4-4 スイトピー~別れの歌~その1
海を見晴らす丘の上にその花畑はあった。
今が盛り、色とりどりのスイトピーが風に揺れている。
「素敵な花畑、でも観光用じゃないのね」
「花卉農家さんのものです。生産者さんたちに会うのも勉強になりますから」
「さすが、花屋さんは『秘密の花園』を知ってるんだ」
「秘密?」
「有名な文学作品。そういうのも頭の隅に覚えておくとどこかのコンテストで出てくるかもよ」
「そうですね」
甘い花の香りが漂っているのにケンジは浮かない顔だった。もう何度も話し合ったが、やはり彼は納得していないんだろう。
名古屋のコンテストから1年以上が経とうとしている。
ケンジはすでにいくつかの大きなコンテストで受賞し、若手のフローリストとして名を知られるようになっていた。そして、念願だった海外への留学もスポンサーが見つかって、かなり好条件で行かせてもらえることになったのだが。
「香菜さん、やっぱりダメですか?」
「さすがに1年の休職は無理ね。私はいまチーフ代理として仕事を任されてるの、とてもやりがいのある仕事だし簡単には抜けられないわ」
「そうですよね」
「元々あなた一人で行くつもりだったんでしょ」
「はい、でも」
ケンジは半泣きで私を抱きしめた。
遠目に見たらドラマのワンシーンのように綺麗だったかもしれないけれど、彼はまたもやカエルになってしまいそうな情けない顔をしている。
「あなたはたった1年で私を忘れてしまうのかしら」
「そんなことあるわけ!」
「いいのよ、簡単に忘れられるくらいならそれだけの女ってこと、私も諦めがつくわ」
「…ウソだ」
ケンジの腕の力が強くなる、息が苦しいくらいに。その手が私の体に沿ってゆっくりと上がってきた。
(え?)っと思ったときには喉元に両手があった。とても冷たい。そしてさらにじわりと力が入るのがわかる。まるで巻き付く蛇のように。
声は出なかった。
目の前にケンジの悲し気な瞳があった。何も見えていない濁ったガラス玉のような瞳。
私は見ているのが辛くなり、瞼を閉じた。
彼を見誤っていたんだろうか。その闇の深さ、『捨てられる』ことへの恐怖。
(この人がこんなにも苦しんでいたなんて)
言葉で言えば『執着』とか『依存』かもしれない。けれどその実態はもっと重く悲しい。
振り払うこともできたと思うが私は何もせず、霞がかかる意識を辿っていた。
私は彼を突き放すべき?
それはできない。
これは私がしたことの結果、私は受け止める覚悟をしたはず。
「ごめんなさい!」
ほんの数秒で、ケンジが先に正気を取り戻した。
私は息が詰まって声が出ず、瞼を開き彼を見つめた。
(なるほど…これだけのビジュアルの良物件が売れ残っているわけだわ。大した事故物件だこと)
「お願いよ、私が辛くないとでも思ってるの?」
私は掠れた声で囁いた。ケンジは声を上げて泣きじゃくり、私の腕の中でごめんなさいを繰り返すばかり。こんなメンヘラ男を切ることができないなんて私もどうかしてる。
それどころか
「またオタマに戻っちゃったね。でもよかったわ、本当のあなたを知れた」
私は何故かとても満たされて、もう一度、静かに強く彼を抱きしめた。
例えどれほどみっともなく、情けなくてもすべてを知ったうえで受け止めたい。これなら『恋』と言ってかまわないでしょう?
風に揺れるスイトピーの香りがふわりと私たちを包んで消えた。
結局ケンジは空港でギャン泣きしながら一人でパリへと旅立っていった。
可哀想だけど彼を納得させることなんてできなさそう。
それにしてもなんでいつも女がキャリアを諦めるって話になるの? あの雪恵さんですら「彼についていくの?」と訊いた。
何故こんな頼りないオタマジャクシに私がついていくと思ったのかしら。
どう考えたって逆でしょ。
泣きそびれてしまった私は、笑顔を浮かべ、手を振ってケンジを見送った。
彼は私の期待を超えて、素敵なカレシになって帰って来てくれるかしら。
でもね
恋なんていつだって予想を裏切るわ。
いままでだって、イヤと言うほど予想外のことばかりだったもの。




