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婚約者を奪われましたが、前世の知識で幸せを取り戻します  作者: 絵宮 芳緒


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第8話|静かな慢心ーー噛み合い始めた歯車

重厚な執務室に、紙をめくる乾いた音だけが静かに響いていた。


分厚い絨毯が足音を吸い込み、外界の気配は完全に遮断されている。

壁一面の書棚、磨き込まれた黒檀の机、窓辺に揺れる濃紺のカーテン。


ここは、グラーツ侯爵家の中枢――決断が下される場所。


オスカーの父、グラーツ侯爵ヴァルターは、報告書からゆっくりと視線を上げた。


机上には、領地の収支、社交界の動向、そして婚約に関する簡潔な報告。

その一枚を指先で押さえたまま、低く呟く。


「……最近、オスカーのヴァイスベルク家への訪問が減っているな」


感情を含まぬ声。

だが、その奥には明確な不快が潜んでいた。


次男であるオスカーにとって、ヴァイスベルク侯爵家への婿入りは――

単なる婚姻ではない。


家格を保ち、将来を確保するための、極めて重要な縁。


「厚意の上に成り立つ縁談だということを、理解しているのか」


ヴァルターの指が、机を一度だけ叩いた。

小さな音が、やけに大きく響く。


友情。

利害。

そして家門の均衡。

それらを守るために、侯爵は長年動いてきた。


「立場を弁えぬ振る舞いは、許されん」


淡々とした声音に、冷ややかな決意が混じる。


――その時。

控えめなノックの後、秘書官が入室した。 


「閣下。もう一件、ご報告が」


ヴァルターは視線だけで促す。

秘書官は一瞬だけ間を置いた。


「……ベルク子爵家の娘、ローザリアの件でございますが」


その名が出た瞬間、ヴァルターの眉がわずかに動く。


「続けろ」


「オスカー様との接触が、夜会以外でも確認されております。

学園外での外出も、数度」


沈黙。

報告書を閉じる音が、室内に重く落ちた。


「子爵は動いているのか」


「現時点では娘の独断かと。ただし、意図がないとは断じられません」


ヴァルターは椅子の背にもたれた。

瞳は冷え、苛立ちがわずかに滲む。


「……愚か者が」


それが息子に向けられたものか、子爵家に向けられたものかは分からない。


「若気の迷いなら、早いうちに摘め。

余計な火種は広げるな。金で済むなら金で。

 済まぬなら――証を握っておけ」 


低く、確実な命令。


「は」

秘書官が頭を下げる。


ヴァルターは窓の外へ視線を向けた。

整えられた庭園が、月光に白く浮かんでいる。


「次男とはいえ、家の名を背負っていることを忘れるなと、あれほど言ったはずだ」


その声にあるのは、父としての嘆きよりも――

家を乱されることへの苛立ち。


机上に置かれた別の書簡へ視線を落とす。

封蝋に刻まれた紋章――ヴァイスベルク侯爵家。


かつて戦場を共に駆け、互いに背を預けた旧友。


「……あの男は、娘を甘やかす性質ではない」


むしろ逆だ。

家の名を損なう兆しがあれば、情よりも責務を選ぶ男。


「このまま噂が耳に入れば……友情では済まぬか」


家と家との均衡が、崩れかねない。


「オスカー様は、侯爵令嬢を“待たせる側”だとお考えかと」


秘書官の静かな指摘。

ヴァルターの瞳が、さらに冷える。


「選ばれる立場であることを、あれは理解していない」


短い吐息。


「……早いうちに処理しろ。ヴァイスベルク家に火の粉が届く前に」


「承知いたしました」


その夜、屋敷のどこかで、

静かに歯車が噛み合う音がした。

まだ誰も、破滅とは呼ばない。


だが――確実に、戻れぬ位置へと進み始めていた。



ーーその頃。

グラーツ家の次男、オスカーは、取り巻きの令嬢とティータイムを楽しみ、自室の鏡の前で上着の襟を整えていた。


「最近、あの方……庭仕事をなさっているそうですわね」


取り巻きの令嬢が、扇子で口元を隠しながら囁いた。


「庭仕事?」


オスカーは鼻で笑う。


「花を愛でるのは、婚約者として当然の嗜みだろう」


内心では、軽く侮っている。

侯爵令嬢が土に触れるなど、気まぐれに決まっている。

少し放っておけば飽きる。

そして――

自分の元へ戻ってくる。


「俺が待たせてるのだからな…」


小さな慢心が、胸の奥で確かな形を取る。


その時、従者が一通の封書を差し出した。


「ベルク子爵家より…」


封を切ると、淡く甘い香水の香り。


“今宵、お時間があれば――”


