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四哀悲話  作者: 青田早苗
第三話、義を尽くした裏切り者の話
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第三編

 皆に囲まれ、祝福される桂花と毅は、そこにもう一つ太陽があるかと言うほど眩かった。桂花の祖父が最高の出来と自負する簪。春祭りの後、さらに刺繍を加えた晴れ着。桂花の花嫁姿はとてもきれいで、知らない人みたいだった。それを眺めながら、釈然としない思いを抱えていたが、ふわりと漂う金木犀の香りに、いつかの枝を渡した時の桂花の笑顔が甦り、安の口元にもようやく笑みが浮かんだ。例え、桂花が思いを向ける先が毅であっても、桂花が穏やかに笑っているのであれば良いのだと言い聞かせる。それが初恋であり失恋であると、やはり安は気が付いていなかった。そして、泰獄に来てからはずっとメダルの紋章に縋っていたのだが、いつの間にか桂花が心の拠り所になっていたことにも。

 桂花と毅の祝言の後、再びメダルを拠り所に日々を暮らしていたのだが。


 いつものように金木犀の木を眺めながら、メダルを握りしめていた日のこと。そのことに気がついた瞬間、座っている筈の地面が消えたのではと思うほどの激しい眩暈を感じた。突如背筋がひやりとし、同時に顔が熱くなる。呼吸が苦しくなり、全身から嫌な汗をかいていた。

 旦那様やスェヌカの顔が思い出せない。

 いや、それだけではない。イェストラブの言葉が出て来ないのだ。毎日、他の子ども達とじゃれあっていた時、スェヌカに怒られた時。一体自分はどうやって笑い、どうやって言い訳をしていたのか。

 あの邸での記憶が失われることは、安にとって何よりも恐ろしい出来事であった。必死に、記憶の鍵であるメダルを一際強く握りしめる。無理もない。イェストラブにいたのは五つか六つの時。泰獄に来てから五年以上経っているのだ。旦那様につながるのは手の中の小さな紋章だけ。むしろ、メダルの存在を忘れていないだけでも褒められるような年月であった。

 顔は浮かばずとも、旦那さまやスェヌカの期待が籠った眼差しは良く覚えている。その時の高揚感も。しかし、今はそれがより一層の不安を掻き立てた。

 これでは、イェストラブの使いを見つけても役目を果たすことができない。

 落ち着かないまま数日が過ぎたある日、安が住む長屋の隣に一組の家族がやってきた。神峰の北にあった国から流れてきたのだと言う。そこには安と同じ年ごろの娘が一人いた。あまり関わるつもりはなかったのだが、安が金木犀の丘に向かおうとしていた道すがら、長屋の前に小さな椅子を置き、そこに腰を下ろした娘が紐を編んでいた。安がいることに気が付いていないのか鼻歌が聞こえた。

「その歌…なんていう歌なんだ?」

 娘が驚いて顔を上げた。思わず声をかけたのは歌声に魅かれた訳でも、娘に興味が有った訳でもない。聞こえた歌がイェストラブの言葉に似ていたからだ。

『隣の子?』

 返ってきた言葉は、間違いなくイェストラブとほとんど同じ言葉。自分では話すことが出来なくても、まだ理解が出来る。そのことに安堵して笑みをもらしながら自分を指差し、安、と言えば、娘は笑って

『イェリナ』

と、答えた。


 その日から、安とイェリナは一緒に過ごす時間が増えた。金木犀の丘ではなく、長屋の前で二人は紐を編んだり、矢を作ったりしながら長いこと話していた。時折、顔を出すだけの桂花に至っては、嬉しそうにからかってきたのだが。

 イェリナは安が知らないことを沢山知っていた。色々な国の名前や、その都市の名前、その国の歴史。ただ、ほとんどはイェストラブになった国ばかりであった。イェリナのいた国がイェストラブに滅ぼされたのだと途中で安は気が付いたのだが、知らない振りをしていた。旦那様のお役に立つのだ、イェストラブに帰るのだ、それが安を支えていた。

