PM12時
結局昨日は帰ることが出来ず、午前の報告を済ませてようやく浜町の自宅に帰りついたのが昼の12時だった。換気扇をつけてたばこに火をつける。ガスコンロの上に置いた灰皿の縁でたばこを軽く払う。つけたばかりのたばこからは灰が落ちることはなく、赤黒い火種が小さく静かに音を立てる。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一口飲んでようやくスイッチが切り替わったようだった。
たばこの煙とため息を吐き、あのクソヤロウと小さくつぶやいた。私よりも年次が若く、職位も低いくせに終電で帰ったクラタは、報告会の10分前に手ぶらで出社してきやがった。どこまでも私のことをなめている。ただでさえ釈然としない気分のところに報告会でも新しい手掛かりがなく疲労感だけが残った。第2からの報告ではカネマツの不正侵入の件は、脆弱性を突いた外部からクラックと結論付けられていた。確かにCVEとして脆弱性リストに以前からあげられているオープンソースのAPの脆弱性だった。外部向けに開けたままの不要なポートから侵入されてしまった、というありがちなケース。
ただ、私もログを追ったが一つだけ腑に落ちないことがあった。外部からAPへ侵入し、そこから内部ネットワークに接続されたというのだが、内部ネットワークへの接続に利用されたのはシステム部のコバヤシのVPNアカウントだった。確かに認証基盤も侵入されているがダンプデータからアカウント名とパスワードをプレーンテキストに戻すにはシードが必要になるはず。コンフィグ上のシードはハッシュ化されている。にもかかわらずシードのバイナリは触られた形跡がない。どのタイミングで、どうやってシードを手に入れたというのだろうか。
侵入者の接続元は割り出せている。プロバイダが提出したIPの利用履歴から個人宅のPCを回収して既に解析が終わっている。PCはランサムウェアに感染していて、ただの踏み台だった。復元されたログから侵入者は茅場町のシェアオフィスのWi-Fiを経由していたところまでは特定出来ている。
該当時間のシェアオフィス利用者の特定を進めているが、私は望みが薄いと考えている。踏み台の種類は最新のアップデートが施されたロシア製の「スルーガ」だった。「スルーガ」はダークウェブで現在も販売されている。最新版のアップデートが当たっているということは複製品ではなく、わざわざ正規に購入したものということだ。それはダークウェブに接続し、購入に関わる煩雑なトラップに掛からずに、利用可能な状態の製品を手に入れ、動作させる程度の知識があるということだ。その知識があれば接続元を隠すためのアクセスポイントもプロキシもいくらでも選んで買うことが出来る。
そうであるなら、茅場町のシェアオフィスは本当に接続したのか、たまたま実在する偽装先のアクセスポイントとして使われてフックされていたのかは実際のところは分からない。
カネマツ本社の監視カメラに写っていたサクライ・アキトを名乗る男の姿を思い浮かべる。女のように小柄で華奢で伸ばした黒髪が眼鏡の黒い縁に掛かって浮いている。こいつはいったい誰なのだろうか?
埼玉に住んでいたサクライ・アキトとは全くの別人だった。本物のサクライ・アキトが失くしたと証言した免許を使って成りすましていたのだろう。少なくとも2年間、システム会社「ブートフォックス」にサクライ・アキトとして在籍し、カネマツのシステム部メンバーとして勤務していた。
2年もの間、他人に成りすまして、会社員として普通に生活していた。その間どこに住んでいたのか誰も知らない。ただ分かるとして、偽サクライが住んでいた場所は上石神井ではないだろう。偽サクライが給与の受け取りに利用していた銀行口座が開設されたのも2年前だ。
基本的に小売店では入り口とレジ、ATMの操作画面、手元や利用者の顔が判別できるように防犯カメラを設置する。大手ならばガイドラインが整備されている。防犯ミラーでカバーしているため、あとから設置されたATM用に追加の防犯カメラを購入しないという判断が許容されない。ほとんど存在しないのではないかという条件だ。だが、わざわざその店舗を探しだしたのだ。上石神井のあの店舗を見つけて、給与の引き出しに利用していた。最初からカネマツの事件を計画していなければこんな手間のかかる面倒なことはしない。
だが、カネマツの身代金の振込先と偽サクライの口座は紐づかない。それどころかカネマツが支払った暗号通貨の送金先のウォレットの持ち主も不明だった。振込先のウォレットのトラフィックを監視する限り、そこから送金された形跡は見て取れる。だが、そこからの送金は分散された上で複数のウォレットにトラフィックが流れてしまっている。支払いに指定されていた暗号通貨の種類は分散機能と匿名性が高いものが指定されていたからだ。
サクライ・アキトになりすましていた間、こいつ自身の人生はどうなっていたのだろうか。そう考えたが、すぐに思い直して笑ってしまった。私が刑事をしていることなど両親は知りもしない。中学や高校の同級生はもちろん、大学や民間企業に勤めていた時の同期あるいは先輩、その他の知り合いの誰も知らないだろう。
そう考えてみると私が何故、サクライ・アキトに成りすましていた人物が誰なのかに固執していた理由が分かったような気がした。私はこいつに共感めいたものを感じているのだ。きっとこいつも誰にも相談せずに自分で考え、自分で決めて、自分だけがその結果を受け止めていたのだ。
事件との関連性を度外視して、こいつの目的を聞き出したいという欲求が湧き上がった。まるで自分が知りたかった何かをこいつが知っているのではないかと期待しているようだった。それは悪い気分ではなかった。
バックから持ち帰ったPCを取り出してクラタに調べさせていた、偽サクライについての状況を確認する。丁度クラタから連絡が来ていた。聞き込みをしていた人物の一人、カネマツのシステム部でサクライ・アキトと同僚だったフリーランスエンジニアのセキタと言う男が、サクライ・アキトに関する情報について思い出したことがあるという。




