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後日談 失くした初恋①

ダニエルの後日談を二話連続で投稿します。

 ダニエルは海が苦手だった。

 大鯨(ダージン)――世界でも指折りの港街に暮らし、親を継いだ後は商売をするはずの者としては情けないことだとは思う。実際、五年前までは潮風の匂いも、港を飛び交う異国の言葉も、長旅を終えて帰航する大型船を見るのも、冒険心のようなものを掻き立てられるので大好きだった。

 だが、五年前にあったある事件以来、海は嫌な思い出を呼び起こすものになった。


 それは、本国へ向かう船に乗る姉の、暗い微笑だ。


 元婚約者の屋敷の火事に巻き込まれて怪我を負ったため、療養するのだと世間に向けては説明されていた。だが、家族である彼は事実を知らされてしまった。

 姉こそが火事を起こした本人だった。多少髪が焦げた以上の怪我などしてはおらず、療養が必要だとしたらそれは心のためのものだった。

 あの頃姉の様子がおかしかったのは、子供心に感じていた。しかし、それが婚約破棄を申し出られていたからだったと知ったのは火事があってからだった。姉は婚約者だった人を愛していた――と、思う――から、それで思いつめたのだろうとは思う。

 とはいえ婚約者の屋敷の離れと、何よりもそれと同時に――考えに上らせるのさえ恐ろしく胸が締め付けられることだが――弱くて守るべき小さな存在を灰にして、それでも笑っていられた姉の心情は彼には理解できなくて、その時のいたたまれなさが海と結びついて深く刻まれているのだ。




 屋敷に帰ると、ダニエルはジャケットを脱いでシャツの首元を緩め、深く息を吐いた。

 世間には言っていない――言えない理由で海が苦手だなどとは言っていられないし、スクールを卒業した以上は家業に関わることも求められている。だから今日は港近くの事業所まで顔を出した。多少陰鬱な気分になった以外はなんということもない。繰り返すうちに慣れることができるはずだった。


 黒い髪の――彼の家では華夏(フアシア)人も雇っている――召使の淹れてくれた茶で疲れを癒しながら、不在の間に届いた手紙を確認していく。友人からのもの、招待状、案内。そして、その中に縁の深い名前を見つけて、ダニエルは眉を寄せた。


 手紙の送り主はエドワード・ラドフォード。つい今しがた思い出していた、姉の元婚約者だった。


 かつて兄と呼んでいて、実際に義兄になる日を楽しみにしていた。けれど、もうそれは叶わないことだ。姉とのことがあったにも関わらず、エドワードはダニエルと交際を続けてくれたが、ダニエルの方で後ろめたさに耐え切れなくて、付き合いは間遠なものになっていた。


 そんな人から、一体何の用だというのだろう。


 ぎこちない手つきで手紙を開封し、一読して――ダニエルは深いため息を吐いた。

 手紙には、結婚することになったので妻となる人を紹介したい、と記されていた。

 とても、律儀なことだと思う。姉の、いわば自業自得によって破談になった今、エドワードが彼の家に遠慮することなどないのに。報告するのに父ではなくダニエルを選んでくれたのは嬉しいことではあったが、同時に大変気が重いことでもあった。


 女性の目を惹く容姿にも関わらず、事業では成功しているにも関わらず、エドワードがいまだに独身を貫いているのは、姉への心遣いなどではない。あの火事で喪った――姉が殺した――少女、あの人が妹のように可愛がっていた姪のことが忘れられないのに違いないのだ。


 黒髪黒目の、華夏人との混血の少女。妙に世間知らずで、食い意地が張っていて、泣き虫だった。身体が弱くて、驚く程ささいなことで寝込んでいた。でも素直で可愛らしくて、エドワードが可愛がるのも無理はないと思っていた。

 今思えば、姉はあの少女に嫉妬していたのだと思う。だからダニエルの目の前でさえあの子にきつい言葉を投げかけて、彼女の出自をあげつらうようなことを言った。一方で彼には仲良くしろなどと言ったのは、あの子を懐柔することでエドワードに取り入ろうとしていたのだと思う。

 とにかく姉の目論見はことごとく空回りして、エドワードの不信を招くことになった。ダニエルが直接見聞きしたことと、両親の言葉の端々から察したことだ。そして破談を申し渡されて、姉は狂って。あんなことをしでかした。


 今更どんな顔をしてあの人の新しい婚約者を見れば良いか分からない。姉を哀れだと思う気持ちと、加害者の身内としての罪悪感。そして、それに比べれば些細と言うべきこと、彼が言える立場ではないことだが、ダニエルもあの少女が好きになりそうだった。そんな、初恋とも言えない淡い思い。