 そして、少年だった安は青年と呼ばれる年ごろになり、イェリナと恋仲になっていた。もしも、イェリナが桂花に似ていたら、恋仲にはならなかっただろう。桂花の太陽のような笑みとは少々趣が異なり、イェリナは鮮やかで艶やかな笑みを浮かべる女だった。イェリナの話に時折出てきた南にあるという海を越えた遥か向こうの地。遠い土地に咲くという牡丹に似た花の刺繍をした衣をイェリナが身につけていたことがある。鮮やかで艶やかで。まさにイェリナはこの花のようだと思った。さらに丁度この頃、桂花と毅の間に芙蓉が産まれ、桂花への思いも初恋だと思って諦める術を成長した安は学んでいた。体は小柄なままであったが、イェストラブに戻るのだと心に決めて以来、今まで以上に剣や弓の鍛練には力を入れ、皆にも認められるようになっていた。イェリナとの仲も睦まじくなり、次の春祭りには揃いの衣装を着て行こうか、という話も出始めた。安も青年になって、ようやく安寧を求められることに幸せを感じ、傍らに誰かが居ることに喜びを覚えるようになっていた。

 ある日のこと。畑に行ったイェリナが戻って来ない。遅い時間ではないが、泰獄では畑仕事を終わらせた後は、それぞれの仕事がある。他の皆は戻ってきているのに、イェリナの姿だけが見えなかった。

 様子を見に行くか、外へ出ようとした時だった。

「安、いるか?」

 珍しいことに訪れたのは毅であった。戸を開けると、いつも穏やかな顔をしている毅が滅多になく険しい表情をしている。いや、険しい、というよりは冷酷な表情だった。安がそれを知ったのは毅と桂花が祝言を挙げた頃だったのだが、毅は各山の長の下で参謀役に付いていた。例えば、どの薬を外に売るか、食物をどう植えてどう割当てるかなどを決めるのだが、それだけではなく、泰獄の守りについても決めている。中でも、間者を見つけ出し、他国の情報を得る、という穏やかでない役を毅は担っていた。初め知った時は、自分が間者に含まれるという恐怖より、随分と似合わない人物に役を振ったものだと思っていたのだが、泰獄を守る為となれば、毅は誰よりも冷酷な人間だと後から気が付いた。

 今日、訪れた毅は役持ちの時の冷酷な顔の毅であった。

「イェリナを捕えている。お前が使っている弩の作りを写し、外に送ろうとしていた。それだけではない、砦の位置や兵の人数も。だが、どこの国に伝えているのか口を割らないのだ。」

 疑われている。

 確信した。イェリナがそう言ったのか、あるいは安が頼まれて教えてやったと思われたのか。確かに、安は間者だ。だが、イェリナ達とは利害が一致しない。こんなところで妙な嫌疑をかけられる訳にはいかなかった。俄かに胸元のメダルが熱を帯びた気がした。心当たりを探る振りをしながら、どう乗り切るか考えた。

「多分、北方のどこか、特にイェストラブに反する国のどこかだろう。昔、イェリナが泰獄に来た頃、色々な国の事を教えてくれたが今、思い出してみると皆、イェストラブに滅ぼされた国ばかりだった。」

「そうか…。会うか?」

「いや、良い。今、会ったら何をするか分からない…。」

 心底辛そうにそう言うと、毅はいつもの穏やかな表情になった。

「分かった。また来る。」

 そう言って去った毅が再び訪れ、イェリナは帰って来なかった。

 春祭りのために、と今から仕立てていた衣。さして愛着も湧かずに眺めていたそれは、手から滑り落ちる。その下にあったのは、イェリナがいつか纏っていた花の刺繍がされた衣。改めて眺めても美しい花だった。ただ、今になって見れば、毒々しい鮮やかさと禍々しい艶やかさのある花だと思う。もしかしたら、この花を食めばその毒に溺れていたのかもしれない。溺れる前で良かったのだと自分に言い聞かせた。

 とは言え、日々募るのは隣に居ない人への思慕の情。そんな安の心中を察したのだろう。桂花や毅が以前より頻繁に安の下に顔を出すようになっていたのだが、芙蓉を連れた二人並んでいる所を見ると、再び自分が手に入れられなかった物を手にしている毅の姿に、ざわつきを覚えた。

 手を伸ばした花には届かず、手にした花は散った。

 だが、手を伸ばした花を手にし、手にした花を散らせ、新たな花を得た者がいる。

 

