる前に死んでしまって――それも、姉のしたことで。
なのに前よりもずっと綺麗になって目の前に現れたから……」
「また好きになっちゃった? リャクダツするの?」
「まさか! 兄さ――ラドフォードさんと結婚するって言ってたじゃないか」
つまりは姉にも嫉妬するだけの理由があったということになる。だが、それでも彼女のしたことが正当化できるとは思えなかった。
「でも、父様は賛成するかもしれないよ」
「え?」
玉蓮は悪巧みにでも誘うように、にやりと笑った。これも本の挿絵に出てくる猫のような笑い方だった。
「エドワードと莉麗は歳が離れてるし、ずっと閉じ込めるみたいに育ててたのも気に入らないの、父様。莉麗が一途だから諦めたみたいだけど。
同じ外来戸でも、歳が近い分ダニエルの方が良いって言うかも」
「まさか」
ほんの一瞬だけ心が動きかけ――ダニエルは玉蓮が冗談を言っているのだと信じようとした。
「死んだことにまでしたのは、二人が愛し合っていたから、だろう。割って入れるはずがない」
「もちろんよ」
玉蓮がおかしそうに笑ったので、ダニエルは自分の判断が正しかったようだと胸をなでおろした。
それから玉蓮と相談して、リリー――莉麗にまた会えるように手紙を書くことにした。先日は動転のあまりまともに喋ることもできなかったから。怒ってなんかいないと改めて伝えたかった。
「もう父様も太太も分かってるから。本邸に宛てれば良いはずよ」
それから玉蓮は真面目な顔になって付け加えた。
「よく似た別人ということにした方が安全なのに打ち明けたのは、ダニエルを気にしていたからよ。リリーはずっとすまないと思っていたの。だから、できればまた仲良くしてあげて」
言われるまでもないことだった。
それから何通か手紙を交わし、莉麗と会うことになったのは、なんと墓地でだった。
「華夏人だと自由に入れないの。エドワードは忙しいし。……ダニエルが来てくれて、良かったわ」
紙でできた百合の花束を抱えて、喪服姿で現れた莉麗は、まだ彼の名前をためらいがちに呼んだ。
「僕こそ、会ってくれてありがとう。ちゃんと話さなきゃと思ったんだ。この前は怒った訳じゃないんだ。ただ……ただ、嬉しすぎて驚いてしまって。リリー――莉麗が無事でいてくれて、本当に良かった」
照れくさくて早口に、それでも真摯に見えるように目を逸らさないで言うと、莉麗はとても嬉しそうに微笑んだ。呼び名が百合でもジャスミンでも、彼女は清らかで美しかった。
「身体は、大丈夫なの? 前はとても病弱だった」
暑くも寒くもない季節ではあったが、些細なことで熱を出していたかつてのリリー・メイを思い出して、ダニエルは心配になって尋ねた。
「ええ。エドワードが大事にしすぎていたのも良くなかったみたい。あちこち出掛けるようになったらだんだん丈夫になっていったわ」
「そう」
それでも完全に安心することはできなくて、ダニエルは長い袖に隠れた莉麗の腕を罪の意識と共にうかがった。
「……怪我も、ひどかったって。姉が、本当にごめん。僕が言っても仕方ないけど、許してはくれないだろうけど……」
「良いの、もうほとんど治ったから」
「ほとんど」
言ったからといって莉麗が自分を責められるはずもないと気付いたのは口が動いてからで、しかも莉麗の答えに気温がすっと下がった気がした。
立ち止まってしまったダニエルに、莉麗は慌てた様子で説明を加える。
「痛いとかじゃないのよ、ちょっと赤くなってるところがあるだけ。あと何年かしたら全部綺麗になるかもって」
「……そう」
莉麗は心の底から大したことではないと思っているように明るく言ったが、姉のしたことを改めて突きつけられて、ダニエルの心は暗くなった。
この墓地には莉麗の母である翡蝶と、リリー・メイの父だと言われていたアルバートが眠っているので、結婚をすることになった、報告をしたいのだという。
「リリー・メイのお墓もあるの。おかしいでしょう」
微笑みかけられても、冗談でも笑うことなどできなかったので、ダニエルは違うことを尋ねた。
「一緒に行くのが僕で良かったの?」
