いざ中山・後編
「あれ、誰だろう」
パドックの中央で、男性二人と女性が打ち合わせをしている姿を見て娘がつぶやく。
「レポーターじゃないかな」
「あ、細江さんだね」
それがわかる中学生は、なかなかいないぞ。元ジョッキーの細江さんは、指示を出している男性をあまり見ておらず、出走馬ばかりを見ている。そして、二言三言マイクに向かってしゃべって、姿を消した。
私たちは真剣にパドックを周回する馬を見ていた。娘の予想はトウセンザオー。理由は
「新聞の見出しにありそうな名前だから」
一頭だけの芦毛で見やすい。私の本命アンバージャックはなんとも……パドックを内に、内に回っている。しまいには内側の芝生の上しか歩かなくなってしまっていた。
事前にネットで買っておいた馬券のはずれを確信しながら、そのまま眺めている。そういえば、東京競馬場にも以前はこんなふうにパドックの横に足場を組んで、テレビカメラが設置されていた。私はいつもその横から見ていた。テレビカメラはなくなってしまったが、見ている場所は変わらない。向こう側の角を曲がってくる馬を見たいのだ。なるべく外、外を歩く馬を探す。
いた。ワキノカイザー。何周回っても、きびきびと歩いている。首を上げて、ぐいぐいと。前の馬を追い越しそうになる。私の好みから言えば、首は下がっているほうがよい。そして回りを見渡すでもなく、落ち着いていて、なお時々闘志をあらわすように、ぶんと尻尾を振る、というのが最高。だが、これはやる気がないときとの見分けがつかないことが多い。
というより、正直パドックを見てもよくわからない。明らかにやせ細っているとか、ものすごく興奮しているとか、そんなくらいのことしかわからないのだ。その中で、ひとつものすごく注目していることがある。
それは、ボロ。どんなに強い馬でも、お腹痛いときには走れるはずがない。この方法は友人も実践済みで、お腹痛をボロで発見した一番人気を切って、見事的中した。
ワキノカイザーか……と思っている矢先、彼が目の前に来て、ボロをした。健康そのもののそれをみた瞬間、新聞にしるしをつけた。
とまれの号令がかかって、騎手が背にのる。今日は幸四郎ジョッキーを見に来たというのもある。去年、一昨年ととりたいところで頑張ってくれた。ソングオブウインドとレインダンスの騎乗だ。こころの中で、
「ありがとう」とつぶやく。
石崎駿君の顔もある。お父さんが東京に来ているときには必ず馬券を買う。地方ジョッキーの追いには信頼を置いている。パドックで『チチチチ』と馬をなだめていた姿も目に焼きついている。
私たちは何も言わず、ジョッキーを眺めていたが、となりのカップルのオトコのほうが、カノジョに、
「ほら、あれが幸四郎。あれがヨシトミ」と説明していた。娘には説明しなくともだいたいわかっているので、放置しておく。
勝春騎手と目が合った、と思う。私は心の中で、
「その節はお世話になりました」と思っていたが、あちらからしたら、
「あれ、あの女、府中でもみたな」と思ったかもしれない。私はたいてい似たような格好をしているし、ある一時は毎週土曜の第一レースからパドックにいた。あるとき、私は自分の好きな馬の写真がとりたくて、携帯電話と格闘していた。
「うまくいかないなぁ……」と思っていたら、視線を感じた。同じレースに出ていた、某有名厩務員さんが、パドックから見上げていた。全く人気のない馬の写真を、撮ろうとしていた。パドックにかぶりつきで、回りなど見えていないくらい必死だったので、殺気さえかもし出していたかもしれない。その厩務員さんとは、確実に目が合った。合った瞬間に
「な、なにもみていません!」てな具合に目をそらされたからだ。その露骨な態度に、初めて自分が必死になっていることに気がつき恥ずかしくなった。馬を引いていてもそうなのだから、馬上からならかなり見渡せるだろう。勝春騎手は、
「やばっ」という感じではなく、ごく自然に目をそらしたから、気のせいかも知れない。
そんなこんなしているうちに、レースが始まり、アンバージャック君もワキノカイザー君もどこにいるのかわからないまま、レースが終わった。ついでに手をだした京都のレースでも、
「そのまま!」
と叫んだものの(本日初叫び)、よくみると軸馬は四着。
「そのまま!」ではなく、
「木幡、させ!」だった上に、一着から四着まで印刷された馬券も紙くずという、とってもかっこ悪いことをしてしまった。もちろん、収支はがっつりマイナス。
かくして、お土産もなく、帰りの道のりも遠い『最後のガーネットツアー』は終了した。いつもと違う競馬場を初観戦場所にして、なんだか楽しかった。やっぱり、現場が一番だ。二月には、東京競馬場に行き、できれば阪神にも京都にも行きたい。同一年に全制覇……ああ、でもやっぱり一番行きたいのは中京だなぁ……うん、初ローカルは絶対に中京。
ということで、勝ち味に遅い私は、五百円玉貯金を始めるのであった。