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四哀悲話  作者: 青田早苗
第三話、義を尽くした裏切り者の話
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第二編

 正確な年齢は分からないものの、泰獄に来た時に少なくとも七つにはなっていた筈だったが、体つきのせいかいつも幼く見られていた。幼い頃の生活が悪かったからだろう、周囲と比べても随分小柄な子供だった。さらに、あまり口を利くなとスェヌカに言われていたことも有り、ほとんど喋らなかったことから、五歳くらいだと皆には思われていたようだった。それだけではなく泰獄に来てしばらくは、安は人を拒んでいた。周囲からすれば当たり前だろう。幼いとはいえ親に捨てられたのだと悟ってしまったのだ、そう思われていた。あながち間違った考えではなくて、毎日のようになぜ旦那様の元から離されてしまったのか、自分が出来損ないだったからではないのかと、安は気に病んでいた。泰獄ここではそれを口に出すことを許されないと幼いながらも安は理解していた。

 故に、安は泰獄で孤独だった。それまで孤独という言葉を安は知らなかったし、孤独だとも思わなかった。あの薄暗い路地に居た時と同じ筈だった。しかし、共に励む友人や、叱咤を与えてくれるスェヌカ達、そして期待を向けてくれる旦那様、人と関わることを知ってしまった故に、安は泰獄で孤独だったのだ。


 安が住んでいた場所の近くに金木犀の高木が立ち並ぶ丘がある。泰獄には薬師達が何人もいて、薬師達は金木犀の花を取って煎じ薬を作っていた。そのため、花が咲く秋以外にはあまり人がおらず、一人になりたい時に安はここへよくやって来た。

 初めて、泰獄で秋を向かえたとき安は驚いた。薄暗い路地裏では嗅いだことがない、甘い匂い。旦那様の元に居た時、高貴な女の客人が訪れた後に漂っていたような、華やかな香り。燭台の光を跳ね返す金の装飾のような、小さく可憐な花。緑色の草の上に赤と黄色が混じった小さな花が点々と散っている様子は、旦那様の部屋の絨毯のよう。泰獄の中で唯一、安がアンジョルであったと思い出させてくれる場所が金木犀の丘だった。

 旦那様もスェヌカも言っていたではないか。お前にしか出来ない、と。決してイェストラブの生まれだと知られてはならない。それこそ、旦那様を失望させてしまう。

薬師達に仕事の邪魔だと追い払われるまで、毎日のように来てはあの日々を忘れまいと守り袋を握りしめては「旦那様のお役に立つのだ」と自分に言い聞かせた。



 泰獄で暮らし始めた安だが、苦手な人間が三人いる。一人は山で震えていた自分を見つけた男の一人娘、桂花。そして、桂花がよく一緒に居る毅と貴蘭という少し年上の二人。

 桂花は安が出会ったことのない類の人間であった。よく怒り、よく笑い、よく話しかけてくる。安が聞こえない振りをしていても、返事をするまでしつこく話しかけてくる。体が良くなってからは無理矢理、他の子ども達の所にも連れて行かれ、やりたくもない遊びに付き合わされた。

 毅と貴蘭は桂花とは異なった意味で、安が出会ったことのない類の人間であった。穏やかで、寛容で、優しい。悪意の塊みたいな人間はいくらでも知っていたが、毅と貴蘭は善意の塊のような人間であった。スェヌカや他の大人たちももちろん優しかったが、彼らの優しさは安に何か対価を求める優しさだった。余程、スェヌカ達の方が安には理解出来た。未知の物に対する怖れが、二人に対する畏れとなった。誰かに抱きしめられた時の温もりと柔らかさは、旦那様の元へいた時にも経験したことのないものだった。

 ただただ安は戸惑い、そして戸惑いつつも徐々に泰獄での生活に馴染んでいった。

 泰獄に馴染めば馴染むほど、旦那様やスェヌカ達のことを忘れてしまうのではないかという不安が押し寄せる。その度に、金木犀の丘に座り、懐の中の守り袋を握ってはメダルの感触を確かめていた。


