1-4 カトレア~鱶鰭ラーメン~ その1
兄夫婦は2世帯住宅の3階に住んでいて、私が訪問するときもいちおうアポを取る。私は兄の会社に勤めているから上司でもあるし、兄嫁の雪恵さんへの遠慮もあった。
仲が悪いわけではないが、会社を守っている優秀な兄に引け目だってもちろんある。
「兄さん、話があるの」
「小遣いなら母さんに言え」
「違うわ、仕事のことで」
「それなら会社で話せ」
兄は外面はいいが家ではぶっきら棒で取りつく島がない。いくら身内でも平社員が会社内で、いきなり社長に話を持っていくなんてできるわけないでしょ。
「私、事務職は向いてないと思うの」
「そうか? 確かに速度は遅いがこなしていると聞いているが」
「それは誰でもできるような仕事しかしてないからよ。みんながサポートしてくれてるし…申し訳ないと思ってる」
申し訳ないというより肩身が狭いが正しいかも。私の部内では社長の妹だから仕方なくお荷物を背負いこんでる、という空気が充満している(はずだ)。
「じゃあ、どうしろと言うんだ?」
「異動して欲しいの」
「どこへ」
「できたら広報とか広告とか、デザイン関係の仕事がしたい」
兄は呆れたという感情を隠さずに長い溜息をついた。
「おまえにそのスキルがあるなんて初耳だ。急にどうしたんだ?」
「私が役に立てる仕事がしたいの。私もいい歳だもの将来のこと考えるわ」
「またクズ男に引っかかったのか」
(なんでつまんないとこで勘がいいのかしら)
「まだクズとは決まってない。ていうかそれは関係ないの」
「甘えるのも大概にしろ、少々絵が上手い程度でできる仕事じゃないんだぞ。それにデザイン部は平均年齢が低い、つまり若手の感性が求められているんだ。おまえの歳なら部下をまとめる役割を務めてもらうのが当たり前だ」
「スタートは遅くなったかもしれないけど、私にだってやりたいことがあるんだってば」
「やりたいことがデザインの仕事ならなぜいままでぐずぐずしていた。学校だって美術関係に行っていれば今とは別の道があっただろう」
「お母さんが反対して美大への学費は出さないって言うんだもの」
「そんな程度で諦めるようじゃ、そもそもやる気がないのと一緒だ」
「お兄ちゃんは学費も生活費も出してもらったじゃない」
「その代わり俺は親の事業を継ぐ責任を背負った。社長になるのが楽で簡単だと思うなよ、従業員の生活がかかってるんだ。そのために必要な勉強や経験のために親がカネを出したんだよ」
「だって」
「だってじゃない。本当にやりたいことがあるなら自分でバイトしてでもやればよかったじゃないか」
「まぁまぁ」
見かねたのか雪恵さんが割って入ってくれた。私の前に紅茶のカップを置くと「頂き物だけど」と言って美味しそうなフィナンシェを差し出した。
「香菜ちゃんはバイトなんてしたことないんだもの、そういう選択肢が思い浮かばなかったのよ」
良かれと思ってなんだろうけど、この人のフォローは逆に身に染みる。彼女も兄の会社で働いていて、しかも広告宣伝部のデザイン課チーフなのだ。
そんな人が私がポンコツなのをよく知っているのにかばってくる、香菜ちゃんはお嬢さんだから、香菜ちゃんは世間知らずだからと。
「とにかくそんなことを言う前に自分を見直すことだな。お前の事務処理能力が壊滅的なのは知っている。異動の希望はうちの社員ならば随時受け付けているからそれも構わない。ただし、行きたい部署に話が持っていける程度の『材料』を用意してみろ」
私はフィナンシェに口の中の水分を全部持っていかれ、紅茶をすすりながら聞いていた。確かに私は甘えていたかもしれない、こうやって社長に直談判できるのだって特別なことだもの。ただし、まるっきり忖度してくれないけど。
私がこんな頼みごとをしたのには理由があった。
タカシが『少し奮発した』レストランに誘ってきたのだ。これは突っ込んだ話をする気なんだろう…例えば親に紹介したいとか、ご挨拶に伺いたいとか。
私にはもうタカシと進む道は見えていない。というより自分の男を見る目のなさにうんざりしている。せめて仕事で身を立てる自信があれば、タカシにはっきり言えるんじゃないかと思ったのに。




