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◆神聖歴千五百二十六年 七ノ月 第三十日 ラモレ渓谷 シャンボー城◆
その時俺はテラスの端にある狭間の向こう側で、何者かが身動きする気配を察知した。
「サティ!」
ジャッ、鋲を打った靴底が敷き詰められた石畳を踏みにじる音がした。俺は眼で追うことができたが、普通の人間には一瞬で姿を消したように見えただろう。四間ほどの距離を跳んで移動したサティは、狭間の向こうに腕を突っ込み、そこで掴んだ物を軽々と持ち上げた。
サティの手に首を掴まれジタバタしているのは、俺が着ているのと同じ黄色っぽい麻のお仕着せを身につけた、痩せた男だった。
「外壁に張り付いて隠れておりました。まるでヤモリのようなやつですな」
まだ若く、そう大柄とは言えない。高身長のサティに、まるで食べ物を盗んで捕まった野良犬みたいに持ち上げられ、ぶら下げられている。
「サティ、そいつの額を見ろ!」
声を上げないように喉を掴まれ、息ができなくなったのだろう。サティの指を開かせようと両手で掻きむしるように抵抗するが、鋼鉄でできているようにびくともしない。次第に紅潮する男の顔の、額の部分に『聖痕』が浮かび上がっていた。
「聖銀騎士団の、おそらく、従士です」
サティが問いかけるように王を見た。
「殺せ!」
躊躇いなく発せられた王の命にサティが一瞬首を傾げたのは、どういう方法でやるのがいいか思案しただけだろう。テラスを囲む胸壁の上に男を片手に掴んだまま跳び上がったサティは、大きくその手を振りかぶり、遥か下の地面に向かって勢いをつけてそいつを投げ下ろした。
「剣は使わぬ方がよいと思いましたので」
サティの説明に、王はちょっと気圧された表情を浮かべた。
「あー、頭が完全に地面にめり込んでいます。いくら『聖銀の加護』があっても、あれじゃあ首が折れているでしょう」
胸壁から身を乗り出して下の芝生を眺めた俺は、そう報告した。
「余は騎士オリザと話すことがある。本当に死んでいるか確かめてまいれ」
王にそう言われ、俺は仕方なく外壁を伝い下りた。近くに人目があると拙いが、さっきの男も外壁に掴まってぶら下がっていたのだから、多分見つかっても騒がれることはないのだろう。いや、そう願いたいもんだ。
地面まで下りてみると、男の首は不自然な方向に折れ曲がり、身体の方は微かに痙攣している。頭は土の中だ。辺りを見廻すと生け垣に囲まれ、先ほどのように上から眺めるのでなければ、直ぐに見つかることはなさそうだった。
気配を探るが、この異変を見て駆けつけてくる物音や、騒ぎを起こして人を呼び集める様子も感じられない。
俺は地面に頭を埋め込んでいる男の片足に手を掛け、力まかせに引っこ抜いた。歪な向きに折れた首と、半分潰れた頭部が露わになる。このまま放置しているよりはと、男の死骸を引きずり植え込みの奥に隠す。
血生臭い仕事には慣れてしまった俺だが、好んで手を付けたいとは思わない。だが夏だから、早めに手を打たないと臭いだしそうな生々しい死体の始末を、どうにかしなければならなかった。
先ほどの場所に戻って、地面にえぐられたように開いた穴の周囲を踏んで崩し、痕跡を隠す。俺に廻ってくるのは、こんな後始末や雑務ばかりである。
とりあえずの後始末を終えた俺は、建物の中に入り、もう一度先ほどのテラスに戻った。えっ、外壁を登る? そんな目立つこと、必要も無いのにするもんか。さっきは急いでたんだ。
王とサティはまだ屋上で話し込んでいた。先ほどの男が息絶えていたことと、死体を隠してきたこととを報告したが、どちらについても気に留める様子がなかった。サティによると、あいつのような小者が死んでいることが発覚しても、宮廷ではたいした騒ぎになることはないそうである。同じ『小者』としては、身につまされる話だ。
だが、よく考えてみると、ここは俺のような者にとってずいぶん危険な場所のようだ。戦場とは別の意味で、命の価値が軽い世界なのだろう。
「では、陛下の思し召しのままに」
サティは王様に頭を下げると、俺の肩を掴んで引きずるようにテラスの昇降口まで連れて行った。俺に話すことを王様に聞かれたくないのだろうと思い、文句も言わず付いていく。
「ブドリ、ネネムを探せ」
「お前はどうするんだ?」
「しばらく王のお守りだ」
「ロークスには?」
「自分はここを離れられんと伝えろ」
「ここにいる義理はもう無いだろ」
「ブドリ、そういう理由じゃない。聖銀騎士団の暴走を許すわけにはいかんのだ」
「王のためか?」
「この国を崩壊させないためだ」
「どう違うんだ?」
「王などどうでもいいが、戦役でただでさえ疲弊している民を、これ以上苦しめることはできん。今、国内が乱れれば、苦しむのは下の者だ」
「さすがは聖騎士様だな」
「人として看過できないというだけだ」
「はぁ、ご立派なことだぁな」
俺は溜め息をついて、サティの緑色の瞳を見上げた。相変わらずの頑固な眼差し。この石頭め!
