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四哀悲話  作者: 青田早苗
第三話、義を尽くした裏切り者の話
7/20

第一編

安は、孤児だった。冬の日、道端で死掛けた所を助けてもらい、その恩を返すべく「旦那様」の元で働く。ある日、旦那様の命令で泰獄に潜りこんだが、旦那様の言いつけを守るために優しくしてくれる泰獄の人々に対して心を開けずにいた。そんな時、金木犀の香りとともに現れた桂花に恋心を覚えた安は、ようやく少しずつ心を開いて行く。しかし、恋心を自覚した時にはもう桂花は毅と婚約していた。いつも安の二歩も三歩も前を歩く毅に、知らず知らずのうちに安は嫉妬と憎悪を積み重ねて行く。桂花が死んでしまった後は、桂花にそっくりな娘の芙蓉を見守るが、芙蓉の傍らにはいつも桂花を殺した男と同じ銀髪の男が立っていた。命を救ってくれた人のために、心を救ってくれた人々を裏切るのか。その狭間で揺れ動きながらも、安の心にあるのは金木犀の香りだけ。

歴史には残らない、しかしこの上ない悲劇を生んでしまった哀しい裏切り者の話。

 冷たい風が立てつけの悪い戸を騒がせて、建物の間を吹き抜けて行く。空は灰色で、建物は薄汚れた茶色で。鮮やかな色彩などとうに失われた街は、その汚れ(けがれ)を覆い隠すような白に塗り固められていく。裏通りは人の気配すらなく、大通りでも行きかう人々の姿は稀である。僅かに行きかう人々も首をすくめて背を丸め、数歩先の地面だけを見つめて足早に通り過ぎていった。

 予感、いや、直感かもしれない。死ぬな、と分かった。毎日ひもじくて、喉が乾いていて、寒くて、辛くて。でも、なんだか今日はそういう感覚が全て遠かった。冷たい冬の欠片が頬へと容赦なく叩きつけられているのが、頭では分かっているが、ちっとも感じられなかった。

 例え晴れていても薄暗い路地。大通りからいくつも路地を曲がった先のここは近づく人すらいない。小さな体を丸め、重く感じられる頭を膝に乗せて横をむく。見えるのは。薄汚れた茶色の建物と、同じ色をした路地の突きあたり。建物と建物の間、切れ込みのように見える灰色。そして、視界を埋め尽くすように舞い落ちる白。

 だんだん、見えている物が一体何なのか分からなくなってきた。

 微かに見えていた灰色もいつの間にやら白くなって見え、茶色の壁は遠ざかって感じられた。もしかしたら、これが死ぬ瞬間なのだろうか。清らかで優しげで、それでいて冷酷な純白の世界。

 やがて視界から微かに残っていた灰色と茶色が失われ、全てが白で染め上げられる。横から叩きつけるように吹く風に耐えられず、体を白い地面に横たえた。もしかしたら、体の方が地面より冷えていたのかもしれない。ちっとも冷たいと思わなかった。

 やはり死ぬんだな、と理解した。

 ふっと、陰が差して、今度は視界が黒く覆われる。途端、久しぶりの温もりが感じられた。

 死ぬ時は、寒くないんだ。良かった。

 そう思った。


 次に目を覚ますと、知らない景色があった。混乱しながら首だけを動かして辺りを見渡す。床、どこにも切れ目のない壁、そして視線を正面に戻せばまた板張りが見える。

 部屋の中に居る。

 少なくとも物心ついてから屋内で目を覚ましたことがなかったため、それに気が付くまでに時間がかかった。ぎっと音がしてどこかをパタパタと走っていく足音が聞こえた。起きた、スェヌカを呼んで来ないと。こどもの声が遠ざかっていく。その音を聞きながら天上の板の模様を眺めていた。

 実は随分と簡素な一室、というよりは物置に寝床を作っただけだったのだが、薄暗い路地しか知らなかったためか、立派な邸だと思った。寝床になんて寝たことがなかったため、暖かな布団に包まれている感覚に混乱した。

 またぎいっと音がして扉が開く。大人が一人、部屋に入ってくる。扉の陰からは自分と同じ年頃かもう少し年上の少年達が顔を覗かせていた。

「ああ、目覚めたか。」

 身なりの良いおじさん。そう思った。

「頭が痛いとか、お腹が痛いとか分かるか?」

 少し頭がぼうっとしたが、なんともなかったので首を横に振る。

「なら、すこしきれいにしないとな。さすがに旦那様に見せられない。」

 その後、頭を洗われ、顔を洗われ、体を洗われ、最後に湯を張った桶に入れられる。

「まあ、あと数日寝ていろ。」

 よく分からなかったが、大人しく頷き、もう一度布団に潜れば自然と眠りが訪れていた。

 その後はとても慌ただしかったのだけ覚えている。髪を切られ、街角で見た子ども達と変わらぬ服を渡され、着替えるように言われる。そして、目を覚ました時に最初に見た身なりの良いおじさんがやってきて、毎日喋り方の練習やら、挨拶の仕方やらを教えられた。おじさんはスェヌカというらしい。下着はこまめに替えること、服は汚れたら替えること、毎日顔を洗い、髪を梳くことも教えられた。教えられる全てが知らないことばかりで、戸惑うことばかりだった。

