第3話|小さな違和感と、ひと匙の知識
朝の侯爵家の食卓は、いつもと変わらず整えられていた。
白いクロスに並ぶ料理は、季節を意識した献立で、香りも彩りも申し分ない。
――けれど。
主である侯爵、エルンスト・フォン・ヴァイスベルクは、ほとんど手をつけていなかった。
ナイフとフォークを持つ指が止まり、時折、胸元を押さえるような仕草を見せる。
顔色は悪くないが、どこか疲れが滲んでいる。
「お父様……お加減がよろしくないのですか?」
アマーリエの問いに、侯爵は苦笑した。
「昨夜から、少し胃が重くてな。食欲がないだけだ」
「また、無理をなさって……」
母・ルイーザが咎めるように言うが、侯爵は肩をすくめるだけだった。
その隣で、マリアンネは静かに朝食をとっている。
けれど、ふと立ち上がった瞬間、わずかに身体がふらついた。
「マリアンネ?」
「大丈夫よ、お姉様」
そう言って微笑むが、頬の色はやや淡い。
アマーリエはそれを、見逃さなかった。
(……貧血気味ね)
(でも、今はお父様の方が優先だわ……)
アマーリエは一度視線を落とし、考えをまとめてから口を開いた。
「お父様。無理に召し上がらなくて大丈夫です」
食卓に、一瞬の静けさが落ちる。
「まずは白湯を……熱々ではなく、人肌より少し温かい、冷めたお湯を用意して。
胃を温めてからにしましょう?」
アマーリエが指示を出すと、使用人がすぐに動き、湯気の立つカップが侯爵の前に置かれる。
「こちらをゆっくり、時間をかけてお飲みください。
それから……こちらのスープだけを、少量召し上がって」
肉や油分の多い料理は下げさせ、代わりに、数種類の野菜が入った、優しい香りのスープを勧める。
「量は要りません。今日は“回復する食事”で」
娘の言葉に、侯爵は少し驚いたようにアマーリエを見る。
だが、その落ち着いた声音に従い、一口スープを口にした。
「……不思議だな」
しばらくして、ぽつりと呟く。
「さっきより、楽だ」
(でしょうね)
アマーリエの表情は変わらない。
(食べない、じゃない)
(負担をかけない、だけ)
前世で何度も見てきた、ありふれた回復の形だった。
その様子を見届けながら、アマーリエはふと、母・ルイーザへと視線を移した。
――そして、わずかに眉をひそめる。
母は椅子に背を預け、背筋を伸ばしてはいるものの、顔色が優れない。
いつもなら淡い色味のドレスを好むのに、今日は襟元までしっかりとした、少し厚手の装いだった。
それだけではない。
指先を包むように、無意識にカップを両手で持っている。
(……お母様も)
(今日は、冷えが強いわね)
食卓の室温は決して低くない。
それでも厚着を選び、温かい飲み物から手を離さない――それは、体の内側が冷えている証拠だった。
「お母様」
アマーリエが静かに声をかける。
「少し、寒く感じていらっしゃいませんか?」
ルイーザは一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから小さく微笑んだ。
「ええ……そうね。朝から、なんとなく身体が冷える気がして」
「でしたら、無理をなさらずに」
アマーリエはそう言って、侯爵の前に用意された白湯に視線を向ける。
「お父様と同じく、温かいものからにしましょう?
冷えは、胃だけでなく、全身の不調につながりますから……」
それは、叱るでも、心配を煽るでもない、淡々とした言葉だった。
けれど、その中には確かな理解があった。
(食事は、体を支えるもの)
(冷えた体に、冷たいままの食事は要らない)
前世で何度も見てきた、ほんの小さな見落とし。
そして、その積み重ねが不調を招くことも。
アマーリエは、今日の食卓を静かに見渡す。
(……一つずつでいい)
(まずは、気づくことから)
その眼差しは、すでに「立て直す側」のものだった。
その頃、王宮から派遣された王弟殿下付きの側近は、侯爵家の廊下を進んでいた。
途中で、微かに足を止める。
理知的な眼鏡の奥の視線が、静かに周囲を捉えた。
使用人たちの声が、普段よりわずかにざわついている。
「……今朝は、旦那様がお加減を崩されていたとか」
「ええ、ですが……アマーリエ様の指示で、もう落ち着かれたそうですよ……」
――若い令嬢が体調不良を回復させたのか?
……医学に興味があるのかもしれないな。
とはいえ、貴族令嬢だ。
医者や薬師に憧れても、所詮は真似事に過ぎない……
側近は、表情を変えないまま、その場を後にした。
登場人物
アマーリエ・フォン・ヴァイスベルク(17歳)
侯爵家ヴァイスベルク家の長女で、正式な跡継ぎ。
婿入り前提で婚約していたが、婚約破棄をきっかけに前世の記憶を思い出す。
前世は50代独身の栄養士。
感情に流されず、現実的で観察眼が鋭い。
料理と体調管理の知識を活かし、領地と人を立て直していく。
見た目は落ち着いた美貌だが、内面はかなり肝が据わっている。
エルンスト・フォン・ヴァイスベルク
(年齢:40代後半)
ヴァイスベルク侯爵家当主。
暗いグレーブラウンの髪に、鋼のようなグレーの瞳を持つ。
寡黙で理性的な人物で、感情を表に出すことは少ない。
言葉よりも行動と姿勢で示す、典型的な当主タイプ。
長女アマーリエを「娘」としてだけでなく、正式な後継者として見ており、
家の未来を託す相手として厳しくも一貫した態度を取っている。
ルイーザ・フォン・ヴァイスベルク
(年齢:40代前半)
ヴァイスベルク侯爵夫人。
柔らかな栗色の髪と、優しいヘーゼルの瞳を持つ。
常に穏やかな微笑みを浮かべているが、感情を過度に表に出すことはない。
人をよく観察し、言葉にせずとも状況を把握する聡明さを備えており、
社交界では静かに一目置かれる存在。
家族を前に出すことなく、背後から支える母である。
マリアンネ・フォン・ヴァイスベルク
(14歳)
アマーリエの妹。
候爵家ヴァイスベルク家の次女。
姉を素直に慕っており、婚約破棄後も変わらず味方。
年相応の明るさと、貴族令嬢としての教育を受けた聡明さを併せ持つ。