 そんな感情がないまぜになって、エドワードが完全に過去を振り切ったと受け入れるのは難しかった。とはいえ断る理由も思いつかない。


 ダニエルは、ぎこちない手つきで返信をしたためた。




 約束を取り付けた日はすぐにやってきた。


 ラドフォード家の屋敷の前に立つと、胸が地の底まで沈んでいくような思いがして、晴れた日だというのにひんやりとした空気さえ感じた。

 この屋敷に来るのは、父について謝罪に訪れた時以来なので、その時の記憶が蘇ったのだ。


 そもそも子供だった彼には発言の機会もあるはずもなかった――同席を許されたのも父に頼み込んだ末のことだった――が、憔悴したエドワードの姿に、ダニエルはかける言葉が見つからなかった。焼け跡も生々しく、黒焦げになった柱だけが空に聳えている様も恐ろしかった。それが、姉のしたことだった。


 そして幼い少年に最も衝撃を与えたのが、初めて会ったラドフォード会長――エドワードの父、そしてあの少女の祖父にあたるはずの人物だった。


『あんな混血の子供のために、かえって申し訳ない』


 長男を亡くして以来すっかり老け込んだという老人は、しきりに頭を下げる父に淡々と言った。エドワードと同じ青い瞳は、空の色というより凍った海のようだと思った。


『もともとああいう出自の子供を育てるのは反対でした。母親ともども(メン)(ジン)(ルー)に返しておくべきだった。なのにエドワードが甘やかすからこんなことに――』


 老人がそれから何を言ったかはよく覚えていない。とにかく亡くなった彼女とその母親を貶めて、だから姉のしたことは仕方ない、気にすることはないと言おうとしているようだった。

 ダニエルは拳を握りしめて、それを振り上げないようにするのに必死だった。ともかくも彼は加害者の側であって、老人は被害者の側にいるはずだったから。それに、誰よりも殴りたかったのは過去の彼自身に他ならなかった。


 初めてあの少女に会った時、ダニエルも偏見から彼女にひどい言葉を投げつけたのだ。周囲の者が言っていたことを深く考えもせずに口にしてしまった。姉が愛する人の関心をひとり占めしていることへの嫉妬めいた気持ちもあったと思う。彼女には何の咎もなかったのに。

 華夏人への悪意に満ちた言葉で死者を侮辱する老人の醜さは彼自身のものだった。型どおりに謝っただけでは済まないことをしてしまったと気付いたとき、償うべき相手は既にこの地上にはいないことも思い知らされて、彼は絶望したのだった。


 追憶に足を縫い止められていても誰も助けてはくれない。鉛のような心と身体を引きずるように、ダニエルは客間へと通された。何度か足を踏み入れたことのある、懐かしい調度は変わっていない。だが、前は輝くような笑顔で迎えてくれたあの少女はもういない。 


 失くした思い出に思いを馳せていると、彼を呼び出した張本人が現れた。

 一時は婚約破棄や――葬儀の始末で、そして商会を継ぐ際の父親とのやりとりでひどくやつれていたと思うが、エドワードは少なくとも今日は顔色が良くて、ダニエルは安心した。


「久しぶりだね、ダニエル。スクールを卒業したとか。おめでとう」

「こちらこそご無沙汰していました。ありがとうございます――ラドフォードさん」


 ダニエルは一瞬迷った後で、相手を姓で呼ぶことにした。兄と呼ぶのがもはや叶わないのはもちろん、気安く名前を口にするのも馴れ馴れしい気がしてしまったのだ。

 彼の隔意をどう捉えたのか、エドワードは微笑んだ。寂しそうに見えたのは彼がそう望んだだけかもしれない。昔と同様に兄弟のように、などとは虫の良すぎることだと思う。


 そして、ダニエルは彼が呼ばれた要件を思い出し、気の利かなさを恥じた。


「おめでとう、を言うのは僕の方でした。――ご結婚されるとか。幸せに、なる……のですよね」


 姉との婚約ではこの人は幸せになれなかった。今度のことは愛ゆえなのか何か断れない事情があってなのか、それすらまだ知らないから、ダニエルの口調は非常にあやふやなものだった。

 しかし相手ははっきりとうなずいた。


「そのつもりだ。許してもらえるとは思わないが、少なくとも君には伝えたかった」

「僕には許すとかそんなことは……」


 その資格も権利もない。そう言おうとしたが、エドワードは彼を遮った。


「彼女に会ってもらえるかな。そうすれば、意味が分かるから。――入ってくれ」


 最後の一言は扉の外へ向けたものだった。エドワードの婚約者だという人が現れるのを知って、ダニエルは息を詰めて扉が開くのを凝視して、そして――


「ごきげんよう、ダニエル。…………久しぶり、ね?」


 部屋に入ってきた女性の姿を見て絶句した。


 最初に頭をよぎった可能性は、エドワードはやはりあの火事で亡くなった少女を忘れられなかったのだ、ということ。だから彼女に似た面影の、彼女を成長させたような華夏の女性を見初めたのかと。

