第19話|許す事と、共に歩む事――灯らぬ未来
王都、夜――
子爵邸の一室。
ローザリアの父、ベルク子爵は杯を傾けていた。
向かいには商団主。
「効き目は……上々のようですな」
「侯爵家の次男。
あれほど理性的だった男が、ああも簡単に揺らぐとは……」
子爵は静かに微笑む。
「…我が娘は美しい。
きっかけを少し与えれば、それで十分だ」
「子爵様の王都での立場も、より強くなりましょう」
「いずれは侯爵家と縁を結ぶ。それだけでなく――」
子爵の目が細まる。
「……王家の動向も探れる」
商団主が低く笑った。
「香は微量なら、証拠も残らぬ」
だが、その扉の外には影が潜んでいた。
レオンハルト側の間者。
すでに、この屋敷は掌の上にある。
王城、レオンハルトの執務室――
灯りは少ない。
レオンハルトは机に置かれた小瓶を見つめている。
押収された香油。
「成分は?」
フェリクスが書類に目を通し、答える。
「東方から流入した希少樹脂。
単体では無害。
ですが、特定の花粉と混ざると感情を増幅します」
温室。
花。
すべて、計算されていた。
「商団主の動きは?」
「子爵邸での密会、三度確認。
資金の流れも一致しております」
証拠はまだ“状況”。
決定打はない。
レオンハルトは静かに告げる。
「……急ぐな」
一気に捕らえれば、子爵は“娘を守る父”を装う。
世論は揺れる。
「追い詰めるのは、逃げ道を塞いでからだ」
冷静。
情ではなく、盤面。
「グラーツ侯爵家には?」
「まだです」
「侯爵家には知らせる。だが段階的に、だ」
カールを敵に回す必要はない。
むしろ味方として固める。
レオンハルトの瞳が細まる。
「ベルク子爵は……商いを盾にしている。
ならば、商いから崩す」
商団主の交易許可。
税の再調査。
王家は剣だけではない。
帳簿もまた、武器だ。
静かに、しかし確実に、包囲網が敷かれていく。
ヴァイスベルク侯爵邸、応接室ーー
調査内容を共有するため、訪れていたカールから話を聞き、アマーリエはしばらく沈黙していた。
「……香?」
「増幅の可能性が高い」
カールの声は低い。
アマーリエは目を伏せる。
怒りはない。
失望もない。
あるのは――整理。
「つまり……」
静かに言う。
「彼の……オスカー様の想いは、すべて偽物ではない……」
カールがわずかに視線を上げる。
「だが、純粋でもない」
増幅。
煽動。
操作。
アマーリエはゆっくり息を吐く。
「……ならば、試されるのは今ですね」
自分ではなく、オスカーが。
「香がなくても、彼は選ぶのか……」
その目が、初めて強くなる。
被害者ではない。
審判者でもない。
婚約者という名のもとに、対等に立つ者。
「私は……逃げません」
はっきりと告げる。
「彼が立ち戻るなら、その後を見極めます」
「立ち戻らないなら?」
「ヴァイスベルク侯爵家の後継者の名にふさわしい決断をします」
静かに――
だが、揺るがない覚悟があった。
カールは小さく頷く。
「殿下は、君を評価している」
アマーリエは微笑まない。
「評価は不要です」
「私は、私の名を守るだけ」
その言葉に、カールは確信する。
この娘はもう、守られる側ではない。
カールは胸の奥に、静かな痛みを覚えた。
愚弟の未熟さが、ひとりの令嬢を傷つけた。
それだけではない。
グラーツ侯爵家にとって、最良の縁となるはずだった娘をも失ったのだ。
聡明で、美しく、そして凛とした。
かつては義妹となるはずだった存在。
だが――それは、もう叶わない。
ヴァイスベルク侯爵邸、庭園――
冬枯れの枝が風に鳴る。
アマーリエの前に、オスカーは立っていた。
以前のような熱は、二人の間にはない。
代わりにあるのは――疲労と、覚悟。
オスカーが頭を下げたあと、静寂が満ちる。
アマーリエはしばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「私は……あなたが立ち直ることは望みます」
声は穏やかだ。
「グラーツ侯爵家の名のためにも、あなた自身の未来のためにも」
オスカーは顔を上げる。
その目に、わずかな希望が灯る。
だが――
「けれど」
その一言で、空気が変わる。
「私は……あなたとの婚約の継続は望みません」
はっきりと。
揺れない。
オスカーの表情が凍る。
「……それは」
「あなたを罰するためではありません」
静かに続ける。
「許す事と、人生を共にすることは別です」
冬の風が枝を鳴らす。
「私は、ヴァイスベルク侯爵家の後継者として、隣に立つ者を選びます」
視線はまっすぐ。
「迷いなく、私を選べる人を」
責めていない。
怒ってもいない。
ただ、事実を告げるだけ。
それが一番、重い。
オスカーは唇を噛む。
香のせいではない。
自分が揺れた事実は、消えない。
「……私は、まだ、君を」
言いかけて、止まる。
今、それを言う資格はないと理解している。
アマーリエはわずかに微笑む。
優しい。
けれど、距離のある微笑み。
「あなたが立ち直ることは、心から願っています」
それは本心。
だが、そこに“未来”は含まれていない。
「婚約解消は、カール様と王弟殿下に、私から申し出ます」
自分の意思で。
逃げではない。
決断。
オスカーはゆっくり膝をつく。
悔しさ。
慢心。
喪失。
だが――
どこかで理解している。
これは当然の結果だと。
「……承知しました」
声は震える。
それでも、逃げない。
アマーリエは背を向け、歩き出す。
振り返らない。
彼女はもう、“被害者”でも“傷ついた令嬢”でもない。
自ら未来を選んだ後継者。
そして、異世界の前世の記憶を持つ者。
盤面は、大きく動いた――
――――――――――