 イェリナの一件以来、安は誰か一人の女性と親しくなることを止めた。良く言えば人当たりが良い、悪く言えば軽い男になった。案外、性に合っているとも自分で感じていた。気丈に振舞っていた安だったが、どこか様子がおかしかったらしい。毅と桂花が心配して、北山に来ないか、と誘ってくれた。悩んだものの、イェリナとの思い出がある場所を離れるのも良いかもしれないと、誘いに乗った。そこで北方の国、ルナルーチの末裔と出会ったのだ。その一家は桂花や毅と親しく、安も次第に打ち解けるようになっていた。ルナルーチから来たデュムバとヘレサの夫妻を毅は始め警戒して近づいていたようだが、ルナルーチが完全にイェストラブによって吸収されたこと、他の王族も在る程度行方が知れておらず生きている可能性があること、それから二人がルナルーチの再興をほとんど口にしなかったことから、友人として接するようになっていた。

桂花やヘレサが嬉しそうに子ども達の成長を見ている姿は、自分が知らない母親の姿を描き、愛らしい芙蓉やルナルーチの色彩を受け継いだパトゥラの様子に口元はほころぶ。ただただ穏やかに春が訪れ、緑が夏を告げ、秋が巡り、静かに冬が過ぎる。

 このままの日々が続けば良い。

 そう思う都度、懐に入れた守り袋がずしりと重みを増す。決して旦那さまへの恩を忘れたことはないし、どんなに感謝しても足りないほどだ。しかしながら、己に期待されているのが、この優しい神域を汚す様な役割だとしたら、それは到底果たすことのできないものであった。

 紋章を持った人間など来なければ良い、祈りを知らなかった男は毎日のように神峰を眺めてはただそれだけを思っていた。それを祈りというのだと知った頃には、成人を迎えていた。芙蓉やパトゥラもよく懐いてきたし、毅へのわだかまりも上手く消化することができるようになっていった。

 だが、そんな穏やかな年月としつきは、一夜にして覆った。


 その夜は、三日月が空で笑う夏の夜。ヴラナの夜。

 ヴラナが攻めてくると言う情報に戦の用意をしている最中、突如響き渡った警笛に駆けつけた先で目にしたのは地面に倒れ伏す桂花。あの溌剌とした花の精霊のようだった桂花が、身にまとった輝きを失い、あの街で倒れていた人間と同じく地面に横たわり雨に打たれていた。何人かのヴラナ兵が倒れていて、敵がこの神域に足を踏み入れていたことを知った。

 さらに集落では凄惨な戦いが始まっていて、穏やかな日々は失われていた。戦の準備をしていたため、集落に残っていたのが、子どもや妊婦ばかりだったのがさらに不幸を招いた。

 朝になり、川に面した砦の側で戦が始まったが、集落の側では禁賊が優位になっていた。桂花を殺したヴラナの兵士を見つけたら八つ裂きにしてやる、それほどの憎悪をたぎらせていた。人目が無ければ泣き叫びながら走り回って、片端からヴラナ兵に切りかかって行っただろう。それを押しとどめたのは、静かな、しかしながら嗚咽を堪えた毅の声であった。

「安、お前は動けそうな男手を集めて、北山を一通り見回ってくれ。」

 惨劇の夜が明け、憔悴しきった毅が長の役割を果たす。毅は役持ちになってからは、滅多なことで自分の為の願いを口にしなくなった。例え口には出さなくとも必死の形相で安に縋ってくる毅の意図を安は察した。

「大丈夫だ、芙蓉ならすぐ見つかるさ。」 

 力強くその肩に手を乗せて励ました。安が毅を思いやっていたのは事実だ。芙蓉のことを心配していたのも事実だ。ただ、肩に手を置くと言う動作が安ですら気が付くことの無い自身に生まれた微かな優越感を示していた。

 しかし、歩けど歩けど見つかるのは死体ばかり。時折、禁賊とヴラナ兵の両方で虫の息の者がいたが、敵味方に関係なく安はとどめを刺した。一人、足を切られていたヴラナ兵がおり、そこそこの身なりをしていたため館に送る。毅の尋問を思い、殺してやった方がどれだけ親切かと溜息をついた。日が高くなり、そして傾き始めても結局芙蓉とパトゥラは見つからなかった。

 死体が見つからないということは生きているということか。だが、これだけ探して見つからないことと、二人の容姿を考えれば連れ去られたのかもしれない。汗と共にじわりと滲む焦燥感を横からさす太陽が掻き立てる。

 北山の館から上がる狼煙に、疲労と心労を感じて山を登った。死んだ仲間の名が読み上げられるとともに、怒りと悲しみに頭が支配された。桂花の名前が聞こえ、芙蓉だけでもと落ち着いて居られなくなった。