 ただ、目の前の女性は、艶やかな黒髪も、神秘的な黒い瞳も、滑らかな白い頬も、あまりにもあの少女そのままだった。何より彼女の最後の一言に、彼は普通ではありえないことが起きているのを悟った。


「リリー……?」


 五年ぶりの名前を紡ぐ声は我ながら頼りなくて、疑問符がついてしまった。だが仕方ないことだと思う。()()が目の前に現れたのだから。それも、彼の記憶にあるよりもはるかに美しく成長して。亡霊の青白さや冷たさなど欠片もない。花開いた薔薇のように精気に満ちていて。


「そうなの。ごめんなさい、ダニエル。驚いたし――怒る、わよね?」


 ただ、彼女の表情はひどく申し訳なさそうで、薔薇の美しさも曇り空の下で褪せてしまっているようだった。


「怒る……? なぜ?」

「だって、ずっと騙していたから。私たち――私がこんなことを言ってはいけないと思うけど、お姉様にも申し訳ないし。その、私を、リリー・メイを死なせてしまったなんて、とても苦しんだでしょう?」


 実際のところ、リリー・メイの訃報を聞いた姉は笑っていた。その姿を思い出して顔を顰めたダニエルは、リリー――だという女性とエドワードをひどく慌てさせてしまった。


 二人が代わる代わる語ったことによると、彼が知っていたリリー・メイはあの華夏人の名士、(ジュ)威竜(ウェイロン)の実の娘だったということだった。

 兄妹のような親子のような関係から、二人はやがて男女として惹かれ合うようになった。そして堂々と夫婦になるために、リリー・メイを朱威竜の娘として迎える計画を立てのだという。

 姉の発狂の本当の理由を知らされて、ダニエルは阿片でも吸ったような朦朧とした気分になった。


「じゃあ、どうして死んだなんて嘘を……?」


 呆然と、独り言のように疑問が口からこぼれると、やはり二人は交互に答えた。


「幼い頃から育てた子を愛したなんて、人は受け入れられないものだ。リリーへの奇異の目を、少しでも減らすために仕方なかった」

「歳が離れていても、華夏人でも、大きくなってから出会って好きになったということにした方が良いと思ったの」

「姉さんのしたことを利用したの……?」


 深く考えて口にしたことではなかった。立て続けに思いもよらないことを聞かされて、自分の言葉が相手にどんな印象を与えるか、考えることができなくなっていた。

 そして、二人とも気まずげに口をつぐんでしまったのを見て、ダニエルは言うべきでないことを言ってしまったことに気付いた。エドワードがリリーを紹介してくれたのは、真実を告げてくれたのは彼女を傷つけるためではないはずだった。きっと、彼らはダニエルの許しを期待していた。


 ダニエルの胸にいくつもの面影が現れては去った。

 姉の笑顔と港の船。父の渋面と先代のラドフォード会長の凍ったような無表情。焼け跡。それに幼いリリー・メイとの思い出。一緒に出掛けて、茶や菓子を囲んで。そうだ、そもそも朱威竜と初めて会ったのも彼女と一緒にいる時だった。


 何かもっと別のことを言わなければ、と思ったが、それが何かはさっぱり分からなかった。


「ごめん、そんなつもりじゃなくて。ただ……自分でもよく分からないんだ」

「そうだろうね、突然だったから」


 まだ不安げに悲しげに目を潤ませて唇を結んでいるリリーに対して、エドワードはまだしも如才なかった。


「突然こんな話をしてすまなかった。できれば君のご両親には――」

「大丈夫。言いません」


 姉のことを考えると、彼にはこんなことを両親に告げる勇気はなかった。するとエドワードは目に見えて安堵したように微笑んだ。




 それから多少は世間話のようなことをしたのかもしれない。よく覚えていなかったが。


 とにかくダニエルは我に返ると自宅に戻っていた。まるで夢でも見ていたようだったが――果たして悪夢なのか良い夢なのか――、彼が頭の中でこしらえたにしてはあまりに突飛な上によくできた空想だった。それに、帰り際にリリーは彼の頬に手を添えてキスをしてくれたが、その手のひらには赤く変色した部分があって、きっと火傷の跡だと気付かされた。


 だからあれは現実だった。


 ダニエルはしばらく考え込んだ末に、レターセットを持ってこさせた。そして、ある友人に宛てて、会うのに都合の良い日時を尋ねる手紙を書いた。

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