「いつもここで何してるの?」

 ひょいと、桂花が金木犀の葉の陰から顔を覗かせた。金木犀の花と同じ橙色の瞳がきらきらとしていたことだけを覚えている。守り袋から慌てて手を離して、何でもない、と顔を背けた。慌てた動作を気にする風もなく桂花は木を見上げた。

「知ってる?これ、私の木なの。」

「なんで桂花のなんだよ。みんなの木だろ。」

「違うわよ。私の名前。私の目の色ってこの花と同じ色でしょ?だから、桂花って名前になったの。」

 にこりと桂花が笑った。途端、桂花が金木犀の精霊に見えたのだから不思議だ。花と同じ色の光を纏い、この世界から浮き上がって見える。

「良い香り。」

 立ち上がって匂いを嗅ぐ桂花の姿を目で追い、初めて地面ではなく上を見上げた。艶を帯びた厚い緑の葉、それを飾るような可憐な花。地面に敷き詰められた花も美しかったが、それ以上だった。

 ふと、思う。

 花をつけた枝を一枝、手に入れられないだろうか。

 薬草のための木なので、枝一本とは言え勝手に手折ることはできない。それに薬師達の決まりで、咲き乱れる金木犀の花はある高さまでは種つけ用、ある高さまでは煎じ薬用と、決められていた。手を伸ばしても到底届かないような高さにしか花は残されていなかった。

 あと少し、あとほんの少し。早く大人になりたい、と安は茂った葉をもどかしげに見上げたのだ。



 冬の間、泰獄は深い雪に覆われる。人々は皆ほとんどを家の中で春に向けての支度をしながら暮らすが、子ども達は別だ。外に出ては雪を丸めて遊ぶ。特に桂花は毎年、率先して子どもたちを引っ張り出すのだ。自分が遊びたいからなのは間違いなく、雪遊びを一番楽しんでいるのも桂花であった。

 桂花に誘われて雪遊びに繰り出した後、ついでに薪になりそうな枝を拾って帰ろうと集落を少し離れた。

 泰獄では家々の軒下を囲い、両端に出口を作る。一番雪深い時期には軒の高さにまで雪が積もり、上から見下ろすと白い雪原に黒い大蛇が埋まっているように見える。

 どこかで見た光景だなと思案を巡らせ、あの薄暗い街で見たのだと思い出した。たまに道端で死んでいる動物にんげんがいると、こんな具合だった。あの街の暗部を覆い隠すように、行き倒れた人間の上に積もる雪。本当に雪が多いと、春になってから見つかる死人もいたくらいだ。自分も旦那様に拾ってもらってなければ、あんな風に倒れていたのだろう。凍って動かない腕を必死に曲げて上着を剥ぎ取ったのは覚えている。ようやく上着を手にした時には、死人の足は雪に埋もれて、自分が生きているのだと優越感を覚えた。自分は生き延びていて、名前も知らないこの人は冬を乗り越えられなかったのだ、と。

 この記憶は要らないな、と思いかき消すように頭を振ると、薪を抱えて集落を目指した。


 同じ年の冬、もうすぐ雪解けが始まるという頃のことだった。貴蘭が死んだ。

 風邪をこじらせて、肺を悪くしたのだと聞いた。元々ほっそりとして儚げな人であったが、もう動かない貴蘭はすっかりやつれていた。泣きべそをかいていた時に優しく抱きしめて、撫でてくれた貴蘭の手を思い出す。枝のように細くなってしまった手を見て、もう撫でてくれることもないのだ。そう思うと、急に息が苦しくなった。それを悲しみだと、まだ安は気が付かなかった。嘆き悲しむ桂花や毅の心が分からなかった。

 毅は心を半分、貴蘭の元へ送ってしまったのではないかと思うほど、遠くばかりを見るようになった。時折、いつも隣にいた貴蘭に微笑もうとして誰もいない空間へと視線を向けては、悲しい表情をする。

 毎日、毎日、毅は花を持っては貴蘭の墓へと足を運ぶ。安も桂花と一緒に付き添っていたが、毅の隣にいて半ば纏わりつくようにして必死に話しかける桂花と、それにうっすらと笑いながら相槌を打つ毅を後ろから眺めていた。毅は何故あんなにも桂花が気遣ってくれているのに、いつも通り笑ってやらないのか。桂花が泣きそうな笑顔で話しかけているのに気が付いていないのか。ささやかな苛立ちが墓に手向けられた花の数と同じだけ溜まって行った。