 その時。

 探していた二つの影が広場の真ん中に転がり込んできたのだ。

「聞いて!!昨日、ヴラナの兵が襲って来たのは、手引きしたやつがいたからだ!!」

 パトゥラの声が広場に響く。そちらを見れば芙蓉の手を引いたパトゥラが、泣きそうな顔で毅に剣を向けていた。パトゥラも芙蓉も雨が降ったあとの山を駆けずり回っていたのだろう。泥だらけだった。思いがけないことに頭が混乱した。

「俺の父さんと母さんが、舟の縦穴からヴラナの兵を手引きしてるのを見た!!芙蓉も一緒に見てた!!きっと、父さんと母さん以外にもいる!!」

 どういうことだ。

「桂花おばさんは、俺達を助けようとして殺されたんだ!!」

 息を飲み安は毅を見た。毅はいつかの冷酷な表情でデュムバとヘレサを見つめていた。あまりの冷たい視線に反って安は冷静さを取り戻したくらいだ。

 だが、それはその時だけのこと。二人が謝罪の一言も無く、罰を受け吊るされて死んでいく姿を見ている内に、徐々に安には怒りが湧いて来た。両親に罪があってもパトゥラに罪がないことは分かっている。しかし、理屈と心はしばしば相反する物だ。パトゥラが成長して父親の面影を見せる都度、桂花の最後の姿が思い出され、心の奥底に沈めていた怨みが顔を出す。

 毅とともに道を歩いていた時、反対側からパトゥラと芙蓉がやってきた。だが、パトゥラは泥だらけだし、芙蓉は泣きべそをかいていた。良く見れば、パトゥラほどではないが、芙蓉も少し汚れていて、左の頬が赤くなっていた。

「芙蓉、パトゥラ、どうした!」

「父様!」

「長殿、すみません。俺のことを芙蓉が庇って。」

 毅が慌てて芙蓉の怪我を確かめるが、幸いなことに大したことはなさそうだった。

 どうやら、誰か、誰かと言ってもパトゥラは知っているのだが、怨みを買った人間に殴られている時に、芙蓉が割って入って殴られてしまったらしい。かっとなった体を落ち着かせるように息を吸う。この男のせいで、今度は芙蓉が傷つけられた。きっとこの先、こういう事がいくらでも起こるだろう。この男がいる限り。

「パトゥラ、誰にやられたのか、今日は言いなさい。」

 常ならば、絶対に誰に殴られたのかパトゥラは言わなかった。絶対に言わないことが分かってからは、毅も無理矢理聞き出そうとはしていなかったのだが。

「大人だろう?これをしてきたのは。子どものケンカでこんな怪我にはならない。」

 しばらくパトゥラは逡巡していたが、やがて何人かの名前を出した。芙蓉が怪我をしたということで、口を開く気になったのだろう。ふっと、毅の肩の緊張が少し和らいだ。

「パトゥラ、お前が悪意をしょうがないと受け入れる必要なんてない。何度も言っているが、お前は悪くないんだ。いいか、この怪我、今は腫れるぐらいかもしれないが、前よりも酷くなっている。そのうち、間違いなく命に関わる怪我になる。」

 はっとしてパトゥラが顔を上げた。芙蓉が怪我をしたから、毅は怒って怪我をさせた人間の名前を聞いたのだと思っていたのだが、一杯喰わされたようだ。

「無事でよかった…。痛かっただろう?」

 そう言って毅は泥だらけのパトゥラを抱きしめたのだ。

 安はその場にいることが耐えられなかった。毅がパトゥラを受け入れた姿を見せられる都度、自分は矮小な人間なのだ、毅のように出来た人間ではない、と思い知らされる。だから、花を掴むことが出来なかったのだとあざ笑われている気分になる。

 仕方ない。自分は、いつか泰獄を裏切る人間だ。きっと怨みを買う側になる人間であって、毅のように尊敬される人間になどなれないのだ。

 


 それでも月日は流れ、ヴラナの夜が十年も前のことになった頃。

 後々になって安は、この日が事の始まりだったとも思った。

 今年もまた夏が終わり、金木犀が咲き始めた。ヴラナの夜以来、毎年、薬用の花が摘み終わった頃、安は丘を訪れて花の付いている枝を一枝切る。あの頃は届かなかった枝に、今は簡単に手が届くようになっていた。

 桂花の墓に向かえば、そこには数日前に手向けられたと思われる花束が枯れて揺れていた。恐らく、毅が来ていたのだろう。墓を訪れるような知己が少ない安は滅多に墓に来ることはなく、毅と会うこともなかった。

