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◆神聖歴千五百二十六年 八ノ月 第二日 ラモレ渓谷の街道◆
箱馬車の中には再び、王子と王女、ラゴ伯爵夫人、チェリス女伯爵、侍女が二人、最後に俺の七人が乗っていた。
カロ王子が俺の師匠について話せと言うと、珍しく女伯爵も興味を示す。同じ魔導師として関心を持つのも不思議ではないが、これはやはり今回仲間を倒されたことを恨みに思っていると考えるべきなのだろうか?
「ネネムのことは、あの戦役の前から噂として聞き及んでいた。エビスなどは『暁』の一統が王宮へ呼ばれた時には、ネネムに己の地位を奪われるのではないかと戦々恐々としておったものだ。ネネムが地位も名誉も辞退したと聞き、「分をわきまえれば当然のことだ」と偉そうにほざいていたが、笑止としか言いようがなかったぞ」
あー、どうやら同僚の仇を討つとかいう発想は無さそうだね。ネネム師匠があの後姿を消したことから「相討ちになった」と考えられていることもあるのだろうが……。こりゃあ「師匠はまだ生きている」なんてことは、口が裂けても言えない。
「騎士ブドリ、ネネリの元でお前の行った魔導修行とは、どのようなものなのだ?」
「殿下、それは……」
「どうした、騎士ブドリ。殿下のご下問であるぞ」
カロ王子が尋ねたことに俺が答えを渋ると、女伯爵が意地悪い笑みを浮かべそう言った。
「ではチェリス様、参考のためここへニコラシカ殿を呼び、シーバ一族の魔導修行について、殿下に説明させてはいかがでしょうか?」
「いや、そもそも殿下がご下問されたのはお前に対してだ。それは筋違いというものであろう」
あれ、婆さん、動揺を顔に出しちゃあ、ダメじゃないか。
「二つの流派について比較することができれば、殿下の理解もより深まりましょう。そうではございませんか、殿下?」
「なるほど、そうだな! チェリス、リュウモンをここへ」
「お待ち下さい、殿下。あの者は行列の先導をしている最中でございます。それに……」
「それに?」
王子が不審げに女伯爵を問いただす。ここであまり攻め込むのは拙いか。
「殿下、流派の修行は本来門外不出、ましてや他流の方が居る前で披露するようなものではありません」
女伯爵の沈黙に被せるように俺が説明すると、王子はしばらく考え込んだ。
「そうなのか? それでは何故……?」
どうやらこの王子も馬鹿ではないようだ。自分を守る陣営内でも、暗黙の闘いがあることを薄っすら理解しようとしている。女伯爵と俺の微妙な立ち位置の違い、それぞれの利害と思惑、抱える怨念やしがらみという背景まで思いやれるようになれば、立派なものなのだが……
「女伯爵様は私めを陥れようとしたのではございません。ちょっとした座興、冗談でございますよね、閣下」
「む、その通りだ、騎士ブドリ」
シーバ家の修練には、おそらく最初から『毒』の扱い方、順応が含まれている。他の流派でも、修行の過程で何等かの薬物を摂取することは避けられない。だがシーバ家はむしろ積極的に『毒』を用い、敵を害し人間を操ることを極めた一族だ。
だがそれをあからさまにすれば、怖れられるだけでなく忌避の念を周囲から浴びることになる。流派の得意とする技を秘匿するという魔導における暗黙の了解に隠れ、内実を隠蔽することに最も熱心なのはシーバの一族なのであった。
まさか、俺のような小者からしっぺ返しを喰らうとは思っていなかったんだろうな。甘く見られたものだ。
元々シーバ家は、風や水といった攻撃力に劣る属性の技を得意とし、同じ魔導師と言っても軍事的には低く見なされていた。それを覆したのが先代の当主とそれを継いだこの婆さんだ。
二十年余り前ヴーランク東北部で起こった叛乱や、その後の旧諸侯との紛争において、毒の風や霧雨を使って千に余る敵を打ち破った。これらの功績により王宮に出仕することになったシーバ家は、婆さんの代でついに魔導師団第二席に昇りつめ、伯爵位を授爵したのである。