「そうは言うけどなサティ、探せと言われても手がかりが無い」
俺だって師匠の行方が気がかりじゃなかったわけじゃない。例の感覚で、まだ生きているのは感じられるのだが、それ以外何も分からないのだ。
「魔導師団の第二席、チェリスが何を知っているか調べろ」
「毒霧の魔女、あの婆さんか……気が進まないなぁ」
王家の魔導師団については、前から情報を集めていた。俺たち『暁』に敵対する可能性は多々あったし、いろんな意味でネネムに絡んでくることが考えられたからである。
王家の魔導師団、第一席は侯爵、第二席は伯爵、第三席は子爵、第四席は男爵と、それぞれ爵位を与えられていた。もっとも宮廷爵の扱いだから、年俸は貰っているが領地は無い。それ以下の八人はいずれも準男爵待遇で、与えられている年金は五万銀エキュ以下だ。
第一席から第四席までの年俸にも差があるし、その他に血縁の魔導師を準男爵待遇で従えていたり、士爵待遇の郎党を抱えていて、その扶持は別枠で支給されていたりする。要するに王家は彼等の待遇に差を付け、互いに忠義を競わせようという腹づもりだったのだろう。
そのお陰というか、第一席の炎獄侯爵エビス・ビアレス・ド・レフィウスと第二席毒霧の魔女ことチェリス・ブランディ・ドナ・シーバの仲は良くなかった。もっともこれはエビスが派手な火炎魔法を得意とし、チェリスが駆使する毒魔術を陰湿で外道だと、露骨に見下していたことにも原因があったろう。
多分このせいでエビスは、ネネム襲撃の際、チェリスに声を掛けなかったものと思われる。ただし同じ魔導師団のチェリスを除く上位四名が参加している以上、彼女が全く関知しないということもあり得ないはずだ。
ましてや四人がネネムによって返り討ちにあった結果、魔導師団の戦力は大幅減となっている。残った八人が動揺していないはずがなく、付け入る隙はいくらでも見つけられるだろう。
「チェリスは第三王子と王女の護衛という名目で王都に向かうはずだ。多分、聖銀騎士団のいるここを離れて、体勢を立て直そうというのだろう」
「カロル王子とセシル王女は王都に戻るのか?」
「王太子夫妻や第二王子たちと離すのが目的だろう。毒殺を防ぐのにもチェリスは適任だ。なんと言っても、彼女ほど毒に詳しい人間は他に望めない」
『毒霧使い』の他に、『毒虫使い』とか『毒殺魔』の異名も持つ婆さんだ。確かに適任かも知れない。
「カロ王子は十二歳、セシル王女はまだ十歳だろう。それが毒殺の心配をしなければならないとは……」
「王家の継承争いには、年齢は関係ない」
「どういうことなんだ?」
サティの表情を見ると、さすがに幼い二人が暗殺の危機に晒されていることを快くは感じていないようだ。
「カロが王位を継げば、ヴーランクとポルスパインの王統は一つになり、より強固なものになる。王太子としても安穏としてはいられない」
「王が気を変えかねない、ということか?」
「ルミナ王妃にとってみれば、最も望ましい選択だ。しかもポルスパイン王家は源流を遊牧民の中に遡る。必ずしも長子相続には縛られないだろう。それどころかサリチェ法典を否定して、王女の王位継承権まで主張するかもしれん」