第10話「維将、初めて大内裏に入る」
最初に見えたのは長い髪だった。
顔は分からない。
だが、それが女性だということはなぜか知っていた。
女性は一面金色の草原に静かに佇み、同じく金色の空を見上げている。
サワサワ……
風が草原を渡り、音を奏でてゆく。
不意に女性がこちらを振り返った。
気が付くと、室内はまだ暗かった。
几帳を挟んだ向こう側では、晴明のかすかな寝息が聞こえている。
むくりと起き上がり、着替えて外へと出た。
空を見上げると、徐々にだが白んできているのがわかった。
「…………」
寝癖の残る髪を指で梳きながら、欠伸をかみ殺す。
昨晩はあれからずっと晴明から小言を言われ続けていた。
理由はわからない。
なぜあのように晴明は自分に対してきつい物言いをするのだろうか。
反対に、師に対しては素直というかなんというか………
「やっぱり俺ってまだ信頼に値しないって思われてるのかなあ」
はあ、と溜息をつき、視線を地面に落とす。
だが、ここでうじうじとしていては折角の時間を無駄にすると思い直し、維将は庭へと降りた。
太陽が顔を出す頃に起きてきた良源は、庭で鍛錬に精を出す維将を呼んだ。
「おはようございます、お師様」
呼びかけられた維将は振り返って、師の姿を認めるや一目散に駆け寄ってきた。
その様子に、昔とある武士の邸で飼われていた犬と同じだと思い至った良源が思わず笑みを浮かべる。
「昨晩は眠れたか?」
「あ、はい。あのあと、寝るまで晴明様がついてくださっていたので眠れました」
そう告げる。
寝るまで晴明が傍らにいたのは確かだったが、お小言つきだった。
だが嘘は言っていない。
「そうか」
おそらくはまだ惰眠を貪っている晴明の局を見やり、良源が頷く。
「先に朝餉にするぞ。食べ終わったらすぐに邸を出るからな」
「わかりました」
返事をし、すぐに階を駆け上って師の元へ向かった。
良源は維将が来るのを待ち、踵を返す。
二人分の足音が遠ざかってゆくのを聞きながら、褥の中で晴明は重い瞼を持ち上げた。
だが起き上がらぬまま、寝返りを打つ。
「…………なんだ……あの夢は」
このところ夢というものは一切見なかった。
だが、昨晩に限って見た夢は違った。
覚えているのは、一面の黄金色をした稲穂。
あれは草原なのだろう。
そして豪奢な衣装をまとった女性がその向こうに見えた。
長い髪を背に流し、そこに佇んでいる。
陰陽師の見る夢には何かしら意味がある。
そうだとして、あの夢は己にいったい何を示しているのだろう。
晴明は再びごろりと寝返りを打った。
これまで見た夢はここまで難解なものではなかった。
ではこれは。
「……………………考えるのはやめだ」
これ以上考えると頭が沸騰しそうであったため、晴明は考えるのをやめてひと寝入りすることに決めた。
目を閉じるとすぐに睡魔が襲ってくる。
そうして再び穏やかな海の底へと沈んでいったのである。
朝餉を済ませた良源と維将は、すぐに邸を出た。
昨晩の内に忠行が連絡をしてくれていたためか、すんなりと大内裏へと入ることができた。
大内裏すら初めての維将だったが、それ以上に内裏に入ることができたため、終始辺りが気になって仕方がないようだ。
興味津々で辺りを見回している。
「維将、聞いているか?」
興味をひかれてそれを見つめていた維将に、良源が声をかけた。
「え、あ、はい。先に陰陽寮に行って必要な資料を蔵から出してくるんですよね」
分かっています。
「この書付の資料を出していてくれ。私はここで必要な資料を借り出す」
「わかりました」
「陰陽寮の位置はさっき教えたとおりだ。もし道に迷ったら近くにいる官人か武官に聞くように」
「はい」
良源から書付を渡され、返事を返すとすぐに駆け出した。
「…………え、と…あれが“宴の松原”で、それを右に見ながら…」
ここに来るまでの道すがらに教わった道順を口に出しながら先を急ぐ維将だったが、不意に呼び止められた。
まさかここで声をかけられるとは思わず、飛び跳ねてしまった。
「ああ、すまんすまん。驚かせてしまったか」
声をかけたのは直衣姿の博雅だった。
維将が一人で大内裏を歩いていることに驚いて声をかけてきたのだった。
「良源殿か晴明の供か?」
「お師様の供です。これから陰陽寮に資料を取りに行くところです」
「そうか…………」
顎に手をやり、しばし考え込む博雅。
「だがな、維将」
「はい?」
「お前がどこから来たのかは知らんが、陰陽寮はあっちだぞ?」
と、維将が来た方向を指差す。
「え?!」
「初めての大内裏だもんなあ。そりゃあ迷子にはなる」
うんうんと頷く博雅であったが、維将が青ざめるのを見て、
「俺が陰陽寮まで送ってやろうか?」
と助け舟を出した。
「え……でも」
「宿直(とのい)が終わったから、これから帰ろうかと思ってたところだ。お前を陰陽寮に送ってから戻っても苦にはならんさ」
さあ、いくぞ。
と歩き出す。
それを慌てて追いかけながら、維将は内心ほっとしたのだった。
御書所より資料を借り受けた良源が陰陽寮に行ってみれば、そこには維将のほかに博雅の姿があった。
そして博雅より手伝いの申し出があり、良源はそれを快く受け入れた。
確かに維将だけでは手が足りないのだ。
三人は手分けして資料から必要な部分を書き出してゆく。
とはいえ、維将はもっぱら二人の使用する紙と墨の調達に走り回っていただけだ。
ようやく終わったのは日も傾きかけた頃だった。
「終わった」
最後の一文を書き写し終えた良源が筆を置いて首を回した。
「すまなかったな、博雅殿。確か宿直明けだったか」
「いや、暇な宿直だったから、これはいい運動だった」
腕を回して凝りをほぐす博雅は、ちらりと廊下で二人が写しあげた紙を整理している維将を見やる。
「あれもよくやったと思う」
「そうだろう、そうだろう。なにせ私の一番弟子だからな」
ふふん、と得意げに良源は告げた。
その様子に博雅が苦笑を漏らす。
「いい弟子だな」
そうして立ち上がると部屋を出る。
「維将。俺はそろそろ帰るぞ」
「あ、はい。今日はお手伝い、本当にありがとうございました」
維将はそう言って頭を深々と下げた。
「またな」
「はい」
頭を撫でられてくすぐったそうに身を捩らせた維将に、博雅は笑みを浮かべてそのまま歩き去った。
いい人だ。
改めてそう思った。
「維将、そろそろ資料を返しに行くぞ」
局の中から良源の声がした。
「あ、はい!」
慌てて中へと駆けてゆく。