オスカーの口元が緩む。

「少し出てくる」


「オスカー様、あまり目立たぬよう――」


「…分かっている。ただの挨拶だ」


だが、足取りは軽い。

夜の帳の下、彼は躊躇なく馬車へ乗り込んだ。





***

――同じ夜、別の場所で。

王城の一角。


静まり返った執務室に、ランプの灯りだけが揺れている。

王弟レオンハルトは、書類から顔を上げ、指先でこめかみを押さえた。


「……妙な令嬢に会った」


唐突な一言に、向かいに控えていた側近フェリクスが目を瞬かせる。


「妙、と申されますと?」


「華やかでもなく、殊更に目立とうともしない。

 だが――妙に印象に残る…」


思い出すのは、湖の畔に立つ一人の少女。

土に触れながら、確かな目で何かを見据えていた姿。


「侯爵家の娘だったな。確か……ヴァイスベルク」


フェリクスは一瞬だけ考え込み、静かに頷く。


「ええ。ご息女は二人。年頃なのは長女、アマーリエ嬢でございます」


レオンハルトは小さく息を吐く。


「婚約者がいたはずだ」


「グラーツ侯爵家の次男、オスカー殿です。

 現時点で、婚約破棄の話は上がっておりません」


“現時点で”。

その含みを、レオンハルトは聞き逃さなかった。


「……だが?」


フェリクスは声を落とす。


「学園では、いくつか気になる噂がございます」


淡々と語られる名。

ベルク子爵家の娘――ローザリア。


「高位貴族の令息達との距離が近いと。

 贈り物も、少々過ぎた額であるとか」


レオンハルトの瞳が、わずかに細められる。


「それだけではないのだろう?」


「……はい。

 婚約者のいる令嬢への嫌がらせ、虚偽の告発。

 さらに裏では、ならず者を使った脅迫まがいの件も…」


一瞬、室内の空気が冷える。


「父である子爵が、上位家門との縁を強く望んでいるとの情報もございます」


レオンハルトは椅子に深くもたれた。


「グラーツ家の次男は、どうだ?」


「……評判は芳しくありません。

 自尊心は高いが、流されやすい性質と…」


短い沈黙。

ランプの火が静かに揺れる。


「ヴァイスベルク侯爵は、旧来の気質を持つ男だ」


「はい。家を守るためなら、旧知の仲の情を切ることも辞さぬかと」


その言葉に、レオンハルトはわずかに目を伏せた。


「……そうか」


しばしの沈黙ののち。


「少し、様子を見てみよう」


静かな声だった。

だが、それは既に“盤面に駒を置く”者の声音でもあった。


その言葉は、命令にも近い。

フェリクスは深く一礼した。


――同じ夜。


一人は欲望へ。

一人は静かに盤上を見つめる。

歯車は、もう止まらない。

――噛み合った以上、戻ることはない。

登場人物




アマーリエ・フォン・ヴァイスベルク

(17歳)

侯爵家ヴァイスベルク家の長女で、正式な跡継ぎ。

婿入り前提で婚約していたが、婚約破棄をきっかけに前世の記憶を思い出す。

前世は50代独身の栄養士。

感情に流されず、現実的で観察眼が鋭い。

料理と体調管理の知識を活かし、領地と人を立て直していく。

見た目は落ち着いた美貌だが、内面はかなり肝が据わっている。




レオンハルト・アルベルト・フォン・アウレリア

(26歳)

現国王の弟で、国内外から一目置かれる存在。王位継承権第三位。

武勇と知略を兼ね備えた人物だが、私生活は驚くほど質素。

必要以上に己を飾らず、物事の本質を見る目を持つ。




フェリクス・フォン・ラインハルト

(30代前半)

王宮から派遣された、王弟殿下付きの側近。

理知的な眼鏡をかけ、常に無表情を崩さない。

感情を交えず、事実と結果のみで物事を判断する合理主義者。

侯爵家に書簡を届ける役目で訪れた際、

アマーリエの在り方と屋敷内の変化に、静かな違和感を覚える。




オスカー・フォン・グラーツ

(17歳)

侯爵家グラーツ家の次男。

跡継ぎではなく、立場を主人公の家に頼る形で婿入り予定だった。

自尊心は高いが実力が伴わず、

甘言に弱く、楽な方へ流されやすい性格。

自分が「選ばれる側」だと思い込んでいた。




ローザリア・フォン・ベルク

(17歳)

ベルク子爵家の令嬢。

美貌と愛想を武器に、オスカーに近づいた張本人。

向上心は強いが、現実の身分差や貴族制度を甘く見ている。

自分の行動がもたらす結果を、深く考えないタイプ。




エルンスト・フォン・ヴァイスベルク

(48歳)

ヴァイスベルク侯爵家当主。

暗いグレーブラウンの髪に、鋼のようなグレーの瞳を持つ。

寡黙で理性的な人物で、感情を表に出すことは少ない。

言葉よりも行動と姿勢で示す、典型的な当主タイプ。

長女アマーリエを「娘」としてだけでなく、正式な後継者として見ており、

家の未来を託す相手として厳しくも一貫した態度を取っている。





ヴァルター・フォン・グラーツ

(48歳)

グラーツ侯爵家当主。

寡黙で理知的。家門の繁栄を最優先とする現実主義者だが、冷酷というよりは“重責を背負う者の覚悟”を持つ男。

若き日にはヴァイスベルク侯爵と親しく交わり、互いの力量を認め合った仲でもあった。

次男オスカーを有力侯爵家へ婿入りさせることで、家の未来を盤石にしようと考えている。

息子の未熟さには気づいているが、それでも「いずれ自覚するはずだ」と、どこかで信じている。

だが――

家を危うくする選択をしたならば、

情を切ることも辞さない。

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