 そう言えば、貴蘭が死んだ時には毎日のようにここに来ていた毅は、桂花が死んでも月に一度程足を向けるだけだった。きっと、桂花を蔑ろにしているのではなく、毅にも大事な物が増えたのだろう。死んでしまった桂花の事ばかりではなく、周りにも目を向けられるようになったのだ。あの頃は、人の心が分からなかったせいか、毅に向かって随分な事を言ってしまったと思い出す。

 今年も枝を桂花の墓に手向ける。

 そっと目を閉じると、静かに桂花の記憶に思いを馳せる。

 桂花が死んで、それを受け入れられるようになって、祈りの意味がようやく分かった気がした。桂花が穏やかに眠れていれば良いと、心の中で確かに願っていた。

 目を開けると、墓石の前には自分が手向けた金木犀の枝。

 あの頃は届かなかった枝に今は手が届く。だが、あの頃は手を伸ばせたはずの花はもう二度と掴むことはない。

 桂花はもう居ない。あれから、十年も経ってしまった。


 遣る瀬ない思いを抱えて、墓地に後にする。今日くらい、金木犀の花を眺めて想い出に浸っても良いだろう。そう思って、再び金木犀の丘へ向かう。ずっと足元を見ながら歩いていて、ふと顔を上げた時、驚きのあまり息を飲んだ。

 夕日を後ろに、桂花が立っていたのだ。

「安おじさん。」

 だが、人影が口を開けば、すぐに勘違いだったと分かる。静かな抑揚の無い声。芙蓉だった。墓参りに行くのか。普段は使っていない筈の、桂花が作った簪が髪に刺さっていた。桂花の想い出話くらいしても良いだろう。その時だ。

「安殿、ご無沙汰です。」

 パトゥラがやってきた。パトゥラも年々、父親そっくりになってきた。誰よりもその色を厭っているにも関わらず、血脈を露わにする色彩。俗世を悲観したような陰のある笑み。それでいて意志だけは力強く爛々として薄暮の色をした瞳に輝く。毅や芙蓉の手前、安も怨みをパトゥラにぶつけることはなかったが、決してそれが無くなることはなかった。むしろ、年々、あの男に似て行くパトゥラにより一層怨みは強くなるばかり。

「芙蓉、これくらいで良いのか?」

 その手に抱えるのは金木犀の枝。計り知れない屈辱感が安を襲う。桂花の枝を、桂花との思い出を汚されたようだった。眩暈を覚えた。

「ええ。ありがとう。じゃあ、安おじさん、また。」

 ふわりと金木犀の花の香りが鼻をかすめ、芙蓉の姿が桂花に重なる。

 その手をパトゥラが握った。毅が金木犀の枝を切った時と同じ憤りが、また安を襲った。あの男が桂花の枝を手折るなど。あの男のせいで桂花は死んだと言うのに。


 夕陽の色に桂花の瞳が甦る。

 夕陽が山の陰に消えて行き、桂花の思い出もまた消えた。

 やはり、桂花の枝には手が届かないというのか。


 もはや枝に手が届かないのなら、木ごと燃やしてしまいたい。苛立ちと共に家路についた。やけ酒でもして寝てしまおう。

 そんな風に思っていたのだが、今日は人によく会う日だった。友人の一人が家の前に立っていた。

「安、ちょうど良かった。悪いが見周りに来てくれないか?見慣れない人影があったと。砥水の二番と三番砦の間辺りだ。」

 酒はこいつに奢らせるのが良いかもしれない、などと考えながら弓矢を背負い、剣を佩いた。日が暮れたため薄暗くなってきたが、まだ辛うじて色が判別できる。灯りが必要になる前に事が済めば良いのだが、と考えながら足を進める。

「おい、あそこ誰かいないか?」

 友人のさす方向を見れば、確かに木陰に衣の様なものが見えた。安がその場にとどまり周囲に注意を払いながら弓を構え、急襲に備える。友人は草に隠れながらそっと近づいて行った。気配を感じて振り返ると、人影。頭に布が巻かれていないのが分かり矢を放った。近い所から射られたせいで、矢は人影の腕を通り抜ける。それでも人影は反対の腕で剣を振り上げた。剣を抜いてそれを受けると、背後でも友人が別の人影と切り結ぶのが見えた。間者を見つけた場合、なるべく殺さないようにと言われているがそんな場合ではない。剣を払ったが、相手の剣が安の太ももをかすって落ちた。その痛みを堪えながら、自分の剣で相手の腹を突き刺す。呻きを漏らした敵を蹴り飛ばすようにして剣を抜き、返り血がかかるより早く身をひるがえすと、友人に剣を振り下ろそうとしている人影に向かって矢を放った。

