※息子の願い
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「……あか、い」
「っ!」
高宮安武は自らの髪の毛にそっと触れてくる男に、なんとも奇妙な感覚を覚えた。
それは、どこか懐かしく、そして安武が手を伸ばしてももう手の届かない過去と繋がっているようだった。
(にゃあ)
時々、安武は人間でいる事がとても面倒極まりない事のように思える事があった。
そういう時に思い出すのは、必ず前世の日々だった。
獲物を追いかけ、縄張りに入りこんで来た余所者に爪を立てる。
眠くなれば眠るし、腹が減れば食べるし、発情期が来れば交尾をする。
そして。甘えたければ、甘える。
(にゃあ、にゃあ)
そういう、即物的で自らの欲に従って、まっすぐ生きていた時代が、人間である安武にもあった。
もちろん、猫として生きてきた時代だ。
(にぃ)
しかし、人間として生まれて変わり、その生き方は大きく変わった。
それは安武にとって良い変化とは言い難かった。
人間なんて面倒なばかりで、ちっとも良いものではないと安武は常々思っていたのだ。
だが、安武の猫の時代の育ての親である“兄貴”は、人間の事を面白いととても興味深げに見ていた。
その目には、どこか憧憬のような眼差しがあり、兄貴はよく人間の真似をして過ごしていた。
そんな兄貴の行動や気持ちが、猫として生きていた時代の安武には少しも理解できなかった。何故、そんなにも兄貴は人間に興味を抱くのか、そんな事より自分の獲って来た獲物を見て欲しかった。
たらり、たらり。
安武は目の前で意識を失い、鼻から真っ赤な血を流す男をジッと見つめていた。
この男は不思議な男で、安武にとっては珍しく直感的に気に入った男であった。
「……おい」
「っぅぁ」
安武は自分の体にくたりと寄りかかってくる男に、小さく声をかけた。
しかし、男はただ呻くだけで目を開けようとはしなかった。
安武がこの男を気に入った理由は、彼は人間でありながら猫のようだと思ったからだった。
この男は、安武が人間として生まれたせいで縛られる事となった理性や常識というものが、綺麗さっぱりないような姿をしていた。
見た目がおかしいという訳ではない。
生き方が、そう思わせたのだ。
「…………」
安武はそれを酷く羨ましく思った。
安武は猫に戻りたかったのだ。
猫として、また兄貴と共に自由に駆け回りたいと願ったのだ。
たらり。
けれど、もう安武にはそれは叶わない願いだった。
安武はもう人間になってしまった。
安武は遠い過去、大好きな兄貴の姿を見つけて道路へ飛び出した。
車が走っている事や、それによって多くの同族が引き殺されてきた事、自分が死ぬ事なんて、道路の向こうの兄貴を見た瞬間に消えて無くなってしまった。
その時の安武は、ただ、ただ兄貴に会いに行く事だけを思った。
そうして、安武は死んだのだ。
たらり。
けれど、そんな自分にはもう戻れない。
もう、どんな事があっても安武は同じようには死ねはしない。
いくら道路の向こうに兄貴を見つけても、全てを忘れて行きたい場所になど向かえなくなってしまった。
安武は“人間”になってしまったのだ。
たら、り。
「ん……」
安武は人間に成り果ては自分を振り払うように、自分の髪の毛に手を添える男の鼻に舌を這わせた。
そう、昔はよく兄貴にこうしてもらった。
ぐるっと体でまるまって、舐めてもらった。
ぺろり、ぺろり。
何をやっているんだ、とか。
汚い、だとか。
血の味がする、だとか。
そういう事は頭の片隅から離れなかったが、安武はその時遠い過去を思って男の血を舐めた。
安武は、猫に戻りたかった。
猫のように、また生きたかった。




