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婚約者を奪われましたが、前世の知識で幸せを取り戻します  作者: 絵宮 芳緒


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第20話|選ばれなかった側と、敬意という名の灯り

王都の商館――

帳簿を叩きつける音が、必要以上に大きく響いた。


「交易許可の再審査だと?」


商団主の顔色が変わる。

関税調査。

積荷検査。

資金の流れの確認。

偶然ではない。


「子爵に伝えろ。動きが早すぎる……」


焦りが滲む。

香の流通は証拠が薄い。


だが商いは違う。

数字は――嘘をつかない。






商館内、応接室――

報告を受けたベルク子爵は、商館主の報告に眉をひそめた。


「王家が……動いたか」


それでも、まだ余裕を装ってみせる。

「娘の件は?」


「……学園では、まだ問題は表面化しておりません」


子爵は笑う。

「感情は便利だ。

それは……証拠にはならぬ」


だが、その笑みは以前より薄い。

包囲網は静かに、確実に狭まっている。






ベルク子爵邸、書斎――


父である子爵は不在。

ローザリアは机の前で立ち止まる。


机上の鍵。

迷いは、ある。

だが――


(私は、駒ではない)


鍵を取り、引き出しを開ける。

帳簿。

見慣れない商団名。

香料の大量仕入れ。

学園納入の名目。

ページをめくる手が、冷える。


父の署名。

違法薬物――

流通は、確定。


胸の奥が痛む。

裏切られたのは――自分だ。


遠くから聞こえる足音が、扉の向こうで止まる。

扉が、静かに開いた。


立っていたのは、父の側近の一人。


「……お嬢様?」

ローザリアは振り返る。


「子爵様の書斎に、何か御用ですか?」


「……少し、探し物を」


視線が一瞬、机へ落ちる。

閉じられた帳簿。

わずかな沈黙。

だが男は、何も言わない。


「…子爵様がお呼びです」

そう告げると、軽く頭を下げる。


そして――

扉が閉まる。

廊下へ出た途端、側近の足音が速まった。

駆けるように遠ざかっていく。


ローザリアは、ゆっくりと息を吐いた。


(見られた……?)


否。

確信はない。

だが、疑念は生まれた。


彼女の中に。


そして――

父の側にも。


恋の優位でも、遊びでもない。

これは、家と誇りの問題。

ローザリアは小さく呟く。


「……私は、誰の娘?」

初めての、自問。





半刻ほど前の子爵邸、応接間――

報告が届く。


「……ヴァイスベルク侯爵家より、婚約解消の意向」


空気が凍る。

子爵の手が止まる。


「理由は?」


「ヴァイスベルク侯爵令嬢本人の意思と」


その一言が刺さる。

本人の意思。

家同士の都合ではない。

政治的配慮でもない。


――彼女が、選ばなかったのだ。

子爵の顔色が変わる。


「愚かな……!」


机を叩く。

計算が狂う。

グラーツ侯爵家の次男を娘が籠絡し、婿入り先であるヴァイスベルク侯爵家を掌握させ、さらにグラーツ侯爵家とも縁を結ぶ――そのはずだった。


娘を媒介に、両家へ影響力を広げる計算。

その前提が崩れた。

商団主が低く告げる。


「香の件が疑われている可能性も……」


「証拠はない!」

だが、その声に余裕はない。


交易への調査。

婚約解消。


偶然が……重なりすぎている。

子爵は歯を食いしばる。


「ローザリアを呼べ!」


確認する必要がある。

あの子は、どこまで知っているのか。







再び王城――


レオンハルトのもとに正式な文書が届く。

ヴァイスベルク侯爵家より、オスカーとの婚約解消の申し出。


理由――アマーリエ侯爵令嬢の意思。

彼は静かに読み終える。


「……強いな」


フェリクスが問う。

「殿下は……これを予測されていましたか?」


「……いや」

わずかに口元が緩む。


「思っていた以上だ」

あの際、アマーリエは泣きつかなかった。

政治的被害者にもならなかった。

自分で線を引いた。


「ヴァイスベルク侯爵家は安泰だな」


低く呟く。

そして続ける。


「ベルク子爵側は、動揺するだろう」


「はい」


「そこを詰める」

感情ではない。

だが、ほんのわずかに敬意が混じる。


「このように選び直せる者は、強い」


それはオスカーにも向けられている。

そして――ローザリアにも。


敬意は、勝者だけに灯るものではない。

選ばれなかった者にも、選び直す夜は訪れる。






ベルク子爵邸、廊下ーー


「帳簿をご覧になっていましたね?」


断定。

背筋が凍る。


「……何のことかしら」


「隠し金庫。第三保管室。写しもお取りになった」


父の側近である商団主は、確信を持って続ける。


「王弟殿下に近づくのも結構。だが、我々を裏切らぬ限りにおいて」


つまりーー

監視。

利用。

囲い込み。


「賢いお嬢様なら、お分かりでしょう」


圧がかかる。

逃げ道はある。

だがその先に何が待つかは分からない。


ローザリアは息を整える。


「……私は、まだ何もしていないわ」


「ええ。だからこそ、今のうちに申し上げている」


忠告の形をした脅迫。

逃げ場はない。


男は一歩近づく。

さらに距離が詰まる。

壁が、背に触れる。


「お嬢様は聡明だ。ですが――」


視線が、顔からゆっくりと落ちる。

一瞬…すぐに戻る。


だが、遅かった。

それは分析ではない。

値踏みだ。


「あなたは、あまりに無防備だ」


意味が違う。

政治の話ではない。


「父に言うの?」


「申し上げません。今は…」


柔らかい声音。

それが、いっそう気味が悪い。


「あなたが子爵家を継げば、我々は安泰だ」


理屈は正しい。

だがーー


「あなたを失うわけにはいかない」


“家”ではなく、“あなた”。

その言葉の重みが、ずれる。


指先が、髪に触れそうになる。

触れない。

触れないからこそ、想像が先に触れる。


「……触らないで」


はじめて、拒絶が零れる。

男は笑う。


「まだ触れておりません」


余裕。

それが何よりの侮辱。

――遊んでいるのだ。


「ですが、いずれあなたは理解する」


所有を前提とした未来。


「子爵家の未来は、あなたと共にある」


それは求婚ではない。

囲い込み。

支配の宣言。


男は一礼して去る。

足音が消える。


廊下に残るのは、冷たい空気。

ローザリアは壁に手をつく。


覚悟はした。

だがーー

敵は父だけではなかった。


ベルク子爵家は、すでに父一人のものではない。


そして彼らは――

自分を“資産”として見ている。


胸の奥が震える。

ローザリアはその場に立ち尽くす。


寒気。

吐き気。

そして――怒り。


政治の駒であることは覚悟した。

だが、女として狙われる覚悟はしていない。


(利用されるくらいなら――)


拳を握る。

恐怖の奥に、初めて明確な敵意が芽生える。

けれど。


(もう、戻らない)

恐怖と同時に、火が灯る。






ヴァイスベルク侯爵邸、庭園ーー


最近、レオンハルトの訪問が増えていた。


表向きは侯爵への報告。

政治的な協議。


だが、使用人たちは気づいている。

視線が自然と向く先。


温室、あるいは書庫。

今日もまたーー


「偶然ですね、レオンハルト様」


アマーリエは静かに微笑む。


「ええ、実に偶然です」


白々しい。

だが互いに分かっている。

以前のような距離ではない。


触れない。

踏み込まない。


でも、目が逃げない。


「お父様との話は?」


「有意義でした」


少しだけ間がある。


「あなたのおかげで…」


はっきりとは言わない。

けれど伝わる。


アマーリエは視線を逸らさない。


「私も…逃げません」


それは、あの夜の続き。

レオンハルトは静かに息を吐く。


焦らない。

急がない。

でも、離れない。


使用人の一人が小声で囁く。


「もう“偶然”ではございませんね」


庭に、穏やかな空気が流れる。

政治の嵐の外側で。


ゆっくりと。

確実に。

歩みは進んでいた。






ベルク子爵家、執務室ーー


「お前は賢い娘だ」 


優しい声。


「失敗は誰にでもある」


オスカーの名は出さない。


「だが、家のために尽くす覚悟はあるな?」


答えを許さない問い。


「商団主はお前を高く評価している」


評価。

違う。

見積もりだ。


「いずれ支えとなる男だ」


父は知っている。

あの視線を。

それでも、止めない。


「お前も女だ。支えが必要だろう」


政治と欲望を、同じ皿に乗せる。


「そして…ヴァイスベルク家の娘とは、今回の件で近しくなったのだな?」


穏やかな声。


「今は、以前ほど警戒してはおらぬだろう」


一拍。

視線が射抜く。


「……むしろ、哀れみをかけているのではないか?」


肯定を強いる断定。

否定すれば嘘になる。

肯定すれば利用される。


「人はな、哀れんだ相手には油断する」


ゆっくりと言い聞かせる。


「お前は賢い。だからこそ使える」


娘ではなく、駒。


「その情を、家のために役立てよ」


ここでローザリアは悟る。

父の本命は、ヴァイスベルク侯爵家。


王弟。


権力。


「侯爵家が誤った道を選ばぬよう、助言するのも友の務めだ」


助言、裏切り。


「この家のためだ」


最終宣告。


「お前は、今は優位に立ったと感じている…」


静かに言い切る。


「だからこそ、近づけるのだ」


(お父様は、私を縛るおつもり)


(商団長は、私を欲している)


(では……私は、どちらを縛れる?)


沈黙し、目を伏せた。

震える指を隠す。


「……承知いたしました」





部屋を出て、屋敷の廊下を歩くローザリアの前方から、父の側近である商団主がやって来る。


ローザリアを見ると、勝ち誇ったように、口角が上がる。


「お嬢様、覚悟は決まりましたかな…」


ローザリアは黙ったままだ。


「あなたは賢い。逆らうべきではない」


圧が強く、服従させるように繰り返す。


黙っていたローザリアは、顔を上げ微笑む。

「ええ、逆らうつもりはございませんわ」



逆らわない。

だが、従うとも言っていない。


彼らはまだ気づいていない。

駒が、自ら盤を読むことを。

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