「なんで、毎日墓に来て、目を閉じるんだ?」

 苛立ちとともに募った疑問をぶつけたのは、春が過ぎ去り、夏も終わりに向かう頃だった。

「なんで、って、貴蘭の為に祈ってるからに決まってるでしょ!!」

 毅が口を開くより早く、桂花が顔を真っ赤にさせて怒鳴った。

「だって、貴蘭は死んだんだろ?貴蘭の為にって、死んでるんだからどうしようも無いじゃないか。」

「あんた、一体何言って...。」

 桂花が絶句する。

「それに祈るって何するんだ?」

 少年は神を知らず、祈りを知らずにいた。

「貴蘭が穏やかに眠れるように心の中で思うのよ。あんたってば...。」

 さっきの怒りは何処へ行ったのやら、投げやりに桂花が応える。

「俺、ずっと思ってたんだ。毎日、毎日、ここにきて目閉じて墓に向かってるけど、それより目開けて桂花とか周りに向いた方がいいんじゃないか?毎日、長い間ここにいて、目閉じてても無駄だと思うんだ。」

「安!」

 また桂花が顔を赤くした。握りしめた両手はぶるぶると震え、今にも安に殴りかかってこようとしている。

「桂花。やめなさい、安が正しいんだよ。」

 止めたのは穏やかに笑った毅であった。無性にその穏やかな笑みに腹が立った。分かっているのなら、なぜ、と。貴蘭が死んでしまって悲しんでいるのは桂花も同じだ。しかし、桂花は毅に悲しい思いをさせまいとしているのに。なぜ、毅は悲しんでいる桂花に辛い思いをさせるのか。


 雪が溶け、段々と温かくなるのとともに毅は徐々に元に戻っていったようだったが、やはり前とはどこか違う。桂花もやはり寂しそうにしていた。そんな桂花の姿を見ている内に、何とかして桂花を笑わせてあげたい、そう思うようになっていた。しかし、中々良い考えが思いつかなかい。それでも憎まれ口を叩いてやると、桂花は怒りながらも悲しい顔をしなくなったので、毎日桂花をからかった。だけど、やはり桂花は笑ってくれないのだ。

 どうしたら良いのか途方に暮れては毎日金木犀の木の根元で考え込んだ。秋になり花の香が辺りを包む。

 金木犀を一枝、手折って贈れば桂花は元気になるのだろうか。また、前のように笑ってくれるのだろうか。

 手を伸ばしたがやはり枝に手は届かなかった。

 ふうっと溜息をついて枝を見上げた。桂花に枝を贈りたいだけなら、大人に折ってもらえばよかったのだ。自分の手を届かせたいという思いの裏に潜む感情を、人に関わらないでいた安は気が付かなかった。

 きっと次の秋には届くだろう。そんな期待を持って、再び冬を迎えた。


 この年は不思議な事が起きた。いつもなら真っ先に針仕事を放り投げる桂花が、誘っても全く外に出ようとしない。むしろ鬼気迫る様子で針を進めていた。元々手先が器用な桂花が脇目も振らずに縫い続けている刺繍は本当に美しいものばかりだった。深緑の生地に黄色い糸で複雑な模様が施されて行く。この衣を着た桂花は間違いなく、金木犀の精霊の化身になりそうだった。


 桂花は、いつも安が思いもつかないような事ばかりする。

 安が泰獄に来た日、熱を上げて寝込んでいるのを見て、冷たい手ぬぐいを額に乗せていたのだが、もっと手っ取り早い方法をと考え枕の代わりに水を張った桶を置いたり。桂花の作った料理に美味しいと言えば、次の日に鍋一つに同じ物を作り父親に呆れられていたり。最近では、安に気があるような素振りをした娘がいたらしく、しきりに二人を会わせようとしたり。

 全部、的を外したことばかりなのだが、安を可愛く思ってやっているのだろうということは分かる。

 だが、春祭りの日の桂花の行動は、予想の遥かに超えるもので、安はしばらく動けなかった。

 皆の前で毅に求婚したのだ。それも随分と破天荒な求婚だった。

「あたし、毅のことが大好きよ!小さい時からずっと大好き。毅が笑ってくれるのが一番嬉しい。だから、あたしがずっとそばに居るから!」

 必死になって毅に取りすがる桂花の目には、他の誰も映っていない。思わず、その場を後にした。それでも桂花が訴える声は周囲の喧騒にも関わらずはっきり聞こえた。

「あたしが寂しかった時、毅と貴蘭が助けてくれたもの。毅が寂しいならあたしが助ける番だから。だから…。だから、そんな悲しい顔しないでよ!ねえ?」

 上擦った声は今にも泣きだしそうで。だが、その後の毅の返事は聞いていなかった。

 ただただ、何とかして、桂花をもう泣かせたくない。その思いを抱えて向かったのは勿論、金木犀の丘。冬の間、雪の重みに負けないようにと、枝先を切られ、囲いをされていた。緑色の葉も多少は残っていたが、みすぼらしく点々と残る様は反って痛々しかった。と、枝を見上げて気が付いた。

 秋から比べて随分身長が伸びていた。これなら、きっと花が咲く頃には枝に届くに違いない。桂花に、秋になったら桂花の花をあげるって約束しよう。そう思って薬師達のところへ駆け戻る。

 春祭りの広場で薬師達は、冬の間新しい調合を考えた薬を披露目していた。

「お願いがあるんです!秋になったら、金木犀の枝を、花がついた枝を、ほんの先だけで良いから取らせて下さい!」

 突然、転がり込んできた安に薬師達は驚きながらも、いつも安が金木犀を見上げていたのを知っていたためか、快諾してくれた。

 これでようやく桂花が笑ってくれる。

 一方、薬師達は少々勘違いをしていたのだろう。皆の前で求婚した桂花と、それを受け入れた毅。きっと、安は二人を祝うために、金木犀の枝を欲しがっているのだ、と。喜ばしい勘違いを抱えたまま、安は春祭りの会場に戻った。

 そこで見たのは、貴蘭が死んでしまってから長い間見ることなかった、桂花の笑顔。まるで太陽の様な、まるで金木犀の精霊の様な。輝かんばかりの笑顔であった。その隣に立つ毅もまた、長く見ていなかった笑みを返す。いつもは静謐な湖のような青い瞳が、今日ばかりは光を跳ね返す水面みなものようだった。

 安は、嫉妬を知らなかった。路地裏で生きていた時、暖かい光が窓から零れるのを見たり、あるいは家族の笑い声とともに夕餉の匂いが漂ってきたり、またあるいは街の子どもが母親に抱きついているのを見たり、自分が得られない物を持っている人々を見ても、嫉妬などしなかったのだ。だから、胸の内に湧き上がる苛立ちとも悲壮感とも言えない何かの正体を知らなかった。

 ただ、湧きあがった何かを幼い安は胸の内で飲み込み切れず、毅に殴りかかった。避けられるか止められる筈だった拳は毅の脇腹に当たる。もちろん、小柄な安の拳など大した威力も無く、毅はほんの僅かに足をふらつかせただけだったが。

「安!」

 桂花が怒って腕を掴んだ。周りの大人たちは大して気にしていないのか、祭りを楽しんでいる。姉のように慕っていた桂花を取られて悔しいのだろうと温かく見守っていたのだ。

「何だよ!だって、おかしいだろ!!桂花に謝れよ!ずっと桂花にだけ辛い思いさせてたのは毅だろ!貴蘭が死んで桂花だって悲しんでたのに!」

 思う所があったのか安の腕を掴む力が弱くなった。ほんの少し、喧騒が小さくなった。

「そうだな。」

 静かな毅の声が響く。

「桂花、すまなかった。いつも励ましてくれていたのにな。桂花だって辛かったのに、励ましてやれなくて済まなかった。」

 桂花は思わず顔を伏せて、涙を拭う。

「それに、安も。ありがとうな。お前はいつも正しいことを言ってくれる。」

 青い瞳が優しく見つめてくるが、その寛容さがより一層腹立たしい。子どもらしく、ふい、と、顔を背けると二人を残して立ち去ったのだ。


 それからは、桂花と毅は忙しそうにしていた。今まで通りの暮らしをしながら祝言の準備をするのだから、当然と言えば当然だった。安も、今まで逃げ回っていた勉強や武術の稽古を大人しく受けるようになってきた。その甲斐あって、文字もすらすらと読めるようになったし、小柄ながらもしっかりした体になった。時間が経つに従って、春祭りの時に感じた怒りや憤りは形を潜めた。

「そういや、結局、おめでとうって言ってない。」

 安も十を越えて、中々素直になれないことも出てきた。おめでとうと桂花に言ってやりたいのだが、あんなことをしてしまった手前、気恥かしくてどうして良いのか分からないのだ。

「お、安。今日、煎じ薬にする分の花摘みをするから、明日になったら、枝、持って行っても良いぞ。」

 悶々と悩んでいた時、通りかかった薬師の一人が声をかけて行った。そうだ、桂花の枝を、金木犀の枝を持って行ってあげよう。そうすれば、花を乾かして花嫁支度の香り袋に入れることもできる。

 その晩は珍しく中々寝付けなかった。


 寝付きが悪かった割には、早々に目を覚まし、工房の前で薬師達が花弁を広げている所へ走っていく。

「枝、もらいに来ました!ちょっとだけって言ったけど、二枝分くらい取って行っても良いかな?」

「おお、来たか。良いぞ、なんなら根こそぎ持って行け。」

 冗談に相槌を返して、金木犀の丘に向かった。息が弾むのは走ったからだけではない。甘い香りが漂って、さらに鼓動が早まる。金木犀の木は下半分の花が摘み取られていて、二色に分かれて見えた。やっと、やっと、この花に手が届く時が来た。なんだか、今日の花の色はいつもに増して鮮やかで、花の香りはさらに甘やかで、葉は重厚に感じた。まるで招かれるかのように、花の香りが帯となり安の手を絡めてくるようだった。恍惚とした気分で枝に手を伸ばす。

 だが。

「あれ?」

 近くにあると思った枝が、思ったよりも高い所にある。冷水を浴びせられた気分だ。桂花の木だけあってこちらを翻弄するのが得意だな、などとうそぶいてみる。何度か跳んでみると、二回ほど指が枝をかすった。ちょっと勢いを付けたら届きそうだった。一度唾を飲み込んで、気合を入れ直す。跳ぼうとしたその時。

「この枝か?」

 安が掴もうとしていた枝にふわりと手が伸び、小刀で枝を切り落とした。枝を撓らせていた力が急に消えたことで、枝が跳ね上がり木を揺らす。葉のかすれる音が、間抜けな安をあざ笑う声に聞こえた。

 茫然として切られた枝を見る。その手は枝を差しだして来た。

「ほら。」

 渡された枝を反射的に握る。

 顔を上げると、毅、だった。

「さっき、顔出したら桂花が探してたぞ。頼みごとがあるんだって。」

「あ、うん。すぐ行く。」

 本当に、それだけを伝えに来たのだろう。毅は薬師達がいる工房に向かって歩いて行く。鼻の奥が熱くなり、去っていく毅の背中が歪む。同時に喉の奥から熱い何かがせり上がって来て、必死にそれを飲み下そうとした。なんだか呼吸が辛い。


 毅はいつもこういうことをする。

 何でも許して、自分が悪いと咎を引き受ける。そして、いつも安の指先が届きそうな物を何でも無いかのように掴むのだ。簡単に手にするのだ。

 桂花の枝は自分の手で掴みたかった。

 手にある枝は、なんとも軽い枝だった。花の色はくすんでいた。甘い香りが反って不愉快だった。めちゃくちゃに枝を折って、踏みにじってやろうと思った。枝を折ろうと両手に力を込めるが、花だけがぱらぱらと散った。

 思わず両手の力を緩めるのと同時に喉元で飲み込めずにいた憤りを溜息と共に吐き出した。地面を見つめて瞬きをすると、晴れているのに雫が二つ地面に落ちて行った。

 桂花にお祝いを言わないと。

 顔を上げた安は、桂花の枝を片手に道を俯きながらゆっくりと戻ったのだった。

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