本編暗殺騒動前 匙は投げられた
雨が降っている。
地に打ち付けられて響く水の音が絶え間なく耳に届き、囁き声など簡単にかき消してしまいそうな激しさで降り続いている。
ウェルファは窓枠に肘をつき、ぼんやりと曇天を見上げた。
こんな日は勉強くらいしかすることがないのだが、ずっと机と睨めっこしているばかりでは頭までジメジメしてしまう。
一人で出来る限られた娯楽の中で、ウェルファの興味を引くものは残念ながら見つからなかった。数日もこんな天気が続けば飽きが来ても仕方がない。
いつもより大人しくしているせいか、ルーセリトとの衝突も近頃は減っているような気がする。詳しい理由は分からないが、ルーセリトがここ最近家を空けることが多くなったことも要因の一つだろう。
なにやらこそこそと動き回っているようだが、ウェルファには関係のないことだ。これっぽっちも気にしてなんかいない。
東の街道から馬車が我が家に向かって走ってくる。
まだ日は沈んでいないのだが、どうやら今日は早いご帰宅のようだ。
小難しく眉を寄せながら降りてきたルーセリトの顔色はあまり宜しくない。
「ふーん」
遠目だと分かりづらい。もっと近くに寄ろう。
小走りで玄関ホールまで行く。まともに顔を見るのは三日ぶりくらいか。
兄はぼたぼたと雨水を垂らしながらずっしりと濡れて重くなったコートを執事に預けている。
その手はいつもより殊更白く、唇だって紫に染まりかけている。早く体を温めないと風邪を引いてしまうかもしれない。
「ぬれネズミは風呂にいけよ」
憎まれ口は今日も元気だ。
ちらりとウェルファに視線を流したルーセリトが皮肉げに笑う。
「わざわざ文句を言うために出迎えに来たのか。お前、随分暇なんだな」
「どこぞの家をわたり歩いてるあんたに言われたくねえんだよ」
「他の貴族との交流も重要性が高いものだろうが。次期当主ならそれ位理解しろよ」
「はん。親父にきいたらこびる必要はないと言ってたぞ」
「またあの人は…はあ…」
ルーセリトは諦めたかのように俯いた。
「俺の言葉なんか、何一つ届いてないもんな」
「、は?」
「ずっとずっと言ってるのに。言いたくないことも言ってるのに。どうにかしなきゃと思ってるのに」
「あ、あにき?」
「それ」
ごくり。常にないルーセリトの様子にウェルファが生唾を飲み込む。
「俺はいつまで手厳しい兄貴でいなきゃいけないんだ」
「え、なに、っおい!」
ずんずんとルーセリトが近づいてくる。その異様な圧に押され、足が数歩後ろへ下がった。
「いつになったら、お前の心に響くんだ」
ヤケクソ気味に言い捨てたルーセリトに反論する前に、彼は事切れたかのようにその場に倒れた。
──倒れた?
「あにき!!」
慌てて駆け寄るが、ウェルファより早く彼は使用人によって抱き起こされた。
ルーセリトは荒い呼吸を繰り返し一向に目を開けようとしない。
それどころか眉間にきつく皺を寄せて苦しそうですらある。
そっと額に執事が手を乗せる。
「熱があります。それもかなり高い。早く旦那様に知らせなければ」
ルーセリトと共に外出していた執事が手際よく指示を飛ばしていく。
「ウェルファ様はどうかお部屋にお戻り下さい。うつる可能性がございます」
「でも、でもあにきが」
「私達が責任を持ってご看病致します。大丈夫です」
隙が無ければ弱々しさもない、冷血で無慈悲だと思っていたルーセリトがこんな状態になっている所など初めて見る。ウェルファの動揺は端から見ても明らかだった。
気遣わしげにメイドが誘導してくれなければ、自室に戻ることなくずっとあそこで立ち尽くしていたかもしれない。
それからは夕食だって美味しくなかったし、父から聞かされるルーセリトの状態も耳からすり抜けていく。
心配ないと言われても、ウェルファは彼が今どうなっているのかを目にしていないのだ。
父も母も、ウェルファにとって都合の良いことしか言わないのだからいまいち信憑性に欠ける。
そうだ。いつもいつも褒められるばかりで両親から叱られたことがない。何をしても咎められないし、好きなことをしたらいいと笑顔で送り出される。
そんな時、否と答えていたのは誰だ。窘め、痛いところを突いてウェルファを叱っていたのは誰だ。
兄は倒れる前、何を言っていた。
「………」
いても立ってもいられなくなり、ウェルファはルーセリトの部屋に忍び込んだ。
暗い室内で兄の荒い息遣いだけが聞こえる。
音を立てないよう近寄り、ベッド脇の椅子に腰を落とす。
ぎしりと木材のきしむ音にウェルファの肩が跳ねた。
恐る恐るルーセリトを伺うが目を覚ます気配はなく、ほっと胸をなで下ろした。
寝不足、疲労、そして風邪。
負荷をかけすぎた体が悲鳴をあげたため、体調不良に繋がったらしい。
天才ともてはやされているウェルファからしてみてもこの人には敵わないと思っているのに、一体何をそんなに頑張る必要があると言うのだろう。無欲なふりをして当主の座を狙っているのだろうか。
そこはウェルファに定められた場所だが、どうしても欲しいと彼が望むのなら別にくれてやってもいいのに。
でもきっと、ルーセリトがウェルファに伝えたいことはそういうことではないのだ。
分かりそうで分からない歯がゆさに唇を噛む。
本当に厄介な男だ。物申すためにも早く元気になってほしい。
しかし目が覚めてからその後、またすぐにルーセリトが高熱を出す羽目になるのである。




