卵がゆを作りました
フィオ達にぬか漬けを試食してもらってから三日後、厨房へ入るとジル料理長だけでフィオの姿がなかった。ぬか漬けが身体に合わなくて体調を崩したとかだったらどうしようと一瞬青褪めたけど、どうやら今朝から風邪をひいて寝込んでいるらしい。
なるほど。たしかに季節の変わり目には体調を崩しやすいし、昨日から急に冷え込んできたからな。本来だと繊細な令嬢として私も体調を崩すべきところなのかもしれない。めっちゃ元気だけど。
ふと厨房にコンソメスープの香りが漂っていることに気づいた。今日の夕飯用のスープじゃないことくらいは私でもわかる。
コンソメスープの入った鍋を見つめる私にジル料理長は力なく微笑んだ。
「食欲がないようで、食べてはくれませんでした」
聞くところによるとジル料理長がフィオの親代わりらしく、使用人寮の同じ部屋で生活しているそうだ。
そういえば七歳という若さで料理人見習いをしているフィオはすごいと思っていたし、料理の話はたくさんしたけど、家族の話やどうしてここで料理人を目指しているのかという話などはしたことなかった。ジル料理長が親代わりというと、少し込み入った事情があるのかもしれない。
気にはなったが、人様のことをあれこれ詮索したり干渉したりするのは趣味じゃない。令嬢として社交界デビューでもしたら情報収集の仕事として他人のウワサなどに敏感でなければならないのだろうが、今はまだ『子供』ということで鈍感のままでいさせてもらおう。
しかし体調不良となると話は別だ。この世界は前世のように医療が発達しているわけでも異世界のように魔法があるわけでもない。もちろん薬はあるが、人間本来の治癒力が最重要になってくる。となると、食べられないのは問題だ。食欲がないのに無理矢理食べさせることも良くないが、少しでも食べられるものがあるなら食べるに越したことはない。
味見させてもらったけど、ジル料理長のコンソメスープは野菜をとても柔らかく煮込んであってとんでもなく美味しい。ただこれは今私が元気で食欲旺盛だからであって、たしかに風邪で弱っている身体には少々重いかもしれない。
私はジル料理長にある提案をしてみた。ジル料理長は私の提案内容に少し驚いたようだったが、すぐに笑顔で応じてくれた。
ジル料理長とともにフィオの寝ている部屋へ入ると、私に気づいたフィオが慌てて起き上がった。
「シトラス!?なんでこんなところに・・・」
「風邪をひいて寝込んでいると聞いたの。具合はどう?フィオ」
「だからって令嬢が体調を崩している使用人の、しかも異性の部屋を訪ねてくるのはどうかと思うけど」
「う・・・ごめんなさい」
で す よ ねー。
まぁ私もそのことに全然気づかなかったわけではないのよ。でも私達まだ七歳なわけだし、ジル料理長もいるし、なんなら兄弟弟子なんだからもう兄妹も同然じゃない?兄妹ならお見舞いに部屋を訪ねるなんて普通でしょ?今フィオに指摘されて『あ、やっぱりまずかったか』と思って焦って言い訳しているわけではないわ、断じて。
「で、でも、スープも食べられないくらいだって聞いたから心配で・・・だから、もうちょっと薄い味のものを持ってきたのよ」
そう言ってジル料理長を振り返るとジル料理長は持っていたトレイをベッド横の棚に乗せた。
「これは・・・?」
「卵がゆよ」
トレイの上には卵がゆの入ったスープ皿がある。私が前世で風邪をひいた時に母がよく作ってくれて、大人になってからは自分でも作っていた。少しだけ昆布出汁を入れて、塩とすりおろした生姜と卵と刻んだネギ。それからガラスのコップにはお湯に少しだけ塩と砂糖とレモン果汁を加えて冷ましたものを入れている。ただの水より吸収率が良いはずだ。風邪の時は水分補給が大事だからね。
「少しは食べる気力ありそう?」
「たぶん・・・」