実は俺がリオスの協力で開発した『目潰しの粉の大量散布』という戦術も、このシーバ家の技術をネネムと研究した結果から得た発想に基づいている。相手は烏合の衆とはいえ、あれだけの数を一度に倒したことに注目したのだ。
だから女伯爵は知らなかっただろうが、俺はシーバ家の内情には詳しい。まあ、部外者としてはだがね。
「殿下に魔導の一般的な修行について話すことは、禁じられてもおりませんし必要でもあります」
あくまで一般的な説明だ。師匠に俺が何を教えられ指導されたかじゃない。
「まず最初に、魔素の存在や動きを感じられなければ、魔導師になることを諦めねばなりません。それは生まれつき目の見えない者が画家に、あるいは音の聞こえない者が楽士に、なろうとするようなものです」
チェリス婆さんは黙って頷き、王子と王女は眼を見張って耳を傾けている。この辺は、大人である伯爵夫人や侍女たちなら常識として知っているはずだ。
「魔素に対する感覚を持ち、その流れを感じ取れる者が夢の中で見つけるのは、他の同族の寝息とでもいうべき呼吸です。この場合呼吸しているのは空気ではなく、魔素であるので、常人つまり魔導師の才を持たぬ人間には感じ取ることはできません」
ここまで来ると魔導を『知る』人間以外には、根本的には理解できない。譬えで説明することはできても、それは本物ではないのである。
「人も魔物も、生きている限り空気を呼吸していると同時に魔素をも呼吸しています。身体の中で循環した魔素を出し入れしなければ、石化が進行し、最後に石になってしまうのはどちらも同じです」
伯爵夫人と二人の侍女は、この部分を聞いて怖ろしげに表情を強張らせた。ひょっとして身近に、魔導の過剰使用で石柱と化した人間がいるのかもしれない。
「呼吸というのは比喩ではありますが、それを止めれば致命的な結果になるという点では共通しているのです」
ネネムに出会ったばかりの俺もそうだったが、カロ王子も魔導の使い方を過てば致命的な結果を己の身に受けかねないという『覚悟』を、まだ持っていない。婆さんは俺が何故話をこっちの方向に持って行こうとするのか考え込んでいた。多分直ぐにも、婆さんが居合わせなかった場で、王子が俺に求めたものを察知するだろう。
「どんな時も、この『呼吸』を完全に止めることはできません。しかし魔素の出入りのため外部に開放されている『呼吸口』は脆弱で敏感であり、触れれば直ぐに閉じてしまいます。それが緩み、互いの『夢』にて触れ合うことができるのは、心を許しあった者同士の眠りの中でのみ……と言われています」
「それが『同衾夢』だと言うのですね」
伯爵夫人が忌まわしげに口角を硬くし、その後に呟いた。この女には、魔導の才が無い。だから『夢を交わす』こともできない。魔素が動いてお互いの心象を変容させる経過は、未知の生き物と粘膜を擦り合わせるような、おぞましい行為としてしか理解できないのだ。
老獪な伯爵夫人は魔導師との関係を憚り、こういう『偏見』を普段は押し隠している。だが彼女にとってその行為は、蜘蛛のような昆虫か水中に潜む軟体動物と褥を伴にするようなものなのだろう。
ただの人間である部分をまだ抱えている俺には、その異質さに対する恐怖を理解することができた。しかし同時に、魔素を操り魔導の技を振るう熱い全能感、人間を超えた何かになるあの瞬間を捨て去ることもできない。
この世界では魔導師は強者であり、弱者である彼らが否定することのできない存在なのだった。
「伯爵夫人。兵士が人を殺す力を持つ者であると同様に、我らは魔導を振るう力を持つ者です」
「なるほど、力を持たぬ者とは異質だということですか。その異質さに馴れろと」
「もし手を汚さぬ覚悟が無ければ、兵士にも魔導師にもなるべきではありません」
チェリスの婆さんが苦々しげに俺を睨み、最後に言う。
「カロ殿下は魔導師になることをお望みか。それにしても、酷い言いようだ」
「魔導の修行に片手間で取り組むなど、百害あって一利なしでございますから」
そう、俺は答えた。