「ええ。お友だちができたって言いたいの。……お友だちで、良いかしら?」
「もちろん」
また不安げに聞かれたので、ダニエルは大きくうなずいた。胸にわずかながら痛みを感じつつ。
目的の場所につくまでに、二人はぽつぽつとこの五年間のことを話した。スクールのこと、父の手伝いのこと。莉麗からは華夏の言葉や習慣の勉強が大変だったことを聞いた。社交など事業を助けるレディとなるため、朱威竜の第一夫人はとても厳しく監督しているとは玉蓮からも聞いていた。実は莉麗も彼女と一緒に学んでいたらしい。
「……ベアトリスお姉様は、お元気かしら」
そしてとうとう姉の消息を聞かれた時、ダニエルの心臓は緊張に跳ねた。それでも予想できた質問なので、答えは既に用意していた。
「本国で結婚したよ。伯爵夫人になったんだ」
だから十分さりげなく言えたと思うし、莉麗も安心したように微笑んだ。
「そう。じゃあ、幸せになったのね」
姉と夫は莉麗とエドワード以上に歳が離れている。それも後妻だ。夫の連れ子の方が歳が近いくらいだという。しかしもちろん莉麗に言う必要のないことだった。
「大きなお城に住んでいて旦那さんは優しい人だって」
ダニエルは嘘を吐いてはいない。姉からの手紙に書いてあったことをそのまま言っているだけだ。姉がどんな顔でそれを書いたまでは分からないし、想像したくないことでもあったが。
とにかく、莉麗は全てを知らなくて良いと思った。
翡蝶とアルバートの――そしてリリー・メイの――墓の前に着くと、莉麗は花束を供えて、ダニエルを見上げた。
「火をつけてもらえるかしら?」
「火?」
「華夏の弔いは、紙の花やお金を燃やすの。でも私、まだ燐寸を使うのが怖くて……」
困った顔で燐寸を差し出されたので、ダニエルは急いで受け取った。そうだった。身体の傷はふさがっても、心の傷は残っていて不思議ではない。
「お料理とかストーブは平気になったんだけど。何もないところで火が燃えるのが嫌なのかしら」
言われた通りのやり方で火を点けると、花束は瞬く間に燃え上がって灰を空へ舞い上げた。
母に何を伝えているのか、莉麗は神妙な面持ちでずっと空を見上げていた。そして、灰の最後の一片が空に紛れるのを見届けると、今度はかつての自分の墓標をどこか悲しげに眺めた。
「……自分がいなくなってしまうというのは、とても辛かったろうね」
名前を変えて、世界での立ち位置をすっかり変えてしまうなど、彼には想像もできないことだった。言葉だけでは白々しく聞こえてしまうだろうが、ダニエルは言わずにはいられなかった。
「ええ。でも、エドワードと一緒になるにはそうするしかなかったから」
莉麗は意外なほどにしっかりとした声で答えると、くるりとダニエルに向き直って、花が開くように微笑みかけた。
「ダニエル、来てくれて本当にありがとう。ずっと気がかりだったの。また会えて嬉しいわ」
「僕も君のことをずっと考えていたよ。嬉しいのも一緒だ」
ずっと考えていたのも嬉しいのも、莉麗と彼とでは意味が違うだろうとは思ったが、とにかくダニエルも笑って答えた。
「私、租界に戻ってくるのはやっぱりちょっと怖かったの。もし良かったら、嫌じゃなかったら、これからも時々は会ってくれるかしら」
「もちろん。いつでも君の――君と、エドワードさんの助けになるよ」
「ありがとう。エドワードもね、ずっと貴方にすまないと思っていたって。許してもらえたと知ったら喜ぶわ」
莉麗はエドワードのために、再会してから最高の笑顔を見せてくれた。
ダニエルは彼の初恋が二度目に終わっていくのを感じていた。だが、一度目よりは遥かにマシな気分だった。
死んでしまった少女に罪の意識を抱き続けるよりも、好きだった相手が幸せになる姿を見ることができるのだから、良いことのはずだ。それに、また友人だと言ってもらえた。
だからダニエルも心からの笑顔を莉麗に見せた。
晴れた空を見上げれば、この五年で一番心が軽くなったのが分かった。
これにて完結とさせていただきます。
長い物語にお付き合いいただき、ありがとうございました。