「助かった。ありがとな。脚、大丈夫か?」

「ああ、大したことはない。」

「人を呼んで来る。待ってろ。」

 腹を刺した方は、辛うじて息が有ったが長くないことがすぐに分かった。もう一人を押さえつけ、縄をかけようとした時。

 水底の泥を掻きまわした時のように、濁りの中に何かおぼろげな記憶の影が見えた。闇に包まれ始めた視界の中で微かな燭台の光が揺れた。

 注意深く捕えた間者を見つめると、とある一点に目が釘付けになる。イェストラブをはじめ北方の国々の衣服は立襟に模様が刺繍されていることが多い。立襟だけが生地が異なっているのだが、刺繍の下の生地にメダルと同じ紋様が織り込まれていた。毎日毎日、言われた通りに必ず見ていたメダルと同じ紋様だった。

 だが、それだけでは安心できない。何と尋ねるのが一番良いのか。

『お前はスェヌカの使いか?』

 辺りに誰もいないことを確認すると、間者の手首を結ぶフリをしながら小声で聞いた。実際は簡単に縄を巻きつけているだけだった。もう辺りは暗くなっていたが、泰獄ではどこでだれが見ているか分からない。特に外の人間を捕まえているのを見れば、誰かが見ていると思って動かなければならない。

 間者は安がウルスク語を使ったことに驚きながら、『お前はアンジョルか?』と質問を返した。

 アンジョル。間違いない。

 その響きに泰獄に行くことを命じられた日の高揚感が再び胸に訪れて動悸が速まるのを感じた。旦那様もスェヌカも自分のことを忘れていなかったのだ。期待をかけてくれていたのは本当だったのだ。さきほど殺してしまった間者が少し哀れになった。

 あのメダルを手に取りだすと、間者に詰問しながら見せる。

『誰に見られているか分からん、多少、手荒にするが、お前を連行しようとした所で適当に逃げてくれ。』

 そう言うと、間者を一度蹴り倒して、顔の近くにしゃがみこむ。

『何が必要だ。』

『それぞれの山の人口、戦力、砦の位置。指令からの砦までの距離。それから、冬の食料の備蓄。』

 出された支持は的確で、イェストラブは確実に泰獄を落としに来るのだと察した。

 あまりの運の良さに、安は苦笑した。昨日、この間者を捕まえていれば、果たして自分は教えただろうかと。

 その全てに過不足なく答えれば、間者は二三度それを繰り返す。

『お前を逃がした後は東のヴォストクの間者かもしれないと伝える。この後、山に入ろうとするならば、西側から来ることだ。』

 間者を引き立てて、襟首を両手で掴んだ。灯りがいくつかこちらに近づいてくるのが見えた。

『良いか、後ろ手で密かに縄を切ったら、俺に体当たりをした後、鞘で殴って剣を奪って逃げろ。頭に布を巻いて行け、その方が目立たない。ここからなら砥水の向こう側に渡ることができればすぐ逃げられる。』

 そう言うと、肌着の袖を千切って包帯代りにすると、安が射た矢を途中で折って固定する。

『ところで、スェヌカの主の名前を教えてくれないか?』

 間者は一瞬呆れたような顔をするが、安が幼い頃に泰獄に入った人間だということは聞いていたのだろう。

『ゲルヅォク様、いや、閣下だ。』

 そう、教えてくれた。安が指示した通り、間者は体当たりをして転んだ安を鞘で殴り剣を奪い上手く逃げおおせたようだった。

 だが、安の予想より殴る力が強く、昏倒していたようだった。目が覚めたら次の日になっていて、寝返りをうとうとしたら瘤が出来ていて痛んだのはご愛嬌。

 気を失っていたため、安は自分が禁賊にとって裏切り者になったという意識が薄いままに日々を過ごしていた。だが意識が薄いことで反って普段通りの生活を送ることができ、間者を逃がしたのではないかという毅達の疑惑を逃れることが出来たのは幸運でもあり皮肉でもあった。

 安自身も、半分忘れかけて冬を過ごしていたが、やはりあれが現実だったと思い出すのは、冬が終わり春祭りを迎えた日だった。

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