一線
「ミカ、決行は水曜日で決まりだ。ハセガワが久しぶりに目黒の西光寺に現れる。」
「分かった。私が先だね。巻き込んでごめん、ヒラカワくん」
「だから、それは違うって。オレのせいだからさ。」
ヒラカワのマンションで襲撃を受けたのは、ステファンから奪ったソースコードをあの女に渡してからすぐの事だった。
1月1週目の土曜の午前3時過ぎ、ヒラカワのマンションにコピーキーを使って玄関から侵入してきた襲撃犯は4人組の素人の男たちだった。
私と違ってヒラカワは叩き上げの刑事だ。玄関前の声を聞き、人数や物音で異常を察知したのだろう。私が気がついた時には、すでに寝室からリビングまで移動し、玄関の死角に潜んでいた。
薄明かりを灯すリビングの間接照明が何かを握っているヒラカワの手元を照らす。おそらく護身用のスラッパーだろう。
玄関の鍵が開く音が内廊下に響いて反響する。今からヒラカワの近くまで動くのは危険だ。それに私が助けに入っても邪魔になるだけだ。
助けを呼ぼうとスマホを握る。私の動きを察してヒラカワが指を立てる。
男たちがひそひそと話す声は中国語のように聞こえる。1人がリビングに顔を出した瞬間に男の影が崩れ落ちる。
音は聞こえなかったが、小さな鉄の粒が詰められた革のスラッパーで顔面を叩いたのだろう。次に続いた男が何が起こったのか確認するように屈み込むとすぐに倒れて、最初の男と同じようにうめき声をあげている。
ヒラカワが3人目に襲いかかろうとしたその時、紫色の小さな閃光が走り、ヒラカワが不自然に崩れ落ちるのが見えた。
倒れたヒラカワを踏みつけ、蹴り飛ばす男たち。何かを喚き、怒鳴りつけている。それは中国語ではなく、ベトナム語だった。
怒鳴り声が止み、男の1人がリビングの照明をつける。別の男がナイロンの結束バンドでヒラカワの手と足を縛っているのが見える。うつぶせに倒れたヒラカワの頭の辺りには血溜まりができていた。
血溜まりを見て浜町の家の記憶が蘇る。目を開けたままのクラタと血の匂い、そして消えていく体温がフラッシュバックして過呼吸が始まった。
病院で教えられた通り一度息を止め、小さくくちびるを空け、歯の隙間からゆっくりと空気を吸い込む。男の1人が不快なイントネーションで私の名前を呼ぶのが遠くに聞こえる。小さな子供やペットを呼ぶように語尾を伸ばして茶化した声を出している。
3度目に歯の隙間から息を吐いた瞬間だった。寝室に入ってきた男に殴り飛ばされ、視界が真っ赤になり気を失った。
次に気がついた時には下着を剥ぎ取られているところだった。私はベッドに押し倒され、強姦されながら窒息しないように口に溢れる血を必死に飲み込んだ。
乱雑に身体を弄られる痛みに耐えながらふと匂いに気が付く。灯油、それから髪が焦げる匂い、そして立ち込める煙に気が付いた。煙はすぐに私の目に入り込み、涙が滲んだ。男は涙ぐんで目を擦る私を見て、口元を歪める。それから下卑た笑顔を作り、両手で私の首を絞めつけながら腰を強く打ちつけてくる。
私は男の手を掴んで抵抗する素振りをするが、呼吸すらまともにできず、腕にも指にも力が入らなかった。目を閉じると情けなさと恐怖と諦めのどれともつかない感情とともに滲んだだけの涙は頬を伝って流れて垂れる涙に変わっていたのに気がついた。
不意に首を絞める手が緩んだと思うとそのまま外れ、私に跨っていた男の動きも止まっていた。目を開けると、どこをみているのか焦点が合わない男の目がそこにあった。男が正面を向いたまま横倒しに倒れた。私の真横にいたヒラカワに気がつく。ヒラカワは拳銃を握ってベッドの横に立っている。
私に跨っていた男が倒れたことで、視界がひらけるとリビングが燃えているのが見えた。燃えるソファーの上では別の男が倒れている。服も髪も燃えているのに目を開けたまま身動き1つしない。
ヒラカワが何も言わずに用意してくれた服を着て2人で部屋をでた。あとで聞くと2人を撃ち殺して、2人取り逃がしたという。
ヒラカワは拳銃の持ち出し許可を得ていた。追っていた事案が年が開けて本格的に動き始めている。いつでも摘発に入れるように待機している段階だったからだ。
そのおかげで私とヒラカワは助かり、そして私たちは死んだ事として処理された。
ステファンの件がどこまで漏れていたか分からないが、私のことは勿論、ヒラカワが消えた事は公にしたくないという事だろう。ヒラカワが後から調べてくれたが、私たちの事件は不審な点は揉み消されて、捜査対象にすらならずに事故として処理されていた。
ヒラカワの追っていた事案とは国内の暗号通貨取引所ばかりを狙う組織の摘発だった。北朝鮮が関与しているその組織の国内拠点が宮城にある事は以前から掴んでいた。
宮城の拠点にいるメンバーは日本国籍の使い捨てだ。押さえても意味がない。北朝鮮とのつながりを明確にする為には本国にいる主要メンバーの身柄を拘束する必要があった。でなければ拠点と使い捨てを入れ替えていつまでも同じ事を繰り返す。現実世界の犯罪の定石と同じ事だ。
ヒラカワは主要メンバーがこちらに訪れる機会をずっと待っていたのだ。
だが、あの国は日本の政界・財界に深く入り込んでいる。ヒラカワたちの動きを面白く思わない勢力がいてもおかしくない。
私もヒラカワも一部の勢力にとって厄介払いにするにちょうど良かったのかもしれない。
ヒラカワはそれをよく理解している。そして自分のせいで私を巻き込んでしまったと考えている。
私はヒラカワを巻き込んだのは自分だと今でも思っている。だから私はコウガミの事を全てヒラカワに話した。それでもヒラカワは私を巻き込んだと思っているようだった。
どちらにせよ、行き場を失った私たちが生きるためには目的が欲しかった。叶うなら私とヒラカワが互いに矛盾しない目的が欲しかった。
お互いにそれを感じ、周囲を警戒しながら過ごすうちにヒラカワは私にとって大切な存在となっていった。以前の私ならそれで十分なはずだった。だけど、今の私を理解してもらう事は出来そうにない。
ステファンからコードを盗み出したあの夜の感覚を今だに忘れられなかったからだ。
私はあれが何なのかずっと考えていた。1つはっきりしていることがある。それら私の中で引いた一線を越える事が、私の快楽に繋がっていると言う事だ。
私はコウガミやハセガワに恐怖を抱いている。あいつらは平気で殺人を犯す犯罪者で、私には対処できない存在だと線を引いてしまっている。ずっとどうすればあいつらから逃げられるだろうかということばかり考えていた。
私は快楽と恐怖を別物として考えていた。だが私が泣くのを見て首を絞め、楽しみながら凌辱する男をヒラカワが撃ち殺した時に見た男の目を見てふとある感情が生まれた。
こんな間抜けな奴に恐れを抱く必要がどこにあるのだろうか。
寝室から出る前にヒラカワから拳銃を借りて男の鼻面に一発撃ち込んだ。ひしゃげて飛び散る肉片。つぶれて穴の開いた鼻にへばりついた肉の鼻先が癇に触った。思い切り踏みつけると眉間の間と鼻の根本をつないでいた骨があっけなく砕けて陥没した。
あの夜とは程遠いがそれでも快感の痺れが背骨を抜ける感覚があった事は確かだった。
私の目的は見つかり、そして先に私の方にチャンスが回ってきた。




