第24話:断りの一筆
わたしは、夜通し、一枚の返書を練った。
卓の端には、モルゲンシュテルン家の家令が置いていった、あの嘆願書。父の名誉を署名一つで買える紙。その余白の白さを、幾度も、見た。
——ここに印を捺せば、父は罪人でなくなる。庫の奥を諦めるだけで。
(お父様。あなたならどうなさいます。……いいえ。訊くまでもありませんわね。)
わたしは、新しい羊皮紙を広げ、黒檀の印章を傍らに置いた。そして書いた。
『モルゲンシュテルン侯爵閣下。過分のお心遣い、痛み入ります。されど、名誉とは取引で贖うものにあらず。父ゲルハルトの潔白は恩情ではなく、事実によって、証されねばなりません。ゆえにご厚意は謹んでお返し申し上げます。——嘆願書は白紙のまま、お戻しいたします』
最後の一行に、迷いはなかった。
(施しで返る名誉は、施した者に、いつでも取り上げられますもの。……借りのある無実など、無実では、ありませんわ。)
わたしは、封蝋を、灯で溶かした。赤い蝋が、羊皮紙の折り目に、ぽたりと落ちる。そこへ黒檀の印章をまっすぐに押し当てた。左肩を深く沈めたりは、しない。父に習った、迷いのない、一度の押し。
偽りの印は、力んで、左肩が沈む。正しい印は、迷わず、まっすぐ、沈む。……印の押し方ひとつに、書いた者の心根が残る。
翌朝、返書と白紙のままの嘆願書を、使いに託した。断りの一筆。それが、どれほどの敵を、正面に立たせるか。分かっていてなお。
効き目は、その日のうちに現れた。
「ユ、ユスティーナ嬢。……困ったことに、なった」
総裁代理のヴァルター師が、青い顔で詰所へ駆け込んできた。
「王命の受入目録の照合……あれが、止められた。『古い受入所の記録は虫害の恐れがあり、みだりに繰るべからず』と院の裁定が下って……」
「虫害ですか」
「わ、わたくしは抗ったのだ。だが裁定に判を捺したのは古参の理事たちで……その、後ろにモルゲンシュテルン家の、意向が」
わたしは頷いた。断ったから動いたのだ。取引を蹴った者に、扉を閉ざす。十年前、父にしたのと同じ手で。
「ヴァルター師。虫害を口実に記録を封じるなら、まずその虫害を、どなたが検めましたの? 検めの調書は?」
「……調書はない」
「調書のない虫害は、虫のせいにはできませんわ。——見ていない害を理由に記録を封じることは、院則のどこにも許されておりません」
「だ、だが理事たちは聞かぬ。……ユスティーナ嬢。相手はモルゲンシュテルン侯爵だ。王家の縁戚でこの院に三代、総裁を出した家。……わたくしのような、老いぼれの代理ではとても」
ヴァルター師の声は、震えていた。かつて、ドロテウスの下で、ただ震えていた老人。その怯えは根が深い。
「ヴァルター師。あなたは震えながらでもこうして、報せに来てくださいました。それで十分ですわ。……震える人が震えながら、正しいことをするのを。わたしはいちばん、信じておりますの」
そこへ黒い制服が、詰所の戸口に立った。
「その裁定、執行局が預かる」
ライナルト様だった。手にした一枚を卓に置く。執行局の朱い印。
「王命の再調査に関わる記録の封鎖は、執行の妨害にあたる。——執行局長権限で受入所の記録を、局の管理下に移す。虫害があるというなら、局の検め手が、立会いのもとで繰る。異論があれば、書面で王命の場へ」
ヴァルター師の膝が抜けて、椅子が、床を擦って鳴った。
「……あなた方はいつもそうやって、二枚目の紙を出してくる」
「一枚を封じられたら、それを封じる根拠をもう一枚で問う。……紙の喧嘩はそういうものですわ」
わたしは、ライナルト様と、目を合わせた。灰青の目の縁が、ほんの少しやわらいだ。
その日の午後、局の管理下で、受入所の古い綴りを、改めて検めた。父が失脚した晩のあの一頁。抜かれた「王家の古い婚姻の取り決め」、納められた偽の一枚。そこまでは目録が語る。
けれど——「誰が」は、まだ確定しない。
わたしは、目録の頁のいちばん下に指を止めた。
「殿下。受入の際には必ず、立ち会った受入係が、署名を残します。……この晩の署名をご覧くださいませ」
色褪せた文字で、一つの名が、記されていた。
「ヴィンケル。……この受入係があの晩、古庫の出入りに立ち会った、ただ一人の証人ですわ」
ライナルト様が、記録を繰った。
「ヴィンケル……院の名簿には、ない。十年前に退いている」
「退いた、のではないでしょう。……退けられたのですわ。あの晩を見た人ですもの」
ミルテが、そっとわたしの袖を引いた。
「お嬢様。その人、見つけたら……危なくないですか。だって、口を封じられた人を、もう一度、表に出したら」
「ええ。危ないわ、ミルテ。だからそっと探すの。役人の足音で驚かせないように。……あの人は十年、怯えて、生きてきた。もう一度、同じ思いをさせる前に、必ず、守れる用意をしてから」
賢い子だ。この子は、紙の読み方だけでなく、人の守り方まで、少しずつ、身につけていく。
(口を封じられた。——父と同じ晩に。)
(探さなければ。生きて、王都のどこかに、沈んでいるなら。あの人の記憶と、もし残っていれば、あの人の持つ一枚が、扉の向こうを証してくれる。)
ユスティーナ、モルゲンシュテルンの取引を、白紙のまま突き返しました。「施しで返る名誉は、施した者に、いつでも取り上げられる」——父の潔白は、恩情ではなく事実で、と。
断った途端の意趣返し(記録の封鎖)を、ライナルトの「二枚目の紙」で押し返し、たどり着いたのは、父失脚の晩に立ち会った、たった一人の受入係ヴィンケルの署名。十年前に院を追われ、市井に沈んだ証人です。
次話は、その消えた証人を、市井の伝手で探します。ハンネス親方たちの出番です。お読みいただきありがとうございます。ブックマーク・評価で応援いただけると、とても励みになります。




