閑話休題「“お師様”」
良源が維将を育て始めた頃のお話で、ほんわかストーリーです。
あれはそう……維将を兄弟子たちとともに育て始めてすぐのことだったか。
当時、既に私は僧侶として修行をしていたから、あの座主のお言葉には驚きを隠せなかった。
「え………?」
座主の言葉を師より伝えられた良源は、まさかという表情を表に出した。
だが、顔を上げた先の師は、冗談を言うべき人ではないことは良く知っている。
「私が………ですか?」
「うむ。座主はすべての可能性を踏まえたうえで、お前に赤子を育てよとのお言葉だ」
「しかし……そのことと総髪にせよとのお言葉は……。私は既に得度を終えた修行僧なのですし…」
反論するも、師は黙ったままだ。
今考えてみれば師も当時の座主の言葉には驚き、そして戸惑っていたと思われる。
修行を始めたばかりの駆け出しの僧が、子を育てるために総髪になる。
それ自体が異例なことだったからだ。
座主といえど重大な案件をそうやすやすと即決できるものであろうか。
押し通せばどこかで歪(ひずみ)が生じる。
「良源」
自分の戸惑いを感じた師が声をかけた。
「はい」
「座主が何をお考えか今の私ですら計り知れない。だが、子を育てるというのは並大抵のものではないぞ」
ゆっくりと自分にわかるように師が言葉を紡ぐ。
「これもよい機会だ。お前も幼子を立派に育て上げれば何か分かるやもしれぬな」
「…………」
「……………修行も大事だが、子を育てることも同時に大事であるぞ。これも修行の一環と思えば気が楽に……」
言いかけ、ひとつ吐息をついた。
「お前もまだ若い。ひとまず一晩考えてみたほうがいいかもしれんな」
師はそう言って私の頭を軽く撫でた。
私がそのまま僧坊を出ると、すぐに兄弟子の一人が駆け寄ってきた。
峰生(ほうじょう)様だった。
「お師様はなんとおっしゃっていた?」
おそらく峰生様もこの話を人づてに聞いてご存じだったと思われる。
「………座主より“幼子を育てるために総髪にせよ”とお言葉を受けたそうです」
「…………高僧たちの総意にしては結論が早すぎやしないか?」
いつの間にそこに立っていたのか、良雲(りょううん)様が憤慨はなはだしいとばかりに口をとがらせる。
「良雲。口を慎め」
びしり、と峰生様が指摘し、ついで顎に手をやって考える。
「高僧たちが結論を急いだのにはわけがありそうだが…………。とりあえず中に入るぞ」
ちらほらと雪が舞うこの季節に長時間外にいては風邪をひいてしまうことを懸念してか、峰生様が私たちに声をかけた。
そうして他の兄弟子たちが待つ別坊へと戻った。
当時の高僧たちは私たちが知りえない情報を掴んでいたと思われ、それがために結論を急いだのだと今ではそう考えることができる。
ただ、総髪にせよという話がどこから出てきたのかがいまだにわからず、今でも頭を悩ませる。
日を追うごとに成長してゆく維将を見つめ続け、私はいつしか結果的によかったのだと思い始めた。
子を育てるのは難しい。
しかしそれ以上に喜びがあることを知った。
「お師様?」
京……賀茂忠行邸、庭に面する階でぼんやりと庭を見つめていた良源が、その声に気付いて顔を上げる。
そこで維将と晴明の二対の目が自分に注がれていることに気付いた。
「どうした?」
「どうした……て、お師様がぼんやりとしているからでしょう?」
ねえ、と維将が晴明を振り返ると、
「良源殿が、これの相手をしろと仰るからしているんです。ぼんやりとほかのことを考えないでいただけますか」
晴明がさわやかな笑みを浮かべながら思ったことを素直に口にした。
「あ~……すまん」
全く困った子供どもだと思いつつ良源は、維将を改めて見やる。
難しい時期もあったが、ここまでまっすぐに育ってくれたのはひとえに周囲の人間のお陰だと思える。
その維将の成長と同じように、自分も成長できたと思えた。
どれがどのように、という具体的なものではない。
なんとなくだが。
「お……しさ、ま」
不意に、維将が初めて言葉というものを喋った日のことが思い出された。
誰からも教わっていない言葉だった。
おそらくは僧たちが師のことをそう呼んでいたから、覚えてしまったのだろう。
「良源。顔がにやけている」
峰生様の鋭い指摘に、私はにやけていたと思しき頬を引き締めた。
だが。
「またにやけているぞ」
今度は良雲様からも指摘を受けた。
「…………お二人とも。人のことを言えませんよ」
そう切り返すと、二人も同じように緩んでいた頬を引き締めた。
三人ともが頬を紅潮させているのを見た師が笑う。
「だから言っただろう。子を育てれば自分も成長し、また喜ばしいこともある、と」
それを初めて実感した日だった。