のこのこ部屋を訪ねてきた私を窘めたフィオだが、心配で料理を作ってきたことを知るとしぶしぶ許してくれたようだ。よかった。
トレイごと膝に乗せると重い上に安定しなくて食べにくいだろうと、ジル料理長は手でも持ちやすい小さなお皿に卵がゆを入れてフィオに渡した。
フィオはお皿を受け取ると卵がゆをスプーンですくって口に入れる。
「・・・美味しい・・・・・」
熱でだるそうだった顔に、ほんの少し気力が湧いたように見えた。『美味しい』は正義だとつくづく思う。
「本当?よかったぁ」
「あっさり塩味だけど、ほんのりうまみとピリッとした生姜が卵でまろやかになってる。こんな味のリゾットは初めてだな。どこで知ったんだ?」
「え?あ、知ったっていうか、その、な、んとなくこうすると食べやすそうだし美味しそうだなと思っただけ・・・」
フィオが一瞬きょとんとした顔になる。
しまった。
この言い方だと病人相手に初めて作った自己流の創作料理をぶっつけ本番で振る舞ったみたいだ。
「いや、この卵がゆはきちんと味見して提供してるからね?ジル料理長も味見してくれて合格したから持ってきたんだからね!?」
私は慌てて弁解すると、フィオは表情を和らげた。出会ってから半年、フィオが笑っているところを見たことがなかったし、今も微笑んでいるわけではないが、今まで見た中で一番柔らかい表情だ。
「俺もシトラスみたいな料理を作れるようになりたいな」
「そんなにこれ気に入ったの?それなら今度レシピ教えるね」
「そういう意味じゃない」
んん?じゃあどういう意味?
私が首を傾げてもフィオは黙々と食べ続けるだけでそれ以上詳しくは説明してくれなかった。
『食べることにもエネルギーが要るから全部食べ切れなくても無理はない、少しでも食べてくれたら御の字』と思っていたけれど、結局フィオは残さず全部食べてくれた。
食べ終えて眠そうに瞼が下がってきたフィオに休むよう言い含めて、私とジル料理長は静かに部屋を出る。
厨房へと戻る道、ジル料理長は私に丁寧にお礼を言ってくれた。
「ありがとうございます、シトラス様。フィオを気遣ってくださって、食べやすい食事まで・・・」
「いえ、お役に立てたのならよかったです。でも・・・さっきのフィオの言葉はどういう意味だったんでしょう?」
私が解消されていない疑問を口にすると、ジル料理長は頬を緩めた。
「『シトラス様の料理は心のこもった優しい味がする、自分もそんな料理を作れるようになりたい』という意味だったのだと思いますよ」
「そうなんですか?」
「私はフィオじゃないので確実とは言えませんが、おそらくそうだと思います。料理は食材の良さや料理人の腕も大事ですが、何より心が一番味に影響を与えるものだとフィオには教えています。たとえ同じくらいの腕の料理人が同じレシピで料理を作ってもまったく同じ味にはなりません。それは作り手の好みが無意識に出ることも理由ですが、やはり心が味に表れるものなのです。どんなに素晴らしい才能を持った料理人が腕に縒りをかけても、心がまったくこもっていなければ平凡な実力の料理人が心をこめて作った料理には敵わない」
ジル料理長がそこまで言ったところで厨房に着いた。立ち止まって扉に手をかけながらジル料理長は私に優しく微笑んでいる。
「シトラス様の料理は、その素晴らしい心根がこもっているからこそ美味しいのでしょう」
私は自分にできることをしただけ。難しいことに挑戦したわけでもたいそうなことに骨身を削ったわけでもない。だからこんなふうに言われるとなんだかくすぐったい。
でも―――――誰かにこうして褒めてもらえるのは正直とても嬉しい。
喜びを隠しきれない私にジル料理長はお礼だと言ってパンケーキを作ってくれた。
私はパンケーキを頬張りながら、フィオの風邪が治ったらフィオの言葉が嬉しかったことを素直に伝えようと心に決めた。