◆9の11◆
◆神聖歴千五百二十六年 八ノ月 第二日 ◆
カロ王子にしてみればテラスへの扉は閉じられていて部屋の中はまだ暑いし、どうせこの後は寝るのだから裸で良い、という思いがあったのかもしれない。
だが、濡れたままでは風邪を引いて体調を崩す可能性があることは、この歳であれば知っていて当然だ。自分の健康管理は貴族として果たすべき責務だし、聖教会の教えでもある。
「生きよ」という教典の冒頭部に出てくる言葉は、単に己自身が生き残ることを命じているだけではない。自分の健康が周りに生活する人々、己の血族、郎党、仲間、ひいては神の僕としてこの地上に生きる良き人々の為にあることを教えているのだ。
残念ながら過去の災厄の記憶が薄れつつある昨今では、貴族の中にも節制を守らず、自堕落な生活に陥る者が少なくない。ただ権力を求め、富や豪奢を競うのであれば、それで終わることもできるだろう。
だが王族貴族として仰ぎ見られることを望み、税という形で人々からの貢ぎ物を要求するなら、国民の規範となるべきであるという指摘から、顔を背けることは許されない。
そうでなければ、民衆からも神の教会からも、『貧る者』と見られ、ついには『貴ならず』とされる。それがネネム師匠から俺が教えられた『歴史』であった。
さてカロ王子は、昨日の派手な立ち回りを見て暴力の気配に酔い、その美酒を自分も醸してみたいと願ったに違いない。自分や妹の身を守りたいという表面上の理由を口にしてはいるが、実はそういうことなのだ。
幼い子どもにはありがちなことであるし、それを無碍に責めることは得策ではない。一直線に見える路が、近道とは限らないからである。
その『欲』を手がかりに、彼を修練の道に誘うことは可能だろう。またそれは俺の利益でもある。上手くいけば、王族であるカロ王子に、将来一定の影響力を持つことができる。
そうは思うが、前途はなお遥かだな、こりゃ。伯爵夫人の前では本能的にやんちゃを控えているが、俺がちょっとでも甘い顔をしようもんなら、我が儘ぽんのガキにしか仕上がらないのは目に見えてる。
王族貴族なんてものは、下の者は全て畏まって自分の口から出た言葉に従うのが当たり前だとしか、思ったことが無いのが大多数だ。
だが、世界の真理はそんなもんじゃない。人はいつでも貴き身分等というものに頭を垂れると盲信しているような輩には、魔導の真髄に触れることなど望めない。
ネネム曰く、「優れた魔導の力を持つ者が貴族の身分を得る例はあっても、大貴族・王族から優れた魔導師が現れた例しがないのは、己は生来貴しと勘違いしているから」だとか。
そう考えると出自が貴くない俺は、魔導を修得するという意味からは、カロ王子より随分と有利なのかも知れない。
あれ? でも、いわゆる魔導とは少し違うが、ネフィの場合はどうなるんだろう?
そんなことを考えながら、俺は館の召使いに声を掛け、香草茶をあつらえさせた。
「何です、これは?」
王子付きの侍女が、持ってこられたポットの中味を、色を成してのぞき込む。怒ってるのか? うーん、毒味したくないだけ?
「聖者の弟切草、洗霊草、聖母草、いずれも安眠を促す香草で、普通に用いられているものだ。魔導の修行には良質な眠りが欠かせない」
多分二十歳過ぎたくらいのその侍女は、銀器に注いだ香草茶を味見して、顔をしかめた。
「えー、そんなに不味いの?」
食事を終えたカロ王子は侍女の顔を見て、逃げ腰になる。
「いえ、不味くはありませんが、美味しくもありません」
「これを飲んで、早起きできたら、明朝稽古を付けて上げましょう」
「えっ、何するの?」
「身体を柔軟にする加行と木刀の素振りです」
俺は館の中の鍛錬場から貰ってきた木刀を、王子に見せた。
「やるやる、それ持たせて」
「明日の朝です。それを飲んで早くお休みなさい」
「分かった、飲む」
王子は侍女ともめている間にぬるくなった香草茶を一気に飲み干し、寝床に入った。若い侍女は、「あんな物を」という顔でそれを見る。
「では、貴女は、姫様とお休みを」
「私は殿下付きの侍女ですよ。あなたのような怪しい者に、指示される謂われはありません!」
「伯爵夫人も合意されたことです。それに自分が殿下を害するつもりがあるなら、狼藉者たちを討ちはしません」
不満を口にした侍女だったが、伯爵夫人にもの申す勇気は持たないようだった。最後に俺が「では廊下で不寝番でもしては」と言うと、逃げるように出て部屋を出て行く。
俺は燭台の蝋燭を吹き消し、寝台の側の床に座り込んだ。
「ノア殿」
寝具の中の王子から声が掛かった。
「ブドリとお呼び下さい」
「わかった。じゃあ、ブドリ」
「何ですか?」
「僕たちを襲ったのは、兄君たちの手の者かな?」
「確かに野盗の類にしては、装備が立派すぎました」
「では……」
「ただ、兄君たちが直接関わっているとは限りませんよ」
「何故だ?」
「圧倒的に有利な今の状況で、そんな危ないことに手を染める理由がありますか? どちらの兄君も、弟殺しの悪名を受けたくなど無いはずです」
「じゃあ、誰が?」
「装備から見ても、それに人数からも、奴らの主人はそう軽い身分の者ではありません」
「……僕たち殺されるの?」
「そんなことはさせません」
心細げな声が、震えていた。考えてみれば十二歳と言えばまだ子どもだ。まあ、丁度この王子が生まれた頃俺は十二歳で、ポラァノの貧民窟にいたわけだが、もう少し擦れたガキだった。
あの当時の俺でも、大勢の男たちに命を狙われ、襲撃されるなどという体験をしたら、泣き出さなかったとは言い切れない。そう言えば、少し肥満気味のアルという男の子に出会い、巡り合わせでネネムに弟子入りすることになったのも、今の王子と同じくらいの年頃だった。
「守ってくれる?」
寝台に身を寄せ、もたれ掛かっている俺の方に王子の手が伸ばされて来た。鎧戸の隙間から漏れ入る月明かりで見えるのは、華奢な手だ。その手をやんわりと掴む。おや、涙に濡れているじゃないか。
「俺が側にいる間は、守ってあげます」
「……側にいる間は?」
「王族というのは、何かと面倒のようじゃないですか。いつまでも側にいられるとは限りません」
どうやら当面、この王子が俺の守るべき者らしい。出来る範囲で世話をしてやるしかない。ついでに躾けもだ。
「ですから、今の内に殿下は強くならなければなりません。早くお休みなさい。明日から修行を始めましょう」
「分かった。寝る」
そう言ったが、王子は俺の手を離さなかった。さて今晩、どんな夢を見ることになることか?