 なぜこんなことをしなければならないのか、なぜ大人達は優しくしてくれるのか。街の路上にいる時、大人は恐怖の対象だった。雨宿りをしていただけなのに追い払われたり、食べ物の屑を探していると怒鳴られて見つけた食べ物を盗られたり、ちょっとした言伝や手紙を渡す仕事を頼まれて、お金をくれる人も居たけれど、お金をくれる振りをして殴られたりもした。

「旦那さま、連れて参りました。」

 重厚な飾りがついた扉は、重々しい見た目とは異なって音もなく開いた。扉が開かれた向こうにあったのは、とてもきれいな部屋。壁も天井も綺麗な模様がいっぱいだった。不思議な事に床はふかふかしていて、深い緑色の絨毯には金色の糸で花の刺繍がしてあった。しかも、その部屋は夜なのに随分と明るかった。スェヌカに肩を叩かれるまで、唖然として見とれていた。

「名前は?」

 部屋の中に居た立派な格好のおじさんが聞いてくる。本物を見たことなんてなかったけれど、きっとこのおじさんが貴族って言う人でスェヌカがいう旦那様なんだと思った。

「アンジョルです。」

 名前なんてなかったけれど、スェヌカにアンジョルっていう名前で呼ばれていたのでそう答える。

「そうか、ではアンジョル。おまえにこの邸で仕事を与える。そして、色々な事をこの邸で学びなさい。その代わり、もう冷たい地面で眠ったり、腹をすかせたり、外で寒さに耐えることも無くなる。いいね?」

 嫌だなんていう筈がなかった。自分と似たような少年達と数人で寝起きして楽しかったし、朝起きたら髪の毛が凍っていることもなければ、寒さと飢えに震えたまま眠れずに夜を明かすこともなかった。仕事は大変だったけど、パンとスープがもらえた。

 誰に言われたわけじゃないけど、自然と、この生活を与えてくれた旦那様に感謝するようになった。勉強を教えてくれるスェヌカやその他の大人達が、時折「いつか旦那様のお役に立ちなさい」と言っていたが、そんなことを言われなくとも、大きくなったら旦那様の為に恩返しをしたいと思うようになった。

 そんな生活をして三年程が経った頃。いつかのようにスェヌカに連れられ、あの立派な部屋に呼ばれた。数年前と変わらない旦那様がいた。

「アンジョル。しっかりやっているようだね。」

「はい。旦那様のお陰です。」

「うん、立派になった。」

「ありがとうございます。」

 そこで告げられたのは予想外のこと。

「泰獄に行くんだ。」

 あまり覚えていないが、随分、取り乱したことは覚えている。旦那様の近くでお役に立ちたい、そう思っていたのに、遠くに行かされてしまう、それはとんでもなく辛いことだった。もちろん、そんなこと旦那さまやスェヌカには予想できたことだったのだろう。優しく諭された。

「いいか、アンジョル。これはお前以外には出来ないんだ。お前は、他の子らよりも優秀だ。そうでなければ、勤まらない。」

 安が落ち着くのを見計らって、旦那様は紋章の入った綺麗なメダルを下さった。

「泰獄に入ったら、何も分からない振りをしていろ。そこで教えられたことだけをやって行くんだ。いつか、この紋章を持った人間が現れる。五年先かもしれないし、十年も二十年も先かもしれない。それまで、泰獄で恙無く暮らせ。いいな。だが、決して、それを他の人間に見られるな。お守りだ。」


 邸を出てしばらくの間他の場所で別の大人と暮らす。そこで言葉や服装や仕草などを細かく教えられた。あのメダルは、茶色のなんだか気味の悪い物に包んで守り袋に入れられた。何でこんなことを、と聞くと、守り袋を開けられてもこれに入れておけば臍の緒だと思われるから、と言われ渋々頷く。そしていよいよ泰獄の近くまで大人と一緒に行き、そこからは一人で泰獄へと入る。

 頭に布を巻いた人間に見つかったら、こう告げる。

 父親と共に街に行く途中だったが、山の中で待っているように告げられた。もし、日暮れまでに戻らなければ、この山を目指すようにと言われた、と。


 そして、アンジョルは安と名乗り、泰獄で暮らし始めた。

三人目のお話でした。

正直なところ、この話を書きたくて四哀悲話を始めたというところもあります。

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