一足先に、泣く子と親と
「あにきが……いねぇ」
どこにも、いねぇ。
そう言ってふらふらしながら店の中に入って来たアカの姿に、俺も皆もギョッとしていた。
声をかけようにも余りにも盛大に水を出し続けるアカに、なんと声をかければよいのかわからない。
しかし、次の瞬間。
アカの目と俺の目がバチリと重なった。
その瞬間、アカの水にまみれ弱弱しかった目が鋭く光る。
ギロリと、鋭い目が俺を捉える。
「ってめぇ!今朝逃げやがったやつだな!?あ゛ぁ!?テメェか、兄貴をどっかやったのか!?」
「っ!?」
俺を見るなり、アカは先程までの情けない顔の一切をひっこめて大股で俺に近づいてきた。
そうかと思えば、アカはそのまま俺の胸倉むと、もの凄く怒った顔で叫び散らかす。
それはまるで昨日、しろを前に吠えたアカそのものだ。
俺はあまりのアカの形相に何も言えずに小さく息を呑む事しかできなかった。
思わず目を逸らしてしまう。
これは俺の癖のようなものだった。
ぼすに喧嘩を売られ、どうにかそれを避けるためにやってきた癖。
真っ向から目をみれば、喧嘩を買う事になってしまうという。
あの、猫の中の決まりごと。
俺はいつも人間と居る時の癖でボスを見ては喧嘩を買ってしまっていた。
けれど、今回はその逆。
目を逸らしたせいで、アカの怒りは更に募ってしまった。
「やっぱりテメェか!?テメェ!兄貴をどこへやった!?答えろ!答えろ答えろ答えろ答えろ!」
「ぅうぅぅ」
くるしい。
俺はアカに胸倉を強く掴まれ、上手く息ができなくなっていた。
まるで、ぼすに爪を立てられているようだ。
ぼすを前にしているようだ。
なんだよ、なんだよ。
俺が猫の時は「あにき、あにき、あにき」なんて言ってたくせに。
なのに、俺がぼすじゃないって知ったら俺の事無視したくせに。
人間になった俺に気付かないくせに。
もう、怒ったぞ。
俺が苦し紛れにアカの目をジッと睨んでやると、アカの力はますます強くなった。
「ねこなんか……知らない」
「じゃあ、どうして今朝、渡瀬神社に居た!?なんで俺を見て逃げた!?」
「俺はいつも渡瀬神社に居る!お前が睨んだから逃げたんだ!離せ!お前なんかきらいだ!あっち行け!」
俺は思わずそう叫ぶと、胸倉にあったアカの手を無理やりどかした。
なんだよ、なんだよ。
アカは勝手だ。
どうして、こんなに怒るんだ。
昨日、無視したのはアカの方じゃないか。
そう、俺がヒクヒクなる口元を抑えながらアカを見ると、先程まで叫び散らしていたアカが、一瞬だけとても傷ついたような顔をした。
そして、次の瞬間には、アカ自身、そんな顔をした自分が不思議だったのだろう。
なにやら変な顔のまま俺を見ると、口を開いたり閉じたりしていた。
「ちょっ!いきなりどうしたのよ、高宮!ニート君、大丈夫?」
「……はい」
俺は隣で俺の背中をさすりながら心配そうな顔をするうさみさんに小さな声で返事をした。
アカはひどいやつだ。
いったい俺が何をしたというのだろう。
昨日から、ひどいやつだ。
「ちょっ!な、なに泣いてんだよ!?安武!?」
「マスター!ティッシュ、ティッシュ!」
そう俺がむかむかする気持ちを抱えて口を尖らせていると、先程まで俺に掴みかかっていたアカがその場にうずくまっている。
なにやら「うー、うー」と唸って顔を隠している。
どうしたのだろう、さっき俺が押したせいでどこか打ったのだろうか。
そう、少しだけ俺が心配した時。
「あにきぃ、あにきぃ……」
そう、蹲った下の方から小さな泣き声と共に俺を呼ぶ声が聞こえた。
その瞬間、先程まで腹の中にあったむかむかが一気に萎んで消えて無くなった。
それどころか、むかむかがいつの間にかズキンズキンに変わっていた。
何だか、とても悪い事をしたような気持ちになった。
ごめんなさいを、言わなければいけないような気持ちになった。
俺はソロソロと立ち上がると、金ピカやべちゃべちゃが取り囲むようにして蹲っているアカの所まで歩いた。
そして、俺もアカの隣に座り込む。
シクシクという昨日からよく聞いた声が、腕の下から聞こえてくる。
「よしよし、よしよし、よしよし」
「っ」
俺は先程うさみさんが俺にしてくれたように蹲るアカの背中をさすってやった。
俺は今猫じゃないからペロペロと舐めるわけにはいかない。
人間は人間を舐めたりしないからだ。
けど、その代わりよく手をつかって人間同士は触れ合う。
「よしよし」は泣いている子供に親は言う言葉だ。
昔、神社で遊んでいて転んだ子供を迎えに来た親が、こうやって泣いている子供に言っているのを聞いたことがある。
よしよしは、親が子供に言う言葉だ。
アカは俺の息子だ。
「よしよし、よしよし、よしよし」
そう、ひたすら俺がアカに「よしよし」していると、アカは少しだけ顔を上げて俺を睨んだ。睨んだけれど、すぐにまた目に水を溜めると、今度は黙って腕の中に顔を戻した。
「うううう」なんて声は聞こえない。
けれど、時折聞こえる苦しげな息を吐く音に、俺はただひたすら「よしよし」を続けてやったのだった。




