「終」
それからの世界は不変で、あの時の騒動は夢であったのだと世間からは思われた。
しんしんと雪が降り積もる永観三年一月三日。
ここ横川の定心坊で今まさに臨終の床に伏している老人が、弟子たちに囲まれ眠っていた。
老人は良源、その人だった。
「すまないが…………ひとりにしてくれまいか」
いつの間に目を覚ましたのだろう、良源が弟子たちにそう告げた。
その意を汲んで弟子たちはすぐに坊を出てゆく。
人気がなくなったのを見計らって良源が体を起こし、扉の方へと声をかける。
「そこにいるのだろう? 入ってきなさい」
すると、扉がゆっくりと開き、子供が一人入ってきた。
良源はにこりと笑みを浮かべ、その子供を傍らに呼ぶ。
「もう姿を見せないと思っていた」
「…………」
「まさかその姿でここに来てくれるとは思わなかったぞ、維将」
その言葉に子供……維将は視線を落としたまま小さく頷く。
「何か言ってくれないのか?」
「………私は……お師様と離れたくないのです」
良源の命の炎が尽きようとしているのを知っているのだろう。
維将はそうとだけ言うと涙をこぼす。
「死なないでください、お師様」
「と言われてもな…」
困ったように頬を掻く。
「私はただの人だ。寿命以上の生は受けられん」
「…………私を置いていかないでください」
既に妖として生きる維将は年を取らない。
だが人として生きる者たちは確実に年を重ねてゆく。
その差は大きい。
「維将。なぜ私がここに定心坊を結んだのか知っているか?」
褥に横たわった良源が甲斐甲斐しく世話をする維将に声をかけた。
「横川に、ですか……?」
枕元に座った維将が問い返す。
「そうだ」
「それは………もともとお師様がこの場所で修行を積んでおられたからですよね」
己がまだ人として生きていた頃に、この場所で師は僧として修行を積んでいた。
「それだけだと思うか?」
「え?」
「お前がいつ戻ってきてもいいようにこの場所に坊を結んだのだ」
妖の姿でも人目を避けて通ってこれるように。
そういうことなのだろう。
師の優しさに、維将は再び涙を浮かべた。
そして幼子のように良源の胸へと飛び込む。
骨と皮だけの痩せ細った姿。
あの頃の面影は目の強さだけだった。
だが心の中は昔のまま。
「少し疲れた」
頭を撫でながら良源はそう呟き、目を閉じる。
「はい。おやすみなさいませ、お師様」
「ああ」
鼻をすすって涙をぬぐうと踵を返し、そっと坊を出てゆく。
「今までありがとうな、維将」
その背に向けて良源は感謝の意を述べた。
その日の午後、良源は大勢の弟子に見守られながら息を引き取った。
享年七十四歳。
弟子たちの、良源の死を悼む声がここまで聞こえてくる。
維将は坊から少し離れた場所に佇み、その声をぼんやりと聞いていた。
「お師様…………」
妖の姿に戻って異界へと戻ろうとしたが、師が心配でここにとどまってしまった。
結界を張れば妖気は漏れず、見鬼の才を持つ者でさえも気づくことはない。
「本当にお前は昔から泣き虫だな」
不意に背後に人の気配が生じた。
振り返れば、そこには若き日の良源が立っていた。
「お師様――――」
「いつになればその泣き虫は直るのか心配になったぞ。これでは成仏できん」
この責任をどうとってくれるのだ。
文句を述べる良源に、維将は胸の奥が詰まるのを覚えた。
ぶわりと涙があふれる。
「成仏するまでお前には面倒をみてもらうぞ」
おい、聞いているのか?
「……はい………はい…聞いていますとも」
「だから泣くな」
抱きしめる良源は、その維将の背を優しく撫でる。
「とにかく積もる話はお前の宮に行ってからだ。晴明もたまには来ているんだろう?」
ぽんぽん、とまるで幼子のようにあやしはじめた良源に、維将は顔を真っ赤にして抗議しようとしたがその気力もなくされるがままになってしまう。
「そういえば博雅殿もそっちで世話になっているとか聞いたぞ……」
「ですから……恥ずかしい……っ、です………」
二人の声は次第に遠ざかり、そのあとには雪はしんしんと降り積もる。
そしてなおも一層山を白く染め上げてゆくのであった。
≪ 完 ≫
いかがでしたでしょうか。
一年間という長期間でのお付き合い、誠にありがとうございました。
この話を書き始める直前に比叡山は横川の元三大師堂に小説の成就祈願をしに行きました。
元々良源という人物に興味を持っていて、その人物に添わせるような形で維将というキャラを書きました。
この二人は本当に愛着を持って書かせてもらったので、終わるのが無性にさびしかったです。
時間の都合上、書けなかった場面もあったりします。
まだ書きたかったな……。
そして今回、ようやく完結ということで、次は満願成就の報告をしに行きたいと思います。
次回作は幕末の京という設定を考えています。
もしよろしければまたお付き